70. 砂上の楼閣と、泥の中のログ(前)
気が付いた時、黒川は、医務室を出てプロジェクトルームへ向かう廊下を歩いていた。そのまま壁に手をつき、ずり落ちるようにして足を止める。
(あいつが、神……?)
脳内で反響する言葉。突拍子もない話だ。だが、否定しきれない圧倒的な「何か」が、彼女にはあった。もし、それが真実だとしたら。
(……それじゃ、俺のしてたことは……なんだ……?)
高次元の存在。完全なる秩序。そんなものを、ただの人間が「守る」? 保護者気取りでうろついて、守っている気になって……。ただの道化だ。そして、それ以上に──。
『君の好意は、猛毒だ』
神代の言葉が、呪いのように全身を縛り付けている。
反論できなかった。事実、自分が良かれと思って行った「辻褄合わせ」が、結衣を追い詰め、壊しかけたのだ。
「……クソッ」
黒川は拳を押し付け、歯を食いしばった。
神だのなんだのは、今はどうでもいい。考えたところでどうにもならない。
重要なのは、もっと単純で残酷な事実だ。
「あいつが倒れたのは……全部、俺のせいじゃねーか……!」
理不尽な要求を飲み込み、論理をねじ曲げ、システムに嘘を吐かせた。 その「歪み」が、彼女の精神を蝕んだのだ。
彼女にも、仕事にも不誠実だった。それが、今の結果だ。
「なら……戻すしかねぇ」
黒川は顔を上げ、開発二課への廊下を見据えた。
「全部白紙に戻して、あいつの……芽上のやり方で、最初から組み直す!」
たとえそれが、終わりのない修復作業だとしても、誠実さのかけらもない今の状態よりはマシだ。
黒川は覚悟を決め、勢いよくオフィスのドアを開け放った。
「おい。今すぐサーバーを落とせ。メンテナンスに入る……」
――静かだった。
あれほど絶え間なく鳴り響いていた電話のベルも、怒号も、キーボードを叩く音も聞こえない。ただ、サーバーのファン音だけが、低い唸りを上げている。
壁面の大型モニターには、「正常稼働」の緑色の文字が、無慈悲なほど整然と輝いていた。
「……く、黒川さん」
入り口に立ち尽くす黒川に気づき、佐藤が気まずそうに立ち上がった。その顔には、疲労の色と共に、安堵の色が混じっている。
「……どうなってる」
黒川は荒い息を整えながら問う。
「俺が出てってから、一件も問い合わせが増えてねぇ。……窓口を止めたのか? 誰の判断だ」
「いえ……そのままです。ただ、森田さんが『新・アテナ』を開発端末に直結した途端、嘘みたいに問い合わせが止まって……」
黒川は無言で佐藤の席に歩み寄り、画面をのぞき込んだ。
そこには、エラー一つないログが川のように流れている。だが、それを目にした瞬間、鳥肌が立つような違和感が黒川を襲った。
「……どけ、佐藤。中身を見せろ」
黒川は佐藤を押しのけると、コンソールを操作した。
システムは不気味なほど滑らかだ。手応えがない。速すぎる。まるで、抵抗のない真空の中を走っているようだ。
嫌な汗が背中を伝う。
「なんだこりゃ、ありえねぇ……。あの矛盾だらけの要求が、こんなに綺麗に動くわけがねぇんだ。あれだけ例外処理を埋め込んで、やっと整合性を……」
データベースへの参照、重複チェック、排他制御。
本来あるはずの「重み」がない。時間がゼロになったような──。
「整合性? ……ふん、そんなものに何の意味があるのだね」
背後から、冷ややかな声が降ってきた。磯山だった。
黒川が振り返ると、磯山は憐れむような、それでいて勝利に酔いしれた目で彼を見下ろしていた。
「……磯山、事業部長」
「君が必死にその『整合性』とやらを守ろうとしていた時、このフロアはどうだった? 地獄だったろう?」
磯山は、静まり返ったフロアと、安堵した表情の部下たちを大袈裟な仕草で指し示した。
「だが今はどうだ? 君が手を引いた途端、すべてが上手くいっている。 見たまえ、部下たちもホッとしているよ」
「……ッ」
黒川は反論しようとして、言葉に詰まる。実際に、佐藤も田中も、疲れ切った顔の中に「助かった」という安堵を浮かべているからだ。
黒川は視線を巡らせた。その先に、青ざめた顔で立ち尽くす愛莉がいる。
「おい、森田……お前、何をした? 説明しろ。何をどうやって、これを実現してる!?」
愛莉はビクリと肩を震わせ、震える声で呟いた。
「……新しいモデルを導入したの。結果がでたわ。……それが何?」
その指先は白くなるほど強くデスクの縁を握りしめ、瞳は黒川を見ようとしない。まるで自分自身に言い聞かせるかのように、虚空を睨んでいる。
「ふざけんな!説明になってねぇ、それで納得できるわけが…ッ!」
「黒川くん」
磯山が、トドメを刺すように言った。
「森田君の言う通りだ。結果が出ている。もういいだろう。君がいると仕事が回らない。はっきり言おう、迷惑だ」
その言葉が、神代の言葉とリンクする。
『君の存在こそが、ノイズなのだよ』
黒川の手が、力なく、キーボードから離れた。
反論をしようにも、叫ぼうにも、目の前の「結果」という圧倒的な現実が、それを封殺している。
(……俺が守ろうとしたものが……俺の存在が、一番邪魔だったのか……?)
黒川の中で、何かが音を立てて折れた。心が、急速に冷えていく。
「……そうか。全部……俺の、せいか」
「しばらく休むといい。……席があるかは保証しないがね」
磯山の嘲笑にも、もう怒りは湧かなかった。
黒川は何も言い返さず、懐から社員証を取り出すと、そっとデスクに置いた。 プラスチックの乾いた音が、静まり返ったフロアに響く。
「……黒川さん!?」
佐藤が悲鳴のような声を上げる。だが、黒川は振り返らなかった。
「……rootパスワードは、いつものやつだ。サーバー室の鍵は、そこの引き出しの奥に入ってる」
黒川は、力なく笑った。
「後は、頼んだ。……俺はもう、触れねぇからな」
それだけ言い残し、黒川は逃げるようにフロアを出た。その背中は、あまりにも小さく見えた。
お読みいただきありがとうございます!
救いのない展開が続いてますが、次回あたりから浮上していきます!
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