8話
シリウスはフィアを一度床に下ろすと、外していた甲冑と剣を身につける。
(ここは、長く留まる場所ではない)
先ほどの追手の会話を思い出す。
確かにこの礼拝堂は逃げ場がなかった。
朝になれば更に捜索の足は広がり、追い詰められるだけだろう。
外の気配が完全に消えたことを、耳と空気の温度で確かめてから。
シリウスは、祭壇の影で静かに姿勢を変える。
フィアを起こさないよう、腕の力に気を配り、抱き上げる。
眠りは浅いが、意識は浮上しない。
額が彼の胸に触れたまま、呼吸だけが続いている。
外套をもう一度、きつく整える。
彼女の体温を逃がさないための動作であり、同時に――外界と切り離すための、意図的な距離の確保でもあった。
礼拝堂を出る前、シリウスは一瞬だけ振り返る。
祈りを捧げることはしないが、一時の安息とフィアを守れたことへの感謝を込めて、頭を下げる。
音を殺して外へ。
未だ闇の深い森は、先ほどよりも深く、濃く感じられた。
追手が通ったことで、空気がわずかに乱れている。
だがその乱れを、シリウスは逆に利用する。
足跡の重なった場所を踏み、
枝の折れた方向をあえて横切り、
追跡を誤認させるような進路を選び、進む。
森の奥へ。
人が避ける、獣道ですらない場所へ。
そこから森を抜けるまでの道の記憶は朧げだった。
枝を払い、斜面を下り、湿った地を踏み越え、ただ“進む”という行為だけが積み重なっていく。
フィアは、途中で一度だけ身じろぎした。
喉の奥で小さく息を吸い、何かを探すように指が動く。
シリウスは歩みを止めないまま、腕の位置を変えた。
外套の内側、胸に近い場所へと、さらに引き寄せる。
森の匂いが薄れ、土に混じる乾いた塵の気配が増えたころ――
空の色が、わずかに変わり始めた。
夜明け前。
最も暗く、気温の下がる時間帯。
森を、抜けた。
最後の木立の先に、踏み固められた地面が現れた。
街道だ。
馬の蹄と車輪が刻んだ、逃げ場のない線。
シリウスは、視線を避けるために街道そのものには出ない。
その脇、少し離れた低木の陰に身を潜めながら進む。
そこに、古いが手入れの行き届いた馬車が、一台通りかかる。
夜明け前の商いに向かうのか、あるいは夜を避けた帰路か。
シリウスは一瞬身構えるが、馬車に教会の印はない。
神の名を掲げることを誇りにしている教会の者たちは、どんなときでもその証を隠すことはしない。
御者台に座る男が、こちらを見た。
その視線が、外套に包まれたフィア、
甲冑を外しきれずにいるシリウス、
二人の様子を、一瞬で測る。
男は、問いを選ばなかった。
「……訳あり、かい」
男の言葉には独特の訛りがあり、男が商売の盛んな隣国のものだと気がつく。
シリウスは男の言葉にただ、頷く。
男はため息をつき、周囲を一度だけ見回した。
「金さえ貰えりゃ、見たことも聞いたことも忘れる。
――そういう約束なら、乗せてやる」
それは親切ではない。
善意でもない。
だからこそ、今のシリウスには、何より信頼できた。
彼は外套の留め具に手をかける。
青布を留めていた、宝石付きのブローチ。
教会の騎士の装備として、飾りであり、身分証でもある品。
「その石、外して加工するか、外の国で売ったほうがいい」
躊躇なく、それを外し、差し出した。
商人の目が、一瞬だけ見開かれる。
「……おい、これは」
「足りない、とは言わせません」
低い声。
だが、脅しではない。
商人は舌打ちし、ブローチを懐に入れると、馬車の脇に手を伸ばした。
「……違うな、貰いすぎだ。
黙って受け取ったら、あとで寝覚めが悪い」
革袋が投げ渡される。
中には中身の入った水筒。
さらに、幾らかの硬貨。
「その格好は目立つ。
この夜明けの時間に俺が見つけたくらいだ。
積み荷の中から服を選べ、それでチャラだ」
シリウスが戸惑う様子にため息をつくと、商人は二人分の着替えを見繕うと、馬車の中で着替えておけと指をさす。
「街が近い、大きな街だ、人目を避けるには向いている。
俺の名は聞くな、俺に名乗るな。
降りるのも、俺が合図する」
「……感謝します」
シリウスは、ただ、短く頷く。
馬車に乗り込むとき、
フィアの頭がわずかに彼の肩に触れた。
その重みを、彼は拒まない。
馬車が動き出す。
街道を進む振動が、眠りの底にいるフィアの呼吸を、わずかに揺らす。
シリウスは先に自分の服を着替え、青い外套に包んでいたフィアに手を伸ばす。
「……」
しかし、聖女の装衣を脱がせることに躊躇し、その上から商人に渡された服を着させる。
馬車の揺れに目を開けたフィアに、シリウスは微笑む。
「おはようございます、寒くはありませんか、フィア様……」
昨夜の出来事に触れないよう、穏やかな言葉を選ぶ。
フィアはまだどこか寝ぼけたような顔で返す。
「おはよう、シリウス……もう、朝のお祈りの時間ですか?」
シリウスがフィアの言葉に何も返せずにいると、フィアは徐々に自分の状況を思い出したのか、シリウスの目を見つめる。
「ごめんなさい」
馬車は街の門をくぐる。
それが何に対する言葉だったのか、シリウスには捉えきれないまま――
馬車が停まったのは街の外れ。
人の気配が増え、朝の準備に追われる音が混じり始める。
商人がシリウスに声をかける。
「ここで降りろ、人が多いから紛れる」
シリウスは頷き、フィアに手を貸し、馬車を降りる。
「……本当に、助かりました」
短い言葉だけを残す。
「こちらこそ、良い品を安く買えて満足だよ」
商人は肩をすくめ、それ以上何も言わずに馬車を走らせていった。




