66. 神々の賭け(ゲーム)と、女神の絶対防衛宣言(後)
結衣と神代が退出し、オフィスのドアが閉ざされた、その瞬間──。
「神代先生! お待ちくだ――」
背後から迫っていた磯山のダミ声が、唐突に途切れた。
いや、違う。 フツリ、と。世界から「音」そのものが消え失せたのだ。
廊下に満ちているのは、凍てつくような静寂だけ。
蛍光灯の明滅も、埃混じりの空気すら存在しない、無機質な空間。
そこはもう、人間たちの住まうオフィスビルではなかった。
物理法則が意味をなさず、ただ「意志」だけが支配する場所――神々の領域へと、反転していた。
「……読ませてもらったよ、ユイシア」
神代――混沌の神ケイオスが、足を止めた。背を向けたまま、その口元だけで笑う気配がする。
「『恋バグ宇宙創成論』……。フッ、君らしいロマンチックなタイトルだ」
「……許可なく覗き見るとは。悪趣味ですね」
結衣の声が絶対零度まで下がる。黒川と過ごした温かな余韻は消え失せ、敵対者への軽蔑だけがその場を支配する。
「そう怒るな。『宇宙の鍵は、人間の感情エネルギーにある』……この仮説には感服したよ。君にしては、的を射ている」
ケイオスはゆっくりと振り返る。その口元には、慈悲など微塵もない、嘲るような笑みが張り付いている。
「だが、結論が甘すぎる。『愛』を核にするとはね。……やれやれ、人間にかぶれすぎじゃないかな? 君の計算式には、もっと効率的な解があるはずだよ」
「……効率的?」
「ああ。不安定な愛などノイズに過ぎない。もっと純度が高く、世界を塗り替えるほどに重いエネルギー――そう、『絶望』だよ」
彼は、指揮者がタクトを振るうように、愉しげに細い指を空へ滑らせた。
「理不尽に追い詰められ、希望を断たれ、全てを受容して心が壊れる瞬間のエネルギー。それこそが、停滞した宇宙を破壊し、再構築するためのビッグバンとなるのだ」
「破壊と再構築……。貴方のやり方は何億年経っても変わりませんね」
結衣は、冷ややかな視線でケイオスを射抜いた。
「相変わらず乱暴で、古い。絶望と混沌だけで創られた宇宙が、まともに機能するとでもお思いですか? すぐに崩壊します」
「だからこそ――」
ケイオスは、一瞬で結衣との距離を詰めた。
吐息がかかるほどの至近距離。彼は、愛おしそうに目を細め、結衣の頬に手を伸ばす。
「だからこそ、『調和』がいるんじゃないか」
結衣は、反射的にその手を避けた。
空を切ったケイオスの手が、寂しげに、しかしどこか芝居がかった動作で空中で止まる。
「私が破壊し、素材を生む。君がそれを整え、定義する。……我々は対の神だ。そうだろう? ユイシア」
「……ッ」
結衣の胸に、生理的な嫌悪感が走る。かつては、それでも良かったのかもしれない。けれど今は、その傲慢さがたまらなく不快だった。
「あの開発二課は、最高の苗床だ」
ケイオスは、閉ざされたドアの向こう側――黒川たちがいる方向を見やった。
「彼らの絆、信頼、そして希望……。それらが高まれば高まるほど、裏切られた時の『絶望』は甘美なものになる。システムのために、彼らを壊して糧にしようじゃないか」
「……いいえ」
結衣は、静かに、しかしきっぱりと拒絶した。 脳裏に焼き付いているのは、先ほどの黒川の背中だ。
――後輩ひとり守れねぇで、どの面下げて生きられる!
損得など度外視で、自身の激情に身を委ねるその姿。論理的ではなく、効率的でもない。 彼は、この管理された社会において、まさしく異物――『不調和』そのものだ。
けれど。 凍てついた停滞を打ち砕き、私の心に熱を灯すのは、いつだってその『バグ』なのだ。
「貴方は何も分かっていない。彼らは不完全です。ですが、不完全だからこそ……貴方の完璧な計算を超えるエネルギーを生み出すのです!」
結衣は、自身の対の存在である混沌の神──ケイオスを真っ直ぐに見据え、断言した。
「未来を創るのは、私たちではありません。バグを抱え、悩み、それでも前に進もうとする人間です」
彼女の身体から、微かな光が溢れ出す。それは、かつての冷たい神の光ではない。人間たちの温かさを知った、優しい光だ。
「……消えるべきは、進化を止めた神々の方。ケイオス、これ以上、貴方の勝手を許すつもりはありません……!」
「ほう?」
ケイオスの目が、怪しく光った。
「ならば、どうするつもりだ。ユイシア。今の君に、私を止められる力など残っていないだろう? ……無謀だな。消えるのは君の方だ」
「ええ。ですが、貴方とて無傷では済まないはず。ほんの一時、その顕現する力を奪えれば十分です」
結衣は一歩踏み出す。その瞳には、刺し違えてでも黒川たちには指一本触れさせないという覚悟が宿っていた。
ケイオスは、そんな結衣の姿を見て――クツクツと笑い出した。
「ハハハ! 傑作だ! 調和の女神が、人間ごときのために牙を剥くとはね! ……いいだろう、ならば証明してみせたまえ」
彼は、愉悦に満ちた笑みを浮かべたまま、提案した。
「賭けをしよう、ユイシア」
「賭け……?」
「この『国プロ』の結果で決めるのさ。カオス社か、デジタル・ハーモニー社か。どちらが勝つか」
「……条件は」
「私が勝てば、君は大人しく天界へ戻り、この人間界を私に明け渡す。逆に、もし君たちが勝てば……私はこの地から手を引こう。黒川徹への干渉も解き、二度と手出しはしない」
それは、あまりにも分が悪い賭けだった。 だが、結衣に選択の余地はない。今ここで衝突すれば、余波で開発二課が吹き飛びかねない。
「……ハンデとして、最後の瞬間まで、私は『神としての致命的な一手』は控えると約束しよう。あくまで、人間社会のルールの中で、彼らを追い詰めてあげるよ」
ケイオスの言葉は、罠の響きを含んでいる。しかし、これは「休戦協定」でもある。黒川たちの安全を確保するためには、受けるしかなかった。
「……分かりました」
結衣は、決意を込めて頷いた。
「その賭け、受けます。……後悔しますよ」
「ふふ、それは楽しみだ。見せてくれたまえ。君が惚れ込んだ『バグ』が、私の計算をどう狂わせるのかをね」
世界が、再び反転する。 音が、光が、日常が戻ってくる。 ケイオスは満足げに背を向け、廊下の奥へと消えていった。
残された結衣は、一度だけ深く息を吸い込むと、弾かれたように走り出した。 神としての威厳も、冷徹さもかなぐり捨てて。 ただ、大切な人を守るために。
◇◇◇
一方、開発二課のプロジェクトルーム。
「……遅ぇ。まだ戻ってこねぇのか」
黒川の貧乏ゆすりが、限界に達していた。
結衣が出ていってから30分。単なる休憩にしては長すぎる。あの得体の知れない男に、何かされているのではないか。悪い想像ばかりが膨らみ、焦燥感が胸を焼き尽くす。
「……クソが!」
もやは我慢の限界だった。黒川は、バン! とデスクを叩き、ジャケットをひっ掴んで席を立つ。
「あ、あの黒川さん!? どちらへ!」
「ああ!? だからクソだクソ!! 便所行ってくる!!」
誰がどう聞いてもバレバレの嘘を吐き捨て、ドアに向かって大股で歩き出す。
佐々木や佐藤が「お、おい黒川ーっ!」「黒川さん!!」と止める声も耳に入らない。
(知ったことか! クビだろうが何だろうが、あいつに指一本でも触れさせてたまるかよ!)
黒川がドアノブに手をかけ、回そうとした、その瞬間。
── バンッ!!
外から、勢いよくドアが開かれた。
黒川は慌てて一歩下がり、鼻先数センチで衝突を回避する。飛び込んできたのは、肩で息をする結衣だった。
「はぁ、はぁ……!」
「め、芽上!?」
結衣は乱れた髪も直さず、全力で走ってきたかのように呼吸を弾ませている。さっきまでの冷静沈着な彼女とは、まるで別人のようだった。
「お、おい。……どうした? 大丈夫かよ」
「黒川さん……!」
結衣は、黒川の姿を認めると、抱きつかんばかりの勢いで詰め寄り顔を覗き込む。その瞳は潤んでいるようにも、怒っているようにも見える。
黒川は、常にない彼女の様子に驚きながらも、彼女の肩が微かに震えていることに気づき、ハッとする。
「大丈……」
「いいえ、全く大丈夫ではありません!」
結衣は、食い気味に叫ぶと、黒川の両手をガシッと強く握りしめる。
「彼は……神代さんは、危険です……! 近寄るべきではありません!!」
「あ、ああ? わかった。なら、俺が」
「ですから!!」
結衣は、ぐっと顔を近づけた。黒川の顔を至近距離で見上げる。
その瞳には、これまでに見たことのないような、燃えるような使命感と、深い愛情……そして、狂気にも似た決意が渦巻いている。
思わず顔を赤く染めて怯む黒川を余所に、彼女はフロア中の視線を一身に浴びながら、高らかに宣言した。
「ですから、私が護ります!! 片時も離れず、護るとお約束しますから!!」
「……へ?」
黒川の口から、間の抜けた声が漏れた。
佐藤、田中、佐々木、そして愛莉。全員がポカンと口を開け、手を握り合う二人を凝視している。
それは、傍目には熱烈すぎる愛の告白。
だが、その実は――神々を相手取った、命がけの宣戦布告だった。
絶望へのカウントダウンと、女神の絶対守護宣言。現場の困惑を置き去りにして、世界を懸けた最終決戦の幕は、唐突に切って落とされたのだった。
お読みいただきありがとうございます!不穏な幕開け・後編です。
気に入っていただけましたら、評価・ブクマ等いただけると執筆の励みになります!
よろしくお願いいたします!




