第八話 動き出す帝国
帝都参謀本部――参謀長執務室。
「どうされたのです? 酷く苛立っておられるように見えますが」
整った顔立ちの青年が、机に向かうウィンタールに声を掛けた。
「うるさい。黙れ、カルステン先任参謀」
「大変失礼しました」
背筋を伸ばし、軍人らしい所作で謝罪する。しかし、その表情には一片の反省も浮かんでいない。
ウィンタールは苛立ちを隠そうともせず、青年を手で追い払う。カルステンは軽く敬礼をすると、何事もなかったかのように執務室を後にした。
「ハイリンケルンの小僧め……舐めた態度を」
ウィンタールは吐き捨てるように呟き、机上の書類を勢いよく払いのけた。
ハイリンケルン・カルステン先任参謀――上級貴族の名門の出であり、階級は准将。
代々、帝国軍に高位の将校を輩出してきた家系だ。
下級貴族出身のウィンタールを軽んじ、あからさまに見下している。
階級こそ下だが、その態度は常に高慢で、服従の言葉の裏には嘲りが滲んでいた。
それが、ウィンタールには我慢ならなかった。
もっとも、彼を苛立たせている理由はそれだけではない。
昨夜からアシュフォードとの連絡が途絶えている。
本来であれば今朝、報告のためにここへ来るはずだったが、時刻はすでに十五時を回っても姿を見せない。
その沈黙が、焦燥をより強くしていた。
と、不意に廊下から二人の話し声が聞こえてきた。
「なぁ、この服……きつくないか?」
「我慢しろ。嫌なら外で待っていればいい」
どこか聞き慣れた男の声と、聞き覚えのない女の声。
ウィンタールはその主の足音が近づいてくるのを察すると、慌てて椅子に腰を下ろし、乱れた前髪を整えた。
扉は半ば開いていた。
一応は上官の部屋だ。ヴィクターは軽くノックしてから入室した。
「先任参謀か? 先ほどは済まなかったな。いろいろと立て込んでいてな――なっ!」
ウィンタールは振り返り、言葉を失った。
まるで幽霊でも見たかのように、目を見開いている。
「カルステン准将ではありませんよ。参謀総長」
「お……お前……ヴィクター中尉、か?」
しどろもどろな声。理解が追いつかないのも無理はない。
殺したはずの男が、今こうして目の前に立っているのだから。
先にアシュフォードが見せた反応と、ほとんど変わらない。
「――遺跡調査から戻っていたのか?」
問いの声に感情は乗っていない。だが、微かに震えている。
さすがは帝国の参謀総長、平静を装う術は心得ているようだ。
「ええ。確かに戦争に使えそうなメタル部品はいくつかありましたが、資源としては乏しいものでした。少し早いですが、帰還の報告に伺いました」
「……そうか。そういえば――アシュフォード少尉はどうした? それに、その後ろの女は?」
ウィンタールの視線がヴィクターの背後にいる白銀の女へと移る。
その目には驚きよりも、わずかな焦りが混じっていた。
「アシュフォード少尉とは連絡が取れておりません。自分も心配しています。彼女――は代理の士官です。新人ですが、今後は自分の側近として仕えさせるつもりです」
「そうか……お前もか、ゴホンッ! いや、ならば仕方あるまい」
動揺を隠すように咳払いをして、ウィンタールは無理に笑みを浮かべた。
「おい、女。名前は何という?」
指先でアナスタシアを指し示す。
だが、彼女は一言も発しない。
静寂が部屋を包んだ。数秒、いや、十数秒――。
やがてウィンタールの眉が吊り上がる。
「黙っているつもりか! 私は参謀総長だぞ!」
怒声が執務室を震わせた。
しかし、アナスタシアは微動だにしない。その冷ややかな瞳が、逆にウィンタールの神経を逆撫でした。
「お前は一体、何者なのだ!」
ウィンタールの怒声が執務室に響く。
アナスタシアは、深くため息を吐いた。
「――ルリ」
その一言に、ヴィクターの眉がわずかに動く。
聞いたことのない名だ。しかし、今は余計な口を挟まず、ただ状況を見守った。
ウィンタールは疑いの目を向けながらも、面倒そうに手を振った。
「ふん……下がれ」
部屋を出るとき、アナスタシアがふと見せた笑み。
それは一瞬だけ、下卑た男をあざ笑うような――冷ややかな笑みだった。
「おい。さっきのは一体どういうことだ?」
廊下を抜け、石造りの階段を降りながら、ヴィクターは前を歩く女に声をかけた。
「何がだ?」
「とぼけるな。ルリなんて名、聞いたこともない」
「ああ、あれか。適当に付けただけだ」
「なぜ嘘を?」
アナスタシアは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
瞳の奥に冷たい光を宿しながらも、どこか楽しげに笑う。
「分かっているだろう? あの男は私を品定めするような目で見ていた。あんな下卑た視線の前で、本当の名など名乗る気にならん」
そう言って歩き出す。
が、階段の途中でふと足を止めた。
「……それに」
言葉が途切れた。
ヴィクターが眉をひそめる。
「それに、何だ?」
「――本当の名はお前が知っていればそれで良い」
アナスタシアは視線を逸らし、わずかに頬を染めた。
その仕草を見ても、ヴィクターはただ首をかしげるだけだった。
翌日。
ヴィクターとアナスタシアは再び、参謀総長執務室を訪れていた。
「君に新しい任務だ」
ウィンタールは無造作に書類を手渡すと、葉巻に火を点けた。
またか、と心の中でヴィクターはつぶやく。手元の書類には、はっきりと記されていた。
『東郡前線司令部への転属命令』
ウィンタールは、何が何でもヴィクターを参謀本部から遠ざけたいらしい。
東郡司令部――隣国オリアウス王国との軍事境界線を監視する最前線の拠点。
貴族派の強硬策で両国はすでに臨戦状態。東郡は今、最も危険な任地だった。
ヴィクターは小さく息を吐くと、顔を上げた。
「何か文句でもあるのか?」
ウィンタールの声は、威圧というよりも探りを含んでいた。
「いえ、何も。明朝、出発します」
静かな返答に、ウィンタールは拍子抜けしたように葉巻を落としかけた。
「……そうか。まあ、頑張ってくれたまえ」
どこか安堵したようなその声に、アナスタシアは冷たい視線を送る。
ウィンタールはそれを受け止めようともせず、続けた。
「それと――ルリ少尉は本部で待機だ。君ひとりで行ってくれ」
その言葉に、アナスタシアの目が鋭く光る。
ヴィクターは一拍置いてから、静かに口を開いた。
「閣下、それはできません。彼女は私の直属の部下です。それに、東郡では人員も限られます。補佐官は必要でしょう」
「なっ……君は、上官の命令に――!」
ウィンタールの言葉が終わる前に、ヴィクターは書類を脇に抱え、敬礼した。
「では、失礼します」
踵を返すその背中を、ウィンタールは睨みつけたまま動けない。
葉巻の煙だけが、静かに天井へと立ちのぼっていった。




