07. 幕間:女神の追撃(物理)
翌朝。開発二課のフロアには、昨夜の歓迎会の余韻が微妙な空気として漂っていた。
特に、自分のデスクで小さくなっている黒川の周辺は、まるで低気圧の中心のようだ。彼は、周囲のヒソヒソ話や同情、あるいは嘲笑の視線から逃れるように、モニターに顔を埋めていた。聞こえてくるのは、「黒川さん、大丈夫かよ」「完全にやられてたな」「でも、芽上さん、酔ってたにしても怖すぎだろ」といった、遠慮ない囁きだ。
そこへ、凛とした足取りで結衣が出社してきた。彼女は、昨日と変わらずクールな表情で自席に着くと、何事もなかったかのようにPCを起動する。
(昨夜は、少々飲みすぎたようですね。思考回路に微細なノイズが残存しています)
(ですが、業務への支障はないでしょう。さて、昨夜の黒川さんへの指摘事項について、具体的なアクションプランを提示しなければ。彼の『自己変革』を促すことは、組織全体の調和へと繋ります。彼の『レガシーシステムへの非合理的な執着』というバグに対する、論理的な修正プロセスを開始します)
結衣の行動は早かった。酔った勢いも手伝い、昨夜のうちに構想を練り上げた資料を開くと、オフィスの複合機に転送してプリントアウトしはじめる。周囲が固唾を呑んで見守る中、ガシャコン、ガシャコン、と機械的な音が響く。その出力スピードは、何故だか普段よりも数倍早いように感じられた。
やがて、彼女は出力された用紙にざっと目を通して揃えると、すっくと立ち上がり、黒川のデスクへと向かった。フロアの空気が、一瞬で凍りつく。
(『女神(芽上)』が行った!)
(まさか…公開処刑の続きか?)
(黒川さん…完全にロックオンされてる!!)
同僚たちの心の声が、フロアに響き渡るようだった。
「おはようございます、黒川さん」
「ひぃっ!?」
黒川は、椅子から飛び上がりそうなほど驚き、完全に怯えた目で結衣を見上げた。
「昨夜は、少々厳しい指摘をしてしまい、失礼いたしました」
結衣は、軽く頭を下げ、口元に、ごく控えめな微笑みを浮かべる。事前に学習した『関係性修復を意図した微笑み(微細)』だ。
しかし、その目は、相変わらず笑っていない。黒川の表情が、ますます引きつっていく。
「つきましては、昨夜お話しした、貴方が担当されているレガシーシステムの抜本的刷新について、私なりに具体的な改善提案をまとめさせていただきました。お詫びの印、というわけではありませんが、ご検討いただければ幸いです」
そう言って、結衣は分厚い資料の束を、黒川のデスクにトン、と置いた。表紙には『レガシーシステムX 刷新計画(案)~マイクロサービス・アーキテクチャ導入によるDX推進~ Ver. 1.0 提案者:芽上結衣』と印字されている。
黒川は、その資料と結衣の顔を、信じられないものを見るように交互に見つめた。口をパクパクさせているが、声にならない。
(お、お詫び…? これが!? 刷新計画って……俺の聖域を更地にする計画書じゃねぇか!!しかも一晩で!? ……こ、こいつ、本気で俺を潰しに来てるのか…!?)
恐怖で、再び涙目になっている。彼の顔には、昨夜以上の混乱と絶望が浮かんでいた。
「この計画を実行すれば、現在の属人化された運用から脱却し、開発生産性、システムの信頼性、そして何より、エンジニアとしての貴方自身の市場価値も大幅に向上するでしょう。ぜひご一読いただき、前向きにご検討ください」
結衣は、一切の感情を読み取らせない表情でそう告げると、颯爽と自席に戻っていった。その足取りは、スキップしそうなほどに軽やかだった。
残された黒川は、デスクに置かれた分厚い『刷新計画(案)』を前に、ただただ震えるしかなかった。周囲の同僚たちは、遠巻きにその様子を見守りながら、(さすが『女神(芽上)』…人の心がない)(いや、これは神の試練、すなわち愛では?)(いや、どう見ても物理的な鉄槌だろ…)などと、複雑な思いを抱くのだった。
この話は、すぐさま課長の佐々木の耳にも入った。彼は、部下(黒川)のメンタルケアと、女神(芽上)がもたらした計画書のインパクトに頭を抱えつつ、人事部の野村に緊急連絡を入れることを決意する。
「もしもし、野村部長!? 大変です! 例の『女神』様が! 今度は、黒川に刷新計画書(全332頁)を叩きつけ…いえ、お授けになりまして…!」
飲み会での出来事を反省した、結衣なりの優しさ(笑)です。
幕間では、ちょっと笑えるキャラクターの深掘りエピソードをいれていく予定です。