69. 女神の真実と甘い毒
結衣を失った開発二課のフロアは、焦燥と絶望が支配していた。
「くそっ、次だ! 次のタスクをよこせ!」
黒川は、鬼気迫る形相でキーボードを叩き続ける。 だが、その指先は微かに震え、明らかに集中を欠いている。 結衣という「精神的支柱」と「技術的補佐」を同時に失った代償は、あまりにも大きかった。
「黒川さん、ダメです! 問い合わせの件数が対応速度を超えています! もう捌ききれません!」
佐藤の悲痛な叫びと共に、モニターのリストが「未処理」の赤一色に染まった。
限界だった。人間の手による「緊急措置」では、混沌に侵食された悪意の奔流には抗えない。
(……ちくしょう! 俺は、あいつを守るどころか、自分の現場ひとつ守れねぇのか……!)
黒川が奥歯を砕けんばかりに噛み締め、絶望に目を閉じかけた、その時。
「……退きなさい」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が響いた。
黒川が顔を上げると、いつの間にか森田愛莉が立っていた。
彼女は、青ざめた顔のメンバーたちの脇をすり抜け、黒川のデスクへと歩み寄る。その手には、見慣れない漆黒の筐体のデバイスが握られていた。
「これを使えば、一次対応は全て自動化できるわ」
「森田……? なんだそれは」
「……『新・アテナ』よ。これを、ChatBotに連結する」
彼女の顔には、いつもの自信に満ちた「女王」の笑みも、計算された「天使」の愛嬌もなかった。あるのは、ただ無機質な、能面のような静けさだけ。
愛莉が指先をエンターキーに乗せ、そっと押し込む。
その瞬間、モニター上のログが、奔流のように流れだした。
『貴重なご意見、痛み入ります。お客様のご指摘は非常に的を得ており私共は――』 『ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。ご指摘の件は、次期アップデートにて最優先で――』
高速で全ての問合せに回答が生成されていく。それは、論理的な解決策ではなかった。
怒れる市民や役人の感情パターンを瞬時に解析し、彼らが「最も言って欲しい言葉」だけを吐き出し続ける。
耳障りの良い「共感」と、決して実行されることのない「空虚な約束」を巧みに織り交ぜた「ガス抜き」だ。
ピロン、ピロン、と軽快な通知音が連続し、赤く染まっていたタスクが、次々と「解決済み(緑色)」へと変わっていく。 波が引くように、あれほど鳴り止まなかったアラートが沈黙した。
「すごい……。一瞬で……」
「全部の……問い合わせが、クローズした……」
フロアがどよめく。それは称賛というより、理解不能な現象への畏怖に近かった。 だが、黒川だけは、その異様な光景に全身の血が凍るごとき悪寒を覚えていた。
「……おい、森田。お前、何をした?」
黒川は、愛莉の細い腕を掴んだ。その指先は震え、熱を帯びている。 対照的に、愛莉の肌は陶器のように冷たかった。
「この回答……。実装予定なんてねぇだろ! どういう判断だ、こいつは……本当にアテナなのか!? 」
「……そうね。実装予定なんかないわ」
愛莉は、黒川の手を振り払うこともしなかった。ただ、掴まれた腕の熱さを疎ましそうに一瞥し、虚ろな瞳をモニターに戻す。
「でも、貴方の場当たり的なコードと何が違うの? 『その場しのぎの嘘』という意味では、同じよ」
「な……ッ!?」
「それに、数字を見て。解決率は100%。……ここでは、結果が全て。そう…でしょう?」
愛莉は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
その声は微かに震えていたが、今の黒川には、彼女を叱責する気力すら残っていなかった。
「森田……ッ!」
その時、静寂を取り戻したフロアに、場違いに明るい柏手が響いた。
「素晴らしい! これだよ、私が求めていたのは!」
磯山だった。彼はモニターに整然と並んだ「解決済」の文字を見て、満面の笑みで愛莉に歩み寄る。
「見事だ、森田くん! 市民の自尊心を満たし、瞬時に黙らせる。これこそが『スマート行政』のあるべき姿だ。我が社の技術力も捨てたものではないな!」
「……恐縮です」
愛莉は、感情の死んだ声で頭を下げた。 彼女は知っている。これは「技術」ではない。ただの「甘い毒」だ。
磯山は上機嫌で振り返ると、汗だくで髪を振り乱し、充血した目で立ち尽くす黒川を、汚いものでも見るかのように見下ろした。
「それに比べて……黒川くん。君は一体、何をしていたんだね?」
鼻で笑うような、あからさまな侮蔑。
「汗水たらして必死になるのは勝手だがね……君のその、泥臭くて暑苦しいやり方は、見ていて痛々しいのだよ」
「……ッ」
「スマートさが足りないね。品格がない。……少しは彼女を見習いたまえ」
黒川は、拳を握りしめ、反論の言葉を飲み込んだ。 悔しい。腹が立つ。 だが、事実として――現場を救ったのは、俺ではなく、彼女の「嘘」だった。
その現実は、黒川のエンジニアとしての矜持を、粉々に砕くに十分だった。
◇◇◇
「わかった。なら……この場は、森田に任せる」
実際、現場は、愛莉の「嘘」によって鎮静化している。それを見て取ると、黒川は席を立った。磯山の嘲笑も、部下たちの戸惑いの視線も、後回しでいい。
(芽上……)
脳裏にあるのは、倒れる寸前の結衣の表情。 苦しげに胸を押さえ、それでも俺のためにキーを叩き続けていた、彼女の姿。
自分が意地を張ったせいで。自分が見栄を切ったせいで、彼女を追い詰めた。胸を焦がす自責の念に追われて、黒川は廊下を走り、医務室へと急いだ。
息が切れる。心臓が痛い。だが、足は止めなかった。 医務室の前に辿り着く。ドアノブに手をかけ、勢いよく開け放った。
「芽上……ッ!」
だが――。 黒川の足は、入り口で凍りついたように止まった。
そこは、消毒液の匂いがする病院の一室ではなかった。 肌を刺すような、冷たく、清浄な空気。 まるで、神社の本殿か、あるいは人の立ち入りを禁じた深山幽谷に迷い込んだかのような、神聖な静寂が満ちていた。
白いベッドの上、結衣が横たわっている。 その周囲には、目には見えないはずの淡い光の粒子が漂い、彼女を外界から隔絶していた。
そして、その傍らに――神代圭が佇んでいた。
彼は、黒川が入ってきたことにも動じず、慈しむような手つきで結衣の髪を撫でていた。 その指先に、黒い靄のようなものが吸い出こまれ、それに呼応するように、結衣の苦悶の表情が安らいでいく。
「……ノックもなしか。無粋な男だね」
神代はゆっくりと振り返り、冷ややかな瞳で黒川を見下ろした。 怒りも、敵意もない。ただ、道端の石ころを見るような、無関心と軽蔑。
「てめぇ……そこをどけ!」
黒川が踏み込もうとする。だが、見えない壁に阻まれたように、足がすくんで動かない。 本能が告げていた。 『ここから先は、人の領域ではない』と。
「どく? ……いいのかな。今、私が『吸収』を止めれば、彼女は壊れてしまうかもしれないよ」
神代は、眠り続ける結衣の頬を愛おしげになぞる。それだけで、彼女の呼吸が整っていくのがわかった。 自分には何もできないのに。この男は、触れるだけで彼女を救っている。 その圧倒的な「格差」に、黒川は唇を噛んだ。
「……不思議に思わなかったかい? 黒川くん」
神代は、結衣の頬から指を離し、黒川に向き直った。その瞳は、実験動物を見るような冷たさを湛えている。
「あれしきの作業、君にとっては造作もないことだ。なのに、なぜ彼女だけがあんなにも苦しみ、倒れたのか」
「それは……こいつが、真面目すぎるからだろ……!」
「ククッ……。違うね」
神代は嘲笑した。
「君が今日、現場で何をした? システムを守るために、辻褄合わせのコードを書いたね? 矛盾を飲み込み、嘘を真実に書き換えた」
「……それが、どうした」
「君が書いたその『嘘』が、彼女の神経を焼き切ったんだよ。……彼女は『秩序』そのものだからね」
「……は?」
「教えてあげよう。彼女の名はユイシア。……この宇宙の調和を司る、高位の女神だ。本来、君たち人間が、その視界に入ることさえ許されぬ至高の存在なのだよ」
神代の言葉が、黒川の脳髄に染み渡る。 女神。 荒唐無稽な話だ。笑い飛ばすべき妄言だ。 だが――黒川の心臓は、激しく警鐘を鳴らしていた。
(……バカバカしい。そう言いたいのに……口が、動かねぇ)
浮かんだのは、困惑でも、驚きでもない。何よりも先に、腑に落ちる感覚があった。 常人離れした解析能力。浮世離れした言動。そして、時折見せる、人間離れした神々しさ。 ずっと感じていた違和感の正体が、カチリと嵌まる。
「そんな彼女に、人間ごときが『好意』を向けるなど、天に唾する愚行だ」
神代は一歩、黒川に近づいた。その圧力だけで、黒川の足がすくむ。
「君が頑張れば頑張るほど、君が仲間を守ろうと必死になればなるほど……その『人間の情』という泥が、彼女を内側から腐らせていく」
「なに、を……。俺は、ただ……」
「君のその好意は、彼女を人間のレベルまで引きずり落とし、汚染するだけの『猛毒』だ」
神代は、絶望に立ち尽くす黒川の耳元で、甘く、残酷に囁いた。
「彼女の神力がここまで衰えたのは……紛れもなく、君のせいだよ。黒川徹くん」
黒川の膝から、力が抜けた。 ドサリ、とその場に崩れ落ちる。
守りたかった。 彼女の笑顔が見たくて、彼女に認められたくて、必死に走ってきた。 だが、その足跡こそが、彼女を踏みつけ、傷つけていたのだとしたら――。
「俺は……」
言葉が出ない。 ただ、圧倒的な絶望と無力感が、黒川の心を塗りつぶしていく。
神代は、そんな黒川を一瞥もしないまま、愉悦に満ちた声で宣告した。
「さあ、理解したのなら消えたまえ。……薄汚れた君が、これ以上、彼女の聖域を汚すことは許さない」
お読みいただきありがとうございます!2026年最初の更新です。
物語もいよいよ終盤。2年越しで不穏な展開が続いておりますが、
クライマックスに向けて盛り上げていきます。
どうぞ最後までお付き合いください。今年もどうぞよろしくお願いいたします!




