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61. 幕間:開発二課の日常と観測者の溜息


午後の開発二課。


佐藤健太は、自分のデスクで、今日何度目か分からない深い溜息をついた。午前中に起きた「魔法使い」事件の余波は、まだフロアの空気を重く支配している。


(やっちゃったなあ…。まさか、黒川さん本人に聞かれるとは…)


元はと言えば、田中の素朴な疑問から始まったことだ。しかし、最終的に黒川にあれだけの禍々しいオーラをまとわせるきっかけを作ったのは、間違いなく自分と田中だろう。


佐藤は、罪悪感から、数席離れた黒川の背中をチラリと盗み見た。


机の周りには、まるで「半径5m以内、侵入禁止」とでもいうべき、目に見えない結界が張られているようだ。時折、彼が忌々しげにキーボードを叩きつける音が響き、そのたびにフロアの若手たちがビクリと肩を震わせる。


(謝りたくても、近づくことすらできない…)


いや、むしろ謝ったりしたらヤブヘビだ。怒りが収まるまで、耐え忍ぶしかない。佐藤は、そっと腹部に手をやり、胃を抑えた。


その、誰もが恐れる結界を、何のためらいもなく、すたすたと歩いて突き抜けていく人影が一つ。

芽上結衣だ。


(うわあああ!芽上さん、今だけはダメだ!絶対ダメなタイミングだって!)


佐藤の心の絶叫も虚しく、彼女は分厚いファイルを手に、黒川のデスクの真横に立った。


「黒川さん。先日の医務室での合意に基づき、最新版をお持ちしました。こちらの『感情パラメータ観測及び人間アルゴリズム解析への協力に関する同意書 Ver.4.5』にご署名をお願いします」


黒川は、頭を抱えて「マジかよ…」と力なく呻いた。その表情は怒りではなく、心底うんざりした「弱った顔」だ。


彼は、周囲に聞こえないように、結衣にだけ届く小声で問い詰めた。


「おい…お前、本気で言ってるのか?しかも、なんで今なんだよ…」


結衣は、彼の小声など意に介さない。「もちろんです」と、いつもの真面目なトーンで返す。


「こんなの書かなくても…。好きにすりゃいいだろ」


「ですが、社内での合法的な観測に必要なことです。失念しておりましたが、無許可の観測は佐々木課長に禁止されていたのです」


「……社内でやる気かよ…。公開処刑じゃねぇか……」


ますます渋面になる黒川だったが、その表情に、一瞬だけ、期待の色が掠める。

そして、わずかに頬を染めると、結衣に顔を寄せ、蚊の鳴くような声でささやいた。


「そうじゃなくてよぉ……もっと、勤務後とか休日とか、あるだろ? 俺だって、二人きりの時だったら、いくらでも……」


言いながら、照れたように視線を泳がせた瞬間、聞き耳を立てていた佐藤と視線がかち合う。


固唾を飲んで、前のめりになっている佐藤。

その後ろで、同じようにこちらを凝視している田中や他のメンバーたちの姿。


────その瞬間、黒川の頭の中で何かが切れた。

全身の血が、カッと沸騰するような感覚。


「ああ、もう……!わかったよ!書きゃいいんだろ、書きゃ!なんせ俺が言ったことだからな!お前もなぁ……少しは空気読みやがれ!!」


怒りの形相で、しかし真っ赤な顔をして、黒川が叫ぶ。


しかし、結衣は全く動じない。静かにペンを差し出すと、彼は観念したように一度だけ天を仰いだ。

「……貸せ!」

ペンをひったくると、周囲の視線を一身に浴びながら乱暴に名前を書き殴る。


「……言っとくが、これは研究のためだ!別に、お前のためじゃねぇからな!」


そう捨て台詞を吐くと、同意書を結衣に叩きつけるように返した。


結衣は、署名された同意書を、まるで貴重な研究サンプルを受け取るかのように、両手で大切そうに受け取った。そして、「ご協力、感謝します。これで、私たちの研究は新たなステージに進めます」と、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


その笑顔が、とどめの一撃だった。


黒川は、全てのエネルギーを使い果たしたかのように、がっくりと椅子に深く沈み込み、モニターの向こうへと完全に顔を隠してしまう。もう佐藤の席から見えるのは、彼の真っ赤に染まった耳だけだった。




佐藤は、その一部始終を、もはや呆然と見つめるしかなかった。


(ああ……。あの黒川さんが……。完全に、手懐けられてる…)


口から漏れたのは、深い深い溜息だった。

そこに滲むのは、彼女の笑顔のためならば、自身のプライドさえもいとも簡単に投げ出してしまう彼への、どうしようもない不憫さと呆れ。


だが同時に、同意書を抱きしめ嬉しそうに笑った横顔と、どこか満更でもなさそうな背中に、なぜかほんの少しだけくすぐったいような温かさも感じる。


それらが混じり合った佐藤の複雑なため息は、すっかり柔らかくなったオフィスの空気に、静かに溶けていった。




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