第九話 バラモンド要塞のアレス
第二部 バラモンド要塞編
帝国東郡司令部――バラモンド要塞。
見渡す限り平野が続くこの地に、ただひとつそびえる巨大な石造建築。それが帝国の誇る防衛拠点、バラモンド要塞だった。
全長一二〇メートル、岩盤を削って築かれた要塞は、建造に十年を要したという。今日まで、一度として敵に抜かれたことがない。
十五門の二十五センチ砲、無数の機関銃陣地、そして最新鋭の対地レーダー。
まさに不落の城の名にふさわしい要塞だった。
車の中で、ヴィクターはその概要が記された書類を流し読みしていた。
最寄り駅から車で二時間。長旅の疲れが出たのか、隣ではアナスタシアが静かに寝息を立てている。
窓の外はどこまでも続く平原。腕時計を確認し、ヴィクターは軽く頬杖をついた。
「何もないでしょう?」
運転席から、迎えに来た若い下士官が話しかけてきた。
「ああ。ここまで平坦だとは思わなかった」
「はは、よく言われます。見渡す限り地平線で、先の方まで丸見えですからね。まぁ、だからこそ敵も攻めてこないんです。身を隠す場所がない」
どこか気の抜けた笑いが車内に響く。
よほどの愚か者でない限り、この要塞を正面から攻めようとは思わないだろう。
「しかし、驚きましたよ」
若い将校が、ちらりとルームミラー越しにヴィクターを見た。
「参謀本部の将校さんが前線派遣なんて、聞いたことありません。……何か、やらかしたんですか?」
ヴィクターは冗談を返そうと口を開きかけたが、相手の若い下士官は自分で言っておいて、はっとして口を噤んだ。
無理もない。まだ少尉にも届かぬ若造が、帝国参謀本部の人間に軽口を叩くなど、命取りになりかねない。
エンジン音と、隣で眠るアナスタシアの静かな寝息だけが響いていた。
その後、会話は途絶えたまま、車は要塞の入り口へとたどりつく。
しばらく揺すっても起きなかったアナスタシアを軽く小突き、半ば引きずるようにして外へ出る。
眼前にそびえるのは、岩盤を削って築かれた巨砦――バラモンド要塞。
分厚い鉄扉の向こうには、土の匂いが漂う地下通路が広がっていた。
「作戦司令部は地下にあります。塹壕を深く掘って、みんなあそこで生活してるんです。緊急時は上に上がって戦闘配置ですね」
案内の下士官に導かれ、二人は土壁の廊下を進む。
通路の両脇では、煤と油にまみれた兵たちが一斉にこちらを見た。
帝都から来たエリート――そう思われるのも無理はない。
彼らの服は汚れ、顔は疲れ果てていた。
この要塞に長く留まり、家族の顔すら見ていない者も多いのだろう。
やがて、分厚い鉄扉の向こうに、作戦司令室が現れた。
壁一面のスクリーンがひっきりなしに映像を切り替え、レーダー装置が低い音を響かせている。
中央には机上に収まったレーダー装置が敷かれていて、敵国からの侵入を見逃さない態勢を整えていた。
「おお、わざわざこんな前線までようこそ!如何かな、要塞の空気は!」
声高に笑いながら、恰幅のいい男が手を差し出す。
「初めまして。帝国参謀本部、ヴィクター・アドラー中尉です。閣下」
「はっはっ! 閣下はよしてくれ、中尉! 私がこのバラモンド要塞の責任者――アレス・キュクロス中将だ。以後お見知りおきを!」
この男がアレス・キュクロス中将――。
戦争の天才と呼ばれた帝国随一の英雄である。
一〇年前、北部の「オールベリンド」との大戦で、彼は陸上戦力を指揮して圧倒的勝利を収めた。
知略、謀略、統率力、そのすべてにおいて群を抜き、名実ともに帝国最強と謳われた将。
当時はまだ大尉にすぎなかったが、十年のうちに中将へと駆け上がり、いまや東部前線の総責任者である。
年齢は四十七と記録にあったが、風貌には老いの影がない。
藍色の髪をオールバックにし、軍服の第二ボタンまでを開け放つ。
左目を覆う黒い眼帯――その下には、戦場で負った深い傷があるらしい。
だが、残る片眼にはなお猛禽のごとき光が宿っていた。
ただ、一つだけ不審な点がある。
資料には右腕欠損と記されていた。だが、彼の右手は確かに存在している。
「お、気づいたか。そうだ、これは義手だよ」
アレスは豪快に笑い、鉄の腕を机に軽く打ちつけた。
「一〇年前の戦争でな、腐り始めたから自分で斬ったのさ。まったく、医者より先に自分で決断する羽目になるとはな」
「……自分で、ですか?」
「ああ。まあ、他人に任せていては間に合わんと思ってな」
笑ってはいるが、その言葉の奥には狂気に近い覚悟が覗いていた。
ヴィクターは、この男がただの英雄ではないことを理解する。
「それで、中尉。わざわざこの前線まで、何の用かな?」
「はっ。ウィンタール大将より、バラモンド要塞に赴任し、前線の状況を確認せよとの命を受けました」
ヴィクターは形式通りに敬礼し、命令書を差し出した。
アレスはそれを一瞥しただけで、無言のまま真っ二つに破り捨てた。
「――何を?」
「ふん。前線の状況を確認だと? この俺の守る要塞に、不備があるとでも?」
破り捨てた紙片が、空気の中を舞う。
最強たる自負か、それとも慢心か。
周囲の兵たちも、どこか敵意を含んだ目で二人を見ていた。
「……何もせずに本部へ帰るわけにもいきません」
ヴィクターは淡々と答える。
「帰らぬと?」
「ええ。残念ながら、ウィンタール大将の命令は閣下より上位です。いくら英雄でも、命令違反は許されないでしょう」
短い沈黙が落ちた。
ふたりの視線が真っ向からぶつかり、部屋の空気がわずかに震えた。
兵たちが息を飲む、ヴィクターの一歩も引かぬ構えに。
「前線に立つ覚悟はあるのだな? その女もろとも」
「ええ。命令とあらば、地雷原でも突っ込みますよ」
アレスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「はっ、いい度胸だ。……チューズ准尉!」
背後から、先ほど案内をしてくれた若い下士官が駆け寄ってくる。
「この二人に寝床を用意してやれ。一応、参謀本部の士官殿だ。特別扱いは不要だが、作戦司令部の末席には加えてやる」
チューズが敬礼をし、ヴィクターたちを案内して部屋を出る。
残されたアレスはしばらく黙考した後、側近を呼び寄せた。
「……あの二人の動きを探れ。何か企んでいれば、すぐ報告しろ」
相部屋に通された二人は、簡素なベッドに腰を下ろした。
壁には湿気が染み、鉄の匂いが鼻を突く。
「上手くいったな、ヴィクター」
「ああ。これで、まずは潜り込むことに成功だ」
魔女と将校、そして帝国の英雄。
お互いの思惑が、この要塞の中で静かに交差し始めていた。




