社交病棟 序章 塔
三年ほどかけて中編の「社交病棟」という変わった小説を書きたいと思います。まずは序章の「塔」をどうぞ
『なぜ世界は不公平なのか。物心ともに豊かさを浴びるほど享受している人間がいる一方、すべてにおいて欠乏している人間が同時に存在している。暴力は絶えず、毎日のニュースを見ると暗澹とする。何なのだこれはいったい。そもそも許されることなのか。なぜこんな現実があるのか。私にはわからないし、到底耐えられない。こんな世の中で息をしているくらいなら、ええ。私はこの世界が破滅することを望みます。その責任をとりましょう。。。』
〈塔へ行け〉
と、声がささやく。
〈彼は塔の上で待っている〉
か細い、でも執拗な、宇宙から直接、私の頭の中だけに届く声。
声は二週間前の夜、メールで彼に「さようなら」と打ち送られてきた時から響き始めた。
「さようなら」
間違っても伝えられてはいけない言葉だった。その文字は私を徹底的に打ちのめした。その瞬間、頭の中からひものように細い怒りがするすると立ち上っていった。そして怒りは熱湯に浸された温度計の目盛りのように上昇し、あっという間に天井を突き抜け、暗闇を超え、星空に達してしまった感覚があった。
声は昼夜の別なく、こそこそと聞こえてきた。時に冗談を言って私をくすくすと笑わせ、時に甘い言葉で私の心をたぶらかし、時に世にも恐ろしいしっ責で私を苦痛のどん底に追い落とした。
声のおかげで夜はほとんど眠れず、消耗し、普段と同じだけの量の食事をしても、げっそりと頬がこけた。もちろん出社はかなわくなった。
構いやしない。派遣の仕事なんて。私以外世界の他の誰にも聞こえない声が聞こえるのだ。この驚くべき事態に比べれば、私の給料分の仕事など、ごくごくちっぽけなことに過ぎない。
声。しかしこれはいったいどういう、何のための現象なのか。
もしかすると、考えるのも恐れ多いことだが、この宇宙の摂理をつかさどる、絶対的な何かの指令が私のごとき人間に届くようになってしまったのではないか。私はごくごく平凡なつまらない人間だけれど、その実、何かの選抜に当たってしまったのではないか。私だけの特別な役割があるのではないか。
ともあれ、この声が聞こえるという状態は天の意思の及ぼすところであるには間違いない。
そう、私と彼の真の絆を、宇宙の歴史に刻印するという天の意思に。私たち二人が永久に手を取り合うことでこそ、世の中は正しく調和するはずなのだ。この骨の髄から、総身から湧くような、私の信念を宇宙が裏切るはずがない。
〈塔へ行けば、すべてが成し遂げられる。そして人類は滅びから解放される。お前は役目を果たさなくてはならない。今すぐに。今すぐにだ。さもなくば、この世は惨憺たる結末を迎える・・・〉
声は私を支配した。延々と、休みなく。声に逆らうなどとは、思いもよらぬことだった。
塔とは、夏に彼と一緒に行った熱帯植物園の一角にある見晴台の塔のことに違いなかった。海に面した塔のてっぺんで、潮風に吹かれて、崖の向こうに、煌煌とした夕日が沈む水平線を二人でずっと眺め続けたのだ。あの黄昏時に、永遠の不思議を垣間見たと思った。二人の、そして世界の久遠。確実に、厳として、あの塔には大きな秘密の鍵が存在する。
それは宇宙意思。まさしく宇宙意思だった。
着替えもせずにおもむろにアパートを出、電車を三本乗り継ぎ、バスを降りて、ふらつく足取りで、熱帯植物園まで走った。十一月の平日の朝、植物園を訪れる人の姿はおらず、閑散として、明るかった。そう、ここだ。この場所がキーポイントなのだ。なりふり構わず塔に向かう最短距離を駆け抜けようとすると、入り口で、
「切符を買ってください」
と、窓口の女性に咎められた。
おかしい。人類を救えという天の意思によって塔に向かっているというのに、金銭なんか支払わなくはならないのか。それとも、地上のルールを守ることによってこそ、正しく使命が全うできるのか。
声は言う。
〈従え、従え、この人をも救うことが出来るのはお前一人だけなのだ〉
震える手で、財布から千円札を渡すと、半券を切ってもらった。綺麗に化粧をした窓口の女性がいぶかしむ様子で私の顔を覗き込む。
それに一瞥もくれず、私は走った。
〈順序を守らなくてはいけない。できるだけ秩序を壊してはならない。たとえ、大きな飛躍を間近に控えていても・・・〉
順序か。順路通りに進めということか。壁に描かれた矢印の示す通り、温室の中に走りこもうとすると、息が切れて、踏み石に躓いて転んだ。靴を履いているのが不自然だという考えが湧いた。その通りだ。原始人のように裸足でゆっくりと歩いて行こう。この危急存亡の時、焦りはかえってことを仕損じる。
靴を脱いで、睡蓮の葉がびっしりと浮いている人工池の中に放り込んだ。せいせいした気分になった。胡蝶蘭とブーゲンビリアが暖簾のように下がっている戸口を潜ると、温室の中は甘く蒸した香りの迷宮だった。
「リュウゼツラン、リュウゼツラン科、メキシコ原産、数十年に一度花を咲かせます」「オウゴチョウ、マメ科、南インド諸島原産」「パラミツ、クワ科、インド・マレー半島原産、世界中で一番大きな果物が生ります」「ゴバンノアシ、サガリバナか、インド・マレー半島原産」・・・・・
湿気に眩暈を覚えながら、長く続く温室のコングリートの舗道を歩いて行った。ふわふわした花々の匂いを嗅ぐと、ああ、大丈夫だ。すべてはうまくいくと確信が持てた。
彼は待っている。この極楽のような植物園の塔の上に。そして、まだどのようにしてかはわからないが、二人は天に認められ、この星を救うのだ。
ふと、手近な胡蝶蘭の中からひときわ大きい白い花を摘んだ。彼に捧げよう。人類の跳躍の証として。
ゆらゆらと花を揺らし歩くと、塔の入り口までたどり着いた。石の螺旋階段を、ぴた、ぴた、と一歩一歩上がっていった。時折、壁に空いた四角い窓から凍てた風と光が私を襲った。むき出しの足がひどく冷たくなっていた。しかし、彼に再び、決定的に会えるという強い期待に、寒さは全く身に応えなかった。
とうとう、地上五階ほどの最後の段を上り切った。さあ、これで、彼に会える・・・。
しかし、塔の上では誰一人私を待ってはいなかった。手すりの柱の後ろにもどこにも、彼の姿はなかった。風だけがびゅうびゅうと木枯らしのように吹いていた。
つじつまが合わない。
強い疑問が私を襲った。宇宙から届く声が私に嘘をついたのか?
〈これは仕方のないことなのだ。必要な試練なのだ。そもそもお前に人類を救う資格があるか。今まで一度として嘘をついたことはなかったか?邪念を抱いたことはなかったか?〉
声は私を責め、さらに言葉を重ねた。
〈下を見てみろ実は彼は海の上にいる。見えるはずだ。そう、見えるだろう。ここから海に向かって飛ばなくてはいけない。そこでこそ本当に彼が待っているのだ。人は飛ぼうと思えば実は飛べるのだ。命を失うことはない。お前は乗り終えることが出来る、およそあらゆる限界を〉
声は叫びとなってがんがんと頭の中を響き渡った。
私は壁をよじ登った。海を見下ろす。彼の姿など見えない。いや、見える。ほら、波の間に笑っている。私の方に手を伸ばしている。いや、あれは海鳥か。そんなはずはない。彼だ。でも違うかもしれない。それでもいい。飛ぼう。一瞬で宇宙摂理は変わる。世界が救えるのだ・・・。
「やめなさいっ」
背後から警備服を着た男の人が走り寄ってきて、私の腰をがんじがらめに抑え込んだ。
強い煙草のにおいがする。彼ではない。彼は海の上にいる。
「放っといてっ」
と、叫び右足で蹴って腕を振りほどこうとした。が、引きずり降ろされ、床に倒された。私は警備員の手に嚙みついた。しかしもう一人警備員が現れた。暴れる私を二人がかりで取り押さえようとする。声はまだ頭の中で何か叫んでいた。
〈滅びが来た。人類はとうとう週末を迎えた・・・〉
絶望という文字が頭に浮かんだ。胡蝶蘭は、私と二人の屈強な男たちに踏みつけられて、無残にちぎり裂かれていった。
我ながら風変わりな思考実験をし続けたものです。独創的ではあるけど、世界の一員という感覚に欠如してたなあ。この小説を書き終えて、仲間入りが果たせればいいなあと思っています。