表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/71

08. 幕間:人事部長は、今日も胃薬が手放せない

デジタル・ハーモニー社、人事部部長室。


野村博(50 代半ば、人事畑歴 30 年、趣味:〇ラクエ、最近の悩み:新人、そして胃痛)は、デスクの上、山積みになった書類の合間に鎮座する胃腸薬のボトルを、長年の戦友のように見つめていた。カシュ、とキャップを開け、ザラザラと数錠を手のひらに出す。昼休みにも飲んだはずだが、胃酸が逆流してくる感覚が収まらない。


原因は、もちろん一人。先日、自らの慧眼(けいがん)(と信じたい)によって採用を決断したスーパー新人エンジニア・芽上結衣。その名前を聞くだけで、野村の胃はキリキリと痛みを訴え始める。


「ふぅぅぅ……」


野村は、天井を仰ぎ見て、本日何度目か分からない長大なため息をついた。まったく…本当に、文字通りの「神」材を、引いてしまったのかもしれない。あの面接での、あの超常的な発言の数々…。


そんなことはあり得ない、それは十分に理解している。


…だが。もし…。もしも万が一、あれが、比喩でも誇張でもなく、事実だったのだとしたら…?


プルルルル! プルルルル!


けたたましい内線電話の音に、野村はビクリと肩を震わせた。表示名は『開発二課 佐々木』。デジャブだ。そして、確実な胃痛の予兆だ。


「……はい、人事部 野村です」努めて平静を装い、受話器を取る。


ポーカーフェイスは、人事としては基本スキルだ。だが、度重なる発動により、もはや彼の MP はゴリゴリに削られていた。


『部長ーーーっ!!』


電話口の向こうでは、案の定、佐々木課長が半ばパニック状態だった。野村は小さく「キアラル」と唱えたが、効かなかった。もちろんMP 不足が原因ではない。


『例の! 芽上さんですよ! 昨日の歓迎会で黒川を完膚なきまでに論破して泣かせたかと思ったら、今朝! その黒川に直接! 分厚いレガシーシステムの刷新計画書(全332頁)を!『お詫びの印』とか言って叩きつけ…いえ、お授けになったんです! 黒川、もう完全に怯えちゃって、デスクでプルプル震えてて! あれはもう、指導とかそういうレベルじゃないです! 女神の鉄槌です!』


佐々木課長は、興奮と混乱で言葉がまとまっていない。


(歓迎会で論破…泣かせた…刷新計画書…お詫びの印…女神の鉄槌…)


野村は、佐々木課長の報告からキーワードを拾い上げ、脳内で状況を分析しようと試みる。しかし、入力した規格外の情報に、30 年かけて築き上げてきた「人事部長謹製(きんせい)・人材分析システム」はフォーマットエラーを吐き出した。


(落ち着け、佐々木くん…そして俺も落ち着け…胃薬、胃薬…)


「おお、佐々木課長、報告ありがとう。それはまた…なんというか、積極的なアプローチだな、芽上さんは。ははは…」


乾いた笑いが漏れる。もはや冷静さを装う余裕もない。


「それで、その刷新計画書とやらは、どうなんだね? 内容は?」


『それがですね…ちらっと見せてもらったんですが、内容自体は…めちゃくちゃ真っ当で、むしろ素晴らしい提案なんです。 我々が長年、見て見ぬふりをしてきた問題点に、真正面から切り込んでる。 しかも、具体的なロードマップまで示されていて…! ただですね、その提案の仕方が… ダイレクトすぎて! 人の心がないというか、黒川じゃなくても引きますよ!』


(提案は素晴らしい…だが、やり方が余りにも『人外』である、と…)


野村は、頭を抱えたくなった。まさに、諸刃の剣。会社にとっては劇薬だ。


『それで部長、どうしましょう? 黒川のメンタルケアも必要ですし、芽上さんにも、もう少しこう…穏便なコミュニケーションというか…手加減というか…』


「ふむ…」野村は、しばし沈黙した。胃の痛みと、人事部長としての責任感がせめぎ合う。


「…分かった、佐々木課長。黒川くんのケアは、まず君の方で頼む。カウンセリングが必要なら手配しよう。芽上さんについては…そうだな、一度、私の方で、『職場におけるコミュニケーションの機微』についての研修を検討することにしよう…」


我ながら、とんでもないことを言っている自覚はあった。神に、常識をレクチャーする? 正気の沙汰とは思えない。


『は、はぁ…部長自ら…? よろしくお願いします…!』


佐々木課長は、若干、困惑を見せながらも、藁にもすがる思いで頼ってきた。


― ガチャリ。


電話を切った野村は、ぐったりと椅子にもたれかかった。


「はぁ……前代未聞の事態だ……」


肩書きの重圧と、規格外の新人が日々もたらす予測不能なイベント。ストレスは、とうに限界を超えている。胃薬のボトルが、心なしか先ほどよりも軽くなっている気がした。


「だが……やるしかないだろうな……」


野村は、デスクの上の結衣の履歴書、そこに挟まれた証明写真に、再び目をやった。あの涼しげな、それでいて全てを見透かすような瞳。


「彼女は、我が社を、いや、この世界を『改善』しようとしている…。その志が、本物であることには違いない…たとえ、やり方がぶっ飛んでいても…」


彼女は、我が社の救世主か、破壊神か。あるいは、その両方か。


「……よし!」


野村は、パンッ! と両手で頬を叩いた。痛みで、少しだけ意識がはっきりする。


「こうなったら、とことん付き合ってやる! 人事部長・野村博、キャリア 30 年の正念場だ! あの女神と、我が社との『調和』を、俺が! この俺が、取ってみせる! 取ってみせるぞぅ!わっはっはっ…… はぁぁぁぁぁ…」


ほとんどヤケクソに近い決意を固め、野村は胃薬のボトルをデスクの引き出しにしまい込んだ(どうせすぐ出すことになるだろうが)。


「………まずは……研修会社の選定から、着手するか…。テーマは、『人間味のあるコミュニケーション』で、ターゲット層は、『女神』…、と。 …………どこに外注すりゃいいんだ、そんなもん……!」


人事部長の苦悩と胃痛は、明日もきっと続く。デジタル・ハーモニー社の未来は、野村の胃の調子にかかっている……かもしれない。



野村が一番、核心に近い所にいます。人事畑30年は伊達じゃないのです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ