第五話 僅かな休息
ウィンタールは、確かに喜んでいた。いや、盛ってもいたのだろう。
その喜びは当然である。彼の愛人であり、最も信頼する部下の手柄が、参謀本部の邪魔者を一掃したのだから。ヴィクター・アドラーの死――それを彼女の口から聞かされた瞬間、参謀長の心中には大いなる安堵と満足が広がった。これで中央の権力は完全に、彼のものとなる。
彼は、これまで部下たちに厳しく接し、盾突く者を徹底して排除してきた。だが、ヴィクターほどの人物を始末するのには、予想以上の労力を要したことは想像に難くない。
邪魔者が消えた今、参謀本部という城は、まさに彼自身のものとなったのだ。
夜も更けたホテルの一室で、ウィンタールは満足そうに煙草の煙をくゆらせる。隣には情事を終え、頼まれた役目を終えた女がいる。彼女は微笑み、静かに頷いた
「よくやった。とりあえず来週には中尉昇進となり、一ヶ月後にはヴィクター中尉の裏切りを未然に防いだとして大尉に昇格だ」
「ありがとうございます。私は閣下の側に入れて幸せ者です」
体に顔を乗せながら女は微笑んだ。
「もう一度聞くが、本当に死んだのだな?ヴィクターは」
「ええ。あの傷を負って生き延びる者など、いませんよ」
繰り返される確認の言葉に、彼女は少し辟易していた。だがそれも無理からぬことであった。権力者は常に、疑念を抱きながら進まねばならぬのだから。
深夜三時半、街は眠り、ホテルの窓外には雨の跡が光る。ウィンタールはいびきをかき、 完全に安堵の眠りに落ちていた。彼女はその姿を横目に、静かに部屋を出た。
長めのコートを纏い、アシュフォード少尉は路地裏の闇に紛れながら足を速めた。
その顔を、誰にも見られてはいけない――少なくとも、この時刻、この街では。
いつも通りの道のはずだった。だが、背後から、低く抑えた声が、まるで闇そのものから溢れ出すかのように響いた。
「どこへお急ぎですか? アシュフォード少尉」
振り返ることもできず、足を止めることもせず、彼女はただ歩き続ける。無視すれば、声も消えるだろう――理性はそう告げていた。しかし、声はまるで彼女の意思を嘲笑うかのように、確実に距離を詰めてくる。
「無視ですか? アシュフォード少尉」
背後の影は、確実に、そして着実に迫ってくる。足音も、息づかいも、すべてが存在を主張していた。少尉の心臓は鼓動を速める。理性では逃げられるはずだと分かっていても、体は反応を拒み、恐怖の重みで足が止まりかける。
「だから――どこへ行くんだ、アシュフォード少尉」
突如、肩を強く掴まれる。冷たい感触が皮膚を刺し、全身に電流が走った。思考が瞬間的に停止し、目の前が暗転する。理性も、警戒心も、すべてを奪われた瞬間、アシュフォードは闇の底に沈み込むように意識を失った。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
静寂の中で、一定の間隔を置いて水滴が落ちる音が響く。ぽたり、ぽたり。その単調な音が、まるで彼女の意識を呼び戻すための信号のように耳に届いた。
目を開けると、視界は薄闇に沈んでいた。しばらくして、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。冷たい空気。湿った鉄の匂い。壁に掛かった鉄製のバケツは歪み、錆びたロッカーには荷物が乱雑に押し込まれている。粗末なパイプ椅子の感触が背中に伝わり、自分がそこに縛り付けられていることを悟った。
腕は後ろで交差し、絹紐で強く結ばれている。足もまた椅子の脚に巻き付けられ、逃げ出す余地はない。
軽く身をよじってみても、紐が軋むだけでびくともしない。
胸の奥に焦燥と、理解できぬ恐怖が少しずつ広がっていく。
どうして、私はここに?
最後に覚えているのは、背後から肩を掴まれた瞬間だった。
その後の記憶は闇に飲み込まれている。
そのときだった。
「逃げようとするな。面倒事が増えるだろ」
低く、湿った声が空気を震わせた。
視線を声の方向へ向ける。ライトが一つ、音もなく灯り、その光が男の顔を照らし出した。
息が止まる。喉の奥が凍り付く。
彼女は見間違いかと思った。
あの男――ヴィクター・アドラー。確かに自分の手で殺したはずの男が、そこに立っている。
頭の中で否定の言葉がいくつも渦巻く。幻覚か、夢か、それとも狂気の産物か。
だが、男の吐く息も、靴音も、すべてが現実の質量をもって彼女の五感を刺していた。
こういうときには目をこすって確かめたい――けれど、その両手は絹紐に縛られ、微動だにしない。
何度も瞬きをし、視線の先に焦点を合わせる。
――だが、どう見てもあの男だった。




