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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第5章:混沌∪調和
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68. 不協和音の狂騒曲(デスマーチ)


「電話が鳴り止みません! 市民からの問い合わせ、すでに千件を超えています!」

「市役所の窓口もパンク寸前だそうです! 『システムが使いにくい』『不愉快だ』との苦情が殺到して……!」


国プロの実証実験(PoC)開始から数日。開発二課のフロアは、阿鼻叫喚の渦に包まれていた。

電話のベルが絶え間なく鳴り響き、モニターには次々と通知がポップアップする。


その内容は、もはや「バグ報告」と呼べる代物ではなかった。


『AIの回答が無機質で冷たい。もっと温かみのある文体に変更しろ』 『画面の配色が不快。市民の不安を煽る色使いを即刻修正せよ』 『操作ガイドのキャラクターが生理的に受け付けない』


論理的な不具合ではない。個人の主観に基づいた、無限の「言いがかり」。 神代圭の扇動によって引き起こされた、悪意ある市民や現場役人からの修正要求の嵐だった。


「なんだよこれ……! なんでみんな判で押したように『温かみ』って言うんだよ! 意味がわからない!」


若手の田中が、髪をかきむしりながら悲鳴を上げる。 本来なら無視、あるいは運用でカバーすべき案件だ。だが、このプロジェクトにおいては、それが許されなかった。


「……佐々木課長。これは明らかに開発の仕事じゃありません。クレーム処理です。どうにか……できませんか!?」


佐藤が受話器を握りしめたまま、悲痛な声を上げる。 佐々木は額の脂汗を拭い、決断した。


「分かっている。これは業務妨害のレベルだ。一次受けをコールセンターに切り替えて、開発への直結ルートを遮断する。私が責任を持つ。待っていろ、今すぐ調整を── 」


佐々木が受話器に手を伸ばした、その時だった。


「──待ちたまえ」


重々しい革靴の音と共に、冷水を浴びせるような声が響いた。 磯山事業部長だ。その後ろには、冷ややかな目をした秘書たちが、まるで凶器のように分厚い資料の束を抱えて控えている。


「磯山事業部長! 来ていただいて助かります。問い合わせが殺到し、現場が機能不全に陥っておりまして……」


佐々木が駆け寄ろうとするが、磯山はそれを手で制し、鼻で笑った。


「ああ、把握しているよ。それが何だね? 早急に対処したまえ」


「は……? ですが、内容は言いがかりに近く……!」


「甘えるな、佐々木くん! 言いがかり? とんでもない。これは正当な『市民の声』だよ。税金を使っている以上、彼らの『お気持ち』に寄り添うのが我々の義務だ」


磯山は、秘書から受け取ったリストの束を、バサリとデスクに撒き散らした。


「内容は確認したが、些末な修正だろう。君たちのシステムは、こんな簡単な変更もできないのかね? ……技術者の腕が悪いのか、それともマネジメントが無能なのか」


「なっ……! ですが、仕様変更には影響調査が必要です。今すぐやれと言われましても……」


「それらは論理的に破綻しています」


佐々木の言葉を引き継ぐように、結衣が一歩前に出た。その瞳は、氷のように冷ややかだ。


「そのリストにある要望の多くは、互いに矛盾しています。Aの要望を叶えればBの要望と衝突する。全てを受け入れれば、システムは論理的整合性を失い、崩壊します」


正論だ。だが、磯山は顔を真っ赤にして結衣を睨みつけた。


「口答えをするな! 理屈などどうでもいい、客が望むなら月だって四角くするのが仕事だろうが!」


磯山がさらに怒鳴ろうとした瞬間、無骨な手が結衣の肩を掴み、後ろへと引いた。


「下がってろ、芽上。……時間の無駄だ」


「黒川さん……?」


黒川は結衣を制すると、磯山に向き直った。その目は、怒りを超えて、不気味なほどに据わっていた。


彼はデスクに散らばった理不尽なリストを無造作に掴み上げ、パラパラと捲る。


「……なるほど。ボタンの色に、文体の変更、画面遷移の感情的演出、か。くだらねぇ」


黒川は、リストを磯山の目の前のデスクに、バンッ! と叩きつけた。そして、獰猛な獣のように口角を吊り上げる。


「承知しましたよ、磯山部長。……これ全部、指示通りに直せば文句はねぇ、ってな!」


「な、なんだと……?」


予想外の反応に、磯山がたじろぐ。黒川は周囲の部下たちを見回し、低い声で言った。


「やるぞ。全件対応だ」


「く、黒川さん!? 正気ですか!?」


佐藤が叫ぶ。だが、黒川は既にデスクに戻り、キーボードに手をかけていた。


「心配すんな。……あの時、俺が啖呵切って喧嘩売ったのが発端だ。俺が刈り取る」


その背中は、あまりにも大きく、そして孤独に見えた。これ以上の犠牲を出さないために、全ての泥を一人で被ろうとしている。

その覚悟を感じ取り、佐藤と田中は顔を見合わせた。


「ふん。……できるものならな。期限は今日の夕方までだ。できなければ、責任問題だと思え!」


磯山は鼻白みながらも捨て台詞を吐き、踵を返して去っていった。

フロアに重苦しい沈黙が落ちる中、黒川のタイピングの音だけが、銃声のように響いている。


その姿を見て、佐藤が顔を上げた。腹を括った男の顔だった。


「……わかりました」


佐藤はデスクのリストを手繰り寄せると、それを抱えて黒川の隣の席に座った。


「黒川さんの判断に従います」


「佐藤……?」


「黒川さんのスピードには追い付けないですが……環境設定やログの整理、進捗管理なら僕の方が得意ですから! 雑用は僕たちが全部やります! 黒川さんは、黒川さんにしかできないことをやってください!」


「ぼ、僕もやります! テストケースの修正は僕に任せてください!」


田中も、涙目で叫んで続く。フロア中のエンジニアたちが、次々と頷き、戦闘態勢に入った。


結衣は、そんな彼らの姿を呆然と見つめていた。

論理ではない。効率でもない。ただ、「仲間を守る」という非合理な熱意だけが、この無謀な行軍を支えている。


(……非論理的です。これでは、システムが悲鳴を……ですが……)


結衣は、きゅっと唇を噛み締めると、静かに自分の席へと戻った。


「……わかりました。システムのコア部分は……皆さんの足場は、私が支えます。決して崩れないように」


祈るように呟くと、モニターに向かい猛然と指を走らせた。



◇◇◇



「黒川さん! 次の要望、『特定のユーザだけ処理を優先しろ』って……DBの仕様と矛盾します! 排他制御が死にます!」


田中の悲鳴が上がる。

黒川は、額から滴る汗を拭おうともせず、キーボードを叩きながらドキュメントに一瞥をくれた。


「DBは触るな。ミドルウェア側でクッションを噛ませろ。見かけ上の数値だけ整合させて、裏でキューイングして逃がす。これなら影響範囲はこの一点だ。……コードは俺が書く!」


黒川の指が、残像が見えるほどの速度で鍵盤を叩く。

本来ならば数日かけて設計すべき変更を、彼はその場の「閃き」と「剛腕」だけで、強引にねじ伏せていく。


「すげぇ……! 通った! エラーが出ない!」

「こっちの画面修正も完了です! さすが黒川さん!」


「どうだ磯山! これで文句ねぇだろ!」


黒川がエンターキーを叩きつける度に歓声が沸く。


開発二課は、異様な熱気に包まれていた。

不可能を可能にする技術力。理不尽な暴力を、さらに強大な技術という暴力でねじ伏せる快感。

彼らは、ランナーズハイにも似た狂騒の中にいた。



だが、その熱狂の外側に、ひとり取り残されている者がいた。


(……気持ち、悪い)


結衣は、自身のモニターを見つめながら、胸の奥からせり上がってくる強烈な吐き気に耐えていた。


システムは正常に動いている。エラーログ一つ吐いていない。

黒川さんのコードは、機能的には完璧だ。


けれど、それは「まやかし」だった。


本来ならばエラーとして弾くべき「矛盾」を、黒川の技術が、無理やり「真実」に改変してシステムに縫い付けていく。

論理的な正しさではなく、人間の悪意や感情に迎合するために歪められたロジック。


『AIの口調を柔らかく』するために、意味のない条件分岐が、癌細胞のように増殖していく。

『青色が不快』という理由だけで、洗練されたスタイルシートの肌が、継ぎ接ぎだらけの醜いパッチワークへと書き換えられる。


(……ひどい不協和音。調和が、乱されていく……)


それは、「完全なる秩序」そのものである結衣にとって、泥水を直接血管に注入されるような感覚だった。

美しい数式が、ノイズに塗りつぶされていく。

彼女の構築した調和が、人間のドロドロとした欲望によって犯されていく。


「よし、次だ! まだまだ回るぞ! ノッてきた!」


黒川の声が弾む。彼は勝利を確信している。


仲間を守るために、彼は泥を被り、嘘を書きつづけて、システムを歪めている。

彼の精神が尊いものであると、頭では理解している。支えたいと、心から望んでいる。


けれど、魂が拒絶する。


(……苦し、い………もう、やめて……)


結衣の視界が明滅する。モニターの文字列が、黒い蟲のように蠢いて見える。息ができない。思考がまとまらない。


(それでも……彼を、一人には……)


震える指先を、キーボードへと伸ばす。 だが、その指は空を切った。


「――黒川、さん……」


助けを求めようとした声は、熱狂にかき消された。 黒川は、次のトラブル対応に没頭していて、彼女の顔色の悪さに気づかない。


「佐藤、そっちのパラメータ寄越せ! 田中、デプロイ準備!」


黒川の声が、遠くなる。世界が、ノイズに埋め尽くされる。


―― ドサッ。


喧騒の中で、結衣が静かに崩れ落ちる音だけが、鈍く響いた。


「……芽上!?」


異変に気づいた黒川が、モニターから目を離し、弾かれたように振り返った。

床に倒れ伏している結衣の姿が目に入り、血の気が引く。


「芽上ッ!!」


椅子を蹴倒して駆け寄ろうとした、その瞬間。 音もなく、風もなく。 いつの間にか入り口に佇んでいた男が、幽鬼のように結衣の元へ滑り込み、その身体を抱き留めた。


「おやおや。……無理をしすぎだね」


神代圭だった。彼は、ぐったりとした結衣を腕に抱き、楽しげに目を細めた。


「てめぇ……! 離せッ!」


黒川が掴みかかろうとするが、神代は動じない。彼は顎で、黒川の背後――未だ鳴り止まないアラートと、パニック寸前の部下たちを指し示した。


「落ち着きたまえ、黒川くん。君が今、手を止めたら……この現場はどうなる?」


「な、に……?」


「見なさい。エラーが出始めているよ。君が支えなければ、この砂上の楼閣は一瞬で崩壊する」


その言葉通り、モニターの一つが赤く染まり始めた。佐藤や田中が、「く、黒川さん! 処理が詰まってます! どうしますか!?」と悲鳴を上げている。


「彼女を救えるのは、静かな医務室だけだ。……だが、この現場を救えるのは、君だけだろう?」


神代の言葉は、残酷なまでに正論だった。


今、黒川がここを離れれば、磯山に付け入る隙を与え、部下たちは責任を負わされ、プロジェクトは終わる。

「俺が対処する」と宣言したのは黒川自身だ。その責任が、彼を鎖のように縛り付けていた。


「……くそッ!!」


黒川は、血が出るほど唇を噛み締め、拳を震わせた。


「賢明な判断だ」


神代は満足げに微笑むと、意識のない結衣を軽々と抱きかかえ、黒川に背を向けた。


「私が運ぼう。なに、彼女とは既知の仲だ。心配はいらないよ」


「……芽上……!」


黒川は、屈辱と焦燥に焼かれながら、警告音を上げるコンソールへと向き直るしかなかった。

遠ざかる結衣の姿が、泥濘の中に沈んでいく光のように見えた。





今年最後の更新です。まさかの結衣ダウン&神代の介入という、一番大変なところで

年を越すことになってしまいました。

次回は元旦更新予定です。来年も、黒川たちの戦いをぜひ応援していただけますと幸いです!


それでは、皆様、良いお年を!

お読みいただきありがとうございました!評価・ブクマ等、お待ちしております!

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