06. 帰路。街の灯と月夜の散歩
歓迎会がお開きになった後、結衣は、一人、横浜の街を歩いていた。
時折、潮の香りを乗せた夜風が強く吹きつける。そのたびに、彼女の細身の体は、ふらりふらりと微かに揺らいだ。
ふふ、と結衣は知らず、微笑んでいた。
平衡感覚の推移に混じる、普段は存在しないはずの微細なノイズ。あの『ビール』という液体がもたらす化学反応 ―― 酔い、という現象が、『芽上結衣』という生体ユニットに影響を与えているのだ。
そして、それに連動するように、結衣の『精神』もまた、不規則なゆらぎを繰り返している。思考の所々がショートしているかのような、奇妙な浮遊感。
女神として刻んだ途方もない悠久の時においてさえ、経験したことのない初めての感覚が、今、ここにある。その事実に、結衣の『感情』が『高揚』を示しているのを彼女は認識していた。
見上げると、夜空にぽっかりと月が浮かんでいる。
地上から見上げる月は、『ユイシア』として俯瞰していた時よりも煌めいて見えた。大気の揺らぎによる光の拡散、地上のノイズフィルタリング効果…。それを『美しい』と人間の感覚は認識する。
不意に、強い風が彼女の頬を撫で、コートの裾を翻した。その風に押されるように、結衣は再び歩き始める。
そうするうちに、いつの間にか、開けた高台に来ていた。
ふと、一つの古びた街灯が消えかけていることに気づいて、軽く手を添える。何事もなかったかのように明るく輝き始めるのを見届けると、結衣は足を止めて、横浜の街をゆっくりと見渡した。
深淵の宇宙とは異なる明るい夜空。そこには数多の星々の代わりに、街の明りが輝いている。
何色ものLEDが複雑な色彩を映し出すその光景。そして、その裏に潜む、無数の欲望が混淆する無秩序なエネルギーの流れ…。神の力をもってしても御する事のできない『不調和』の奔流に、結衣は表情を曇らせた。
やがて、結衣は目を伏せると、思考を切り替えるように頭の中で冷静に分析を開始した。
( … 今日のオペレーションにおける目標達成率は92%。『普通の新人』シミュレーションは、概ね成功と言えるでしょう)
残りの8%、目標との乖離が発生した要因。問題があったとすれば、それは。
( 歓迎会での一件……。あの場におけるアルコール摂取は、私にとって計画外の行動でした。あの『ビール』という液体は、芽上結衣としての肉体に想定外の作用を及ぼしました。人間の神経伝達物質に作用し、感情という名の、予測不能なエネルギーの振幅を増幅させていた。)
歓迎会での自身の言動を思い返す。普段なら選ばないであろう言葉の数々。アルコールが、女神たるユイシアには生じえなかった、ある種の感情 ―― 負のエネルギーを誘発したのは確かだった。
(黒川さんとの対話において、『芽上結衣』としての精神には、明確な『苛立ち』に近い感情が観測されました。アルコールの触媒作用…… あるいは、『人間』の中枢神経の構造によるものなのかもしれません )
結衣は微かに首を傾げた。人間には、未知の要素が多すぎる。
(『苛立ち』による攻撃性の増加は、自己最適化の観点からは『不調和』と解釈できます。私の行動は、ほんの少しだけ、行き過ぎていた …… かも、しれません… )
しかし、後悔はない。むしろ、清々しい思いで満たされていた。
( 結果として、黒川さんの非合理的な言動という『不調和』を排除しました。これは、調和を司る存在としての責務です。そして何より、人間社会の複雑なアルゴリズム、特に『感情』と『アルコール』、そしてそれらが引き起こす『予測不能な変化』について、貴重なデータを収集できました。)
今日の経験が、自身の解析モデルを大きくアップデートさせたことに、結衣は静かな興奮を覚えた。人間界のアルゴリズムは、想定以上に複雑で、そして解析のしがいがある。
月明かりに彩られ、結衣の瞳がより一層、美しく煌めいた。その光は、未知のシステムを前にした研究者のような、純粋な知的好奇心に満ち溢れている。
(総合的に見て、今日のオペレーションは大成功でした。目標達成率92%に加え、予測外の貴重なデータ収集。そして…この人間界での観測は…予想以上に…)
結衣は、そこで考えを切った。内心で、ある評価パラメータを算出する。
( そう、『楽しい』。 ……あえて、芽上結衣としての表現を使うのであれば、『楽しい』といえるのでしょう )
再び風が吹く。ふらり、と一瞬よろめいたが、すぐに体勢を立て直し、前を向いて歩き出した。
その頭の中では、今日の出来事が冷静に分析・分類され、新たな仮説が構築され、次の行動計画へと繋がっていく。
今日の人間観察において、もっとも歪んだ不調和を放っていた存在。それを理解することが、人間理解への近道だと結衣は考えた。
―『黒川徹』。彼は、この人間社会において特筆すべき特異性を有する、『不調和』の塊とも言える存在のようだった。
「 興味深いです。調和の神たる私が、直々に修正……いいえ。まずは、観測することにいたしましょう 」
結衣は、挑戦的な光を瞳に宿して、静かに呟いた。
人間界とは、なんと不完全で、なんと非効率で、なんと不可解なバグに満ちているのだろう。自分にとっては理解しがたく ―― 、しかし、それ故に、途方もなく興味深い。
女神の『人間観察』は、時に予測不能な展開を招きながらも、着実に、そして彼女にとって『楽しく』進んでいる。世界の、そして自分自身の、まだ見ぬ『調和』の形を求めて――。
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ここで、第一章終了。幕間を挟んで第二章です。
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