67. 聖域の守護と、女王のバックドア
国プロ『プロジェクト・ネクストX』の実証実験(PoC)が、ついに幕を開けた。
国家戦略特区に指定されたモデル都市において、DH社とカオス・ダイナミクス社、双方の次世代行政サービスが一般市民向けにリリースされたのだ。
その中核である開発二課は多忙を極め、連日、張り詰めた緊張感に包まれている。
「エリアA、アクセス集中していますが、負荷分散正常です!」 「ログ監視、エラーなし。順調です!」
各担当者による鋭い報告の声と、モニターに映し出されるリアルタイムログ。フロアにいる全員が、自分たちが作り上げたシステムが現実世界で動き出した様子を、固唾を呑んで見守っている。
そんなピリピリとした空気が充満するフロアの一角に、異彩を放つ奇妙な「聖域」が形成されていた。
黒川のデスク周辺だ。
「黒川さん。水分補給の時間です。室温が0.5度上昇しましたので、冷たいものを用意しました」
「おう」
結衣は先日の宣言の通り、黒川から片時も離れなかった。彼の斜め後ろに陣取り、その背中を守っている。
最初は照れもあって、「気が散る」「狭い」と文句を言っていた黒川だが、今では完全にその距離感に順応してしまっている。結衣が差し出したペットボトルをノールックで受け取り、作業を止めずに喉を潤すその姿は、長年連れ添った夫婦もかくやという、阿吽の呼吸だ。
佐藤は、張り詰めたモニタリング業務の合間にその様子を眺め、乾いた笑いを漏らした。
(完全に馴染んじゃってるよ……。まあ、あの二人がいればシステムトラブルは起きないだろうけど)
「やあ。進んでいるようだね」
不意に、フロアの空気が冷やリと変化した。
入り口に立っていたのは、神代圭――混沌の神ケイオスだ。彼は、多忙を極める現場の空気など意に介さず、優雅な足取りで黒川のデスクへと近づいてくる。
── ガタンッ。
神代が一歩踏み出すよりも早く、結衣が席を蹴って立ち上がった。
無言のまま黒川の背中を隠すように立ちふさがり、全身から鋭い警戒色を放つ。その瞳は、「ここから先へは一歩も通さない」と雄弁に語っていた。
「……相変わらず、ガードが堅いね」
神代は、足を止めて苦笑した。
「そんなに睨まないでくれたまえ。私はただ、優秀なエンジニアの顔を見に来ただけだよ。プロジェクトの進捗も気にかかるしね」
「報告なら、定例会議で行っています。現場への直接介入はご遠慮ください」
結衣が氷のような声で撥ねつける。
神代は肩をすくめ、結衣の背後にいる黒川へと視線を流した。
「君はどうだい? 守られてばかりでは、息が詰まるのではないかな?」
挑発を含んだ言葉だ。以前の黒川なら、顔を真っ赤にして食って掛かっていただろう。 だが、今の黒川の反応は違った。
「……チッ」
彼は舌打ちを一つ落とすと、苛立たしげにキーボードを叩く速度を上げた。 視線はモニターに釘付けのまま。神代の方を見ようともしない。
「気が散るんだよ。……現場の空気が読めねぇなら、とっとと消えろ」
相手が何物だろうが関係ない。今の彼にとって重要なのは、目の前のコードと、正常に流れるログだけ。それ以外は全て、排除すべき雑音」でしかなかった。
神代は、自分を単なる「邪魔な部外者」として切り捨てたその集中力を目の当たりにし、ほう、と感心したように目を細めた。
(私への恐怖も、敵対心すらない、か。……彼に植え付けた『混沌の塵』による精神の浸食が見られない。狂うか、壊れるかだと踏んでいたが…。なるほど、確かに興味深い)
「つれないな。……まあいい。では、邪魔者は退散するとしよう」
神代は踵を返した。そのすれ違いざま。誰にも気づかれないほどの、ほんのわずかな動作で、彼が指先で空を弾く。
その瞬間、システムに致命的な「淀み」が生まれた。 彼が干渉したのは、プログラムの中身ではない。 システム全体を流れる、膨大な処理のタイミングだ。
本来なら、ほんのわずかにズレて流れるはずの「二つの巨大な処理の流れ」を、神代は運命を操るように誘導し――完全に同時刻、真正面から衝突させたのだ。
エラー音は鳴らない。だが、システムの見えない場所で、互いが互いの道を塞ぎ合うデッドロックの種が生まれた。放置すれば数秒後、このシステムは血管が詰まったように即死する。
―― ゾワリ。
黒川の背筋を、不快なノイズが走った。
(……この感覚)
モニター上の数値は正常だ。全てが青信号に見える。 だが、黒川の耳には聞こえていた。先ほどまで滑らかに流れていたシステムの鼓動が、不自然に重なり、軋み始めている音が。
(……原因は──こいつか!)
思考するよりも早く、黒川の手が動いた。 彼はコンソールを開くと、衝突しかけている片方の処理を睨み、迷わず「強制停止」のコマンドを叩き込む。理屈ではない。反射的な判断だ。
―― ッターン!!
エンターキーを叩いた瞬間。膠着しかけていた処理の一つが消滅し、もう片方がスムーズに流れ出す。システムは何事もなかったかのように、正常なリズムを刻み始めた。
「……っ?」
我に返った黒川は、自分の手を見て呆然とした。 画面には、正常に動いていた仕事を、手動で叩き殺した記録が残っている。
「……黒川さん?」
横から、冷ややかな声が降ってくる。結衣が、黒川の画面と、監視モニターを交互に見ている。
「今、承認なしで処理を止めましたか? 運用ルール違反です」
「あ、ああ……。いや、ちょっと……なんか、詰まりそうな気がしてよ」
「詰まりそう、ですか。ログには何もありませんが」
もっともな指摘だ。だが、黒川は引かなかった。バツが悪そうに鼻を鳴らすと、消滅させた処理が実行しようとしていたソースコードを画面に呼び出した。
「……ログには出てねぇが……ほら、ここだ。この実装を見てみろ」
黒川は、排他制御のロジック部分を指で弾いた。
「ロックの取得順序が逆だ。……普段はタイミングがズレてるから動いてるだけで、完全に同時に走れば正面衝突する。典型的なデッドロックの穴だ」
「……本当ですね」
結衣は画面上のコードを一瞥し、瞬時にその論理破綻を理解した。 これは神の呪いではない。開発者が残してしまった、ごく稀な確率でしか顕在化しない「時限爆弾」だ。
もし黒川が片方を殺していなければ、システムごとフリーズしていた。その可能性は否定できない。
「ですが、黒川さん。貴方はこのコードを確認する『前』に、止めていませんでしたか? 一体、どうやってその予兆を……」
問いかけようとした言葉が、ふと途切れた。 結衣の視線が、ふいに黒川の背後――オフィスの出口付近を捉える。
そこには、去り際、今の騒ぎを愉しむかのように足を止め、口元を歪めている神代圭の姿があった。
「……ッ」
結衣は息を呑み、瞬時に全てを理解した。 これは単なる嫌がらせではない。神代は、黒川に「力」を使わせようとしたのだ。 黒川自身に、己の異質さを自覚させるために。
(気付かせてはいけない。黒川さん自身にも、ケイオスにも……これ以上は!)
結衣は表情を瞬時に消し去り、いつものポーカーフェイスを取り戻す。
「ど、どうやってって言われてもな……。だから、そんな気がしたんだよ。……それだけだ」
歯切れ悪く言い訳をする黒川の言葉を、結衣はあえて遮るように頷いた。
「……分かりました」
「え?」
「理由はどうあれ、致命的なエラーを未然に防いだ。その事実だけで十分です」
結衣は、それ以上の追求を拒絶するように、手元のタブレットに視線を落とした。
「原因不明のバグには、論理を超えた直感が勝ることもあります。……さすがですね、黒川さん」
「……お、おう。……だろ?」
黒川は、結衣があっさりと引いてくれたことに、安堵の息を漏らした。自分でも説明のつかない恐怖を、彼女が肯定してくれたことで、なんとか平静を取り戻す。
(……危ないところでした)
結衣は、少しだけ居心地が悪そうに、しかし得意げに鼻を鳴らす黒川の背中を見ながら、小さく拳を握りしめた。
その視線の先で、神代が満足げに肩をすくめ、静かにオフィスを出て行く。 その背中に向けられた結衣の瞳には、かつてないほど鋭い警戒の色が宿っていた。
◇◇◇
開発二課の喧騒を背に、神代圭――混沌の神ケイオスは、無人の廊下を静かに歩いていた。
その口元には、自身の仕掛けた「悪戯」が即座に潰されたにも関わらず、恍惚とした喜悦の笑みが浮かんでいる。
(……驚いたな。まさか、『塵』に狂わされるどころか、使いこなすとは)
彼がシステムに仕掛けたのは、人間の論理では検知不可能な、純粋な「混沌」のノイズだった。通常なら原因不明のエラーとしてシステムをダウンさせるそれを、あの男――黒川徹は、「違和感」という曖昧な感覚だけで捉え、ねじ伏せた。
その正体は、紛れもなく『神の力』──。 かつてケイオスが埋め込んだ『混沌の塵』を、彼自身の「直感」として同化し、制御下に置いた結果だ。
神代は、楽しげに喉を鳴らした。 黒川徹は、もはや単なる「器」ではない。神の力すらも糧にし、自らをアップデートし続ける「特異点」だ。正面から壊そうとすればするほど、彼は結衣という守護者と共に、より強固な要塞へと進化していくだろう。
「素晴らしい。だが……堅牢すぎる要塞は、いささか攻め手に欠けるね」
神代は足を止め、社内の空気を吸い込むように目を細めた。 強固なメインシステムを落とすのに、正面突破は効率が悪い。狙うべきは、外部と接続された、不安定で、セキュリティの甘い「侵入口」だ。
彼は意識を研ぎ澄まし、このビル内に渦巻く感情の波長をスキャンする。 そこで、開発二課とは別のフロアから漂ってくる、鋭利で、冷たく、そして飢えた波動を捉えた。
焦燥。嫉妬。そして、何者かになりたいという強烈な飢餓感。
「……見つけた。実に美しい『脆弱性』だ」
神代は、獲物を見定めた捕食者の足取りで、エレベーターホールへと向かった。
◇◇◇
深夜のクラウド推進部。
愛莉は、開発二課のフロアを見下ろしていた。そこには、まだ明かりがついており、黒川と結衣が並んで仕事をしている影が見える。
脳裏によぎるのは、つい先ほどの会議室での出来事。
権力を振りかざす磯山に対し、黒川は自らの進退を顧みることもなく噛みついた。
―― 後輩ひとり守れねぇで、どの面下げて生きられる!
「……バカな男」
ガラスに映る自分の顔に向かって、吐き捨てる。
口ではそう罵りながらも、胸の奥には冷たい隙間風が吹いていた。
もし、あの場に立っていたのが私だったら?
古井部長は私を切り捨てただろう。部下たちは怯えて目を逸らしただろう。
この社内で、唯一私の味方になり得るとしたら……あの得体の知れない『女神』と──その守護者だけ。
「……なんてね。虫が良すぎるわ」
自嘲気味に呟く。
(……それに。数カ月前ならともかく、今のあいつは完全に芽上結衣のものだわ)
ズキリ、と胸が痛む。
もし、ほんの数カ月前──かつての私が、ほんの少しでも彼を認めて、その手を取っていたら……?
「……ッ、馬鹿馬鹿しい!」
愛莉は首を振って、その思考を打ち消した。考えるだけ無駄だ。彼は私にとって『駒』の一つで、そんな可能性は万に一つもなかったのだから。
私に「騎士」はいない。信頼できる「神」もいない。あるのは、その事実だけだ。
「そうよ。守ってもらう必要なんてない。……私が、誰にも負けない『力』を手に入れればいいだけ」
孤独感は、涙ではなく、黒い炎となって彼女を突き動かす。
綺麗なやり方では、カオス社にも、あの二人にも勝てやしない。今の私に必要なのは、劇的な一手――相手を出し抜くための「武器」だ。
そのためなら、何だって利用してやる。そう、例えば──。
「……神代圭」
彼女は、双方の企業の顧問を務める男の名を呟くと、決意を秘めた瞳でバッグを掴み、オフィスを後にした。
◇◇◇
エレベーターが1階に到着し、重い扉が開く。
愛莉がエントランスホールへと足を踏み出した、その時だった。
「おや。奇遇だね、森田さん」
不意にかけられた声に、愛莉はビクリと肩を震わせた。
柱の陰に、夜の闇に溶け込むようにして、神代圭が立っていた。
「……神代先生。こんな時間まで、お仕事ですか?」
愛莉は瞬時に「完璧な笑顔」を貼り付け、対応する。だが、内心の警戒アラートは最大音量で鳴り響いていた。
この男は危険だ。黒川たちが警戒していた通り、得体が知れない。
「ああ。プロジェクトの行く末が気になってね。……特に、君の『アテナ』のことが」
神代は、愛莉の横に並び、出口へと歩き出した。
「君のAIは美しい。論理的で、無駄がない。……だが、『綺麗なデータ』だけでは勝てないことは、君が一番理解しているはずだ」
「……何がおっしゃりたいんですか?」
図星を突かれ、愛莉の笑顔が強張る。
「カオス社があれほどの性能を出せる理由。……気にならないかい?」
神代は足を止め、愛莉の瞳を覗き込んだ。
その瞳は、すべてを見透かすように深く、そして甘美な誘惑の色を帯びていた。
「彼らには裏がある。君たちが真面目に積み上げている間、彼らは『近道』を使っているのさ」
「近道……?」
「君に足りないのは能力ではない。情報……そして、相手を出し抜くための『武器』だ」
神代はポケットから一枚の名刺を取り出し、愛莉の指先に滑り込ませた。 そこには、個人の連絡先だけが記されている。
「私は、頑張る人が好きでね。……もし、君が現状を打破したいと望むなら、連絡をくれたまえ。カオス社の『秘密』と、君のAIを完成させる最後のピース……教えてあげられるかもしれない」
「……っ」
愛莉は、その名刺を突き返すことができなかった。
それは、彼女がいま最も喉から手が出るほど欲しい「力」への切符だったからだ。
「あくまで、アドバイザーとしての助言だよ。……良い返事を待っている」
神代は満足げに微笑むと、夜の闇へと消えていった。
残された愛莉は、手の中の名刺を握りしめた。 指先が白くなるほど強く。
(……悪魔の誘い、ってところかしら)
分かっている。これは罠かもしれない。
だが、今のままでは座して死を待つのみだ。黒川たちに頼るのではなく、私自身の力で勝ちたい。
その執念が、理性を凌駕していく。
「……いいわ。利用できるものは、悪魔だって利用してやる」
愛莉の瞳に、冷たく、昏い炎が灯った。
それは、彼女自身の心に「侵入口」が開かれた瞬間だった。




