第十三話 カルステンの憂鬱
バラモンド要塞での一件は、すぐに帝都の統合参謀本部にも伝わった。
「――それで、射殺したと?」
「はっ。アレス中将の直接命令だったと報告を受けております」
カルステン先任参謀は白い手袋をはめながら、隣を歩く女将校の報告に耳を傾ける。
ジョゼフ・マッキンゼー中佐――彼の側近であり、下級貴族の出ながら、その才覚で上級貴族すら黙らせてきた。
それが気に入られたのだろう。今ではカルステンの右腕として、彼の最も近くに仕えている。
ショートボブに切りそろえた髪が揺れ、整った立ち姿は上品ですらある。その柔らかな物腰に、密かに心を寄せる将校も少なくなかった。
「少々、アレス閣下は早計でしたね」
「全くだ。あれでは王国に喧嘩を売っているようなものだ。何故、それがわからんのか……」
ハイリンケルン・カルステン――名門貴族の出でありながら、平民の視点を失わぬ稀有な男だった。
その感性は、母の影響によるところが大きい。
幼い頃から、ハイリンケルン家の嫡男として、礼法や戦術学、政略を叩き込まれた。
父は生粋の貴族で、平民を見下すことを当然とし、母はその度に眉をひそめた。
いつしか、屋敷では罵声と沈黙が交互に響くようになった。
――そして、彼が十二歳の誕生日を迎えた夜。
母は浴室で手首を切った。
真紅の水面がゆらりと揺れ、カルステンの幼い瞳に映る。
当然、それが公になることはなかった。
大貴族ハイリンケルン家の不祥事が露見すれば、一族の名誉は地に落ちる。
父は全てをひた隠しにし、母の存在を記録ごと抹消した。
それ以来、カルステンの口から母の名が語られることは一度もない。
だが、彼の脳裏には今もあの日の言葉が残っている。
『カルステン、よく聞きなさい。あなたはハイリンケルン家の次期当主。これから軍人として歩む中で、しがらみも妬みも避けられません。ときに謀略を用いることもあるでしょう。けれど――この国の民を見捨ててはなりません。貴族も平民も、等しく愛しなさい。それが母との約束です』
――それが、彼の唯一の戒めであり、信条でもあった。
思考を振り払うように、カルステンは参謀本部の会議室へと足を踏み入れる。
「情勢はどうだ? 列強の動きは?」
中央の机には、帝国を中心とした精巧な世界地図が広げられていた。報告を待っていた若い将校が立ち上がる。
「はっ。オリアウス王国からは今のところ動きはありません。斥候部隊だったという可能性も――」
「斥候だろうと難民だろうと、結果は変わらんよ」
カルステンは静かに言い放つ。
「我々は、王国に大義名分を与えてしまった。問題はそこだ。……他の列強の動きは?」
「東光連合が、港に艦隊を集結させているとの報告が密偵から届いています」
カルステンは顎をなぞりながら地図を見つめる。
帝国が陸軍大国であることを見越し、東光連合は海上戦で優位を取るつもりなのだろう。
東光連合。西方にある三つの小国が契合し他の列強と肩を並べるまでになった。
だが、彼にはもう一つの予感があった。
――オリアウス王国も動く。
王位選が終わり次第、何らかの形で帝国に攻めてくるはずだ。
帝国はすでに列強から孤立している。今回の件で拍車がかかっただろう。
「あの、参謀次官は呼ばなくてよろしいのですか?」
「ああ。今呼んだら、考えがぐちゃぐちゃになるだけだ」
参謀次官――あの男はウィンタールの飼い犬のような存在だ。主の一言に従い、声を上げることなく動く。議論を乱しかねん。だから今ここに呼び入れるのは得策ではない。
カルステンは主戦派ではなかった。むしろ現状を鑑みれば、彼の立場は穏健と呼ぶべきで、列強の情勢から見て無理に戦端を開くべきではないと考えている。だからこそ、あの若い将校に期待を抱かずにはいられなかった。
ヴィクター・アドラー中尉――参謀本部出身の若者が、前線に赴きながらも公然と講和を説いたその度胸は、並の者ではない。平民出身を恥じるでもなく、正面から理を説く姿勢は、貴族たちの驕りをただす一縷の希望に見えた。
カルステンはふと思い出す。
「ジョゼフ中佐、ヴィクター中尉はバラモンド要塞に出向しているんだな?」
「はい、先日からウィンタール閣下の指示で赴任しております」
「すぐに連絡を取ってくれ。今回の件について、色々と聞きたい」
ジョゼフは頷くと、足早に部屋を出て行った。
バラモンド要塞――ヴィクターの自室。夜の静けさが薄く壁を満たしている。
「いつまでも悲しんだふりをしているんだ、ヴィクター」
膝を突き合わせて座るアナスタシアが、からかうように言った。
「黙れ。ディーゼルの手先どもに聞かれたら面倒だ」
そう言いつつも、ヴィクターの口元はわずかに緩んでいた。
「失礼します! ヴィクター中尉、参謀本部のジョゼフ中佐という方から通信です!」
「――了解した」
ヴィクターはアナスタシアを伴い、通信室の前まで歩いていった。
ドアノブに手をかけようとしたその時――。
「また通信か? 中尉」
背後から声が飛ぶ。振り返ると、そこには仁王のように腕を組んだデンケンハルト少将が立っていた。
「デンケンハルト少将こそ、《《また》》、何のご用でしょう?」
「誰からの通信だ?」
「参謀本部からです」
「ほう?」
デンケンハルトは鼻で笑い、ヴィクターを押しのけて先に通信室へ入った。
そのまま受話器を掴み取る。
「もしもし」
『ヴィクター中尉か?』
「いや、俺はバラモンド要塞、少将デンケンハルト――」
『違うなら、ヴィクター中尉に代わっていただこうか?』
淡々と、相手の声が遮った。
その一言で、デンケンハルトの眉がピクリと動く。
「俺はデンケンハルト少将だぞ! 貴官は何者だ!」
苛立ちを隠そうともせず、怒声をぶつける。
『――はあ。私は帝国参謀本部、カルステン先任参謀付き補佐、ジョゼフ・マッキンゼー中佐です。ヴィクター中尉をお呼びいただけますか?』
丁寧な口調ではあったが、その声音は突き放すように冷たかった。
デンケンハルトの顔がわずかに引きつる。
「ヴィクター中尉に何の用だ? 俺が聞こう」
「残念ですが、その件はヴィクター中尉ご本人にしかお伝えできません」
「俺は少将だぞ? 上官の命令にも従えないというのか?」
この融通の利かなさが、ジョゼフは何よりも嫌いだった。
――これだから武人もどきは。
「失礼ですが、私の上官はカルステン先任参謀ただ一人です。それに――先任参謀と、一要塞の少将とでは比べるまでもありません」
淡々とした口調に、明確な圧があった。
「デンケンハルト少将は、参謀本部の命令に従えない――そういうことで、よろしいですか?」
参謀本部を盾に取られては、いかに現場の将でも強くは出られない。
少将は苛立ちを隠せぬまま、受話器を机に叩きつけ、通信室を出ていった。
「……ふっ」
ヴィクターは笑いを噛み殺しながら中へ入る。
受話器を取ろうとした時、アナスタシアの方を振り返った。
「サイレンス・インコネクト」
アナスタシアが小声で唱えると、通信室一帯が淡い白光に包まれた。
防音の結界が展開された証だ。
「ヴィクター中尉です」
「周囲に人は?」
「誰もいません。――それで、お話とは?」
「カルステン先任参謀から、聞きたいことがあるそうだ」




