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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第4章:神の愛と人の情(じょう)
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59. 揺らぐ女神と、揺らがぬ思い


夜の気配が満ちた開発二課のフロアは、静寂に包まれていた。


残っているのは、私と、そして数席離れた場所で、まだモニターに向かっている黒川さんだけ。聞こえるのは、規則正しいキーボードの打鍵音と、サーバーの低いファンノイズ。


この、どこにでもあるありふれた日常の風景が、今の私にとっては、宇宙のどんな法則よりも貴く、そして愛おしいものに感じられる。



カタカタ、カタ…と断続的に続いていた黒川さんのキーボードを打つ音が、ふと止まった。


ほんの一瞬、彼の周辺の空気が、微かに揺らぐ。私の神経がピリ、と静電気のように微細な力の発動を感知した、まさにその刹那。



……カタ、カタカタ。

何事もなかったかのように、再び規則正しい音が聞こえ始める。


私は、無意識に詰めていた息を、そっと吐き出した。




───安定している。


彼は、ケイオスの力の欠片を、完全に自らの制御下に置いたようだった。

彼本来の技術者としての経験、知識と合わさり、その解析能力は、もはや力の衰えた私では歯が立たないレベルにまで至っている。


その事実が、嬉しくもあり、少しだけ、寂しくもあった。




私の力は、静かに、しかし確実に、その輪郭を失いつつある。


かつては宇宙の隅々まで見通せたはずの知覚は鈍り、森羅万象を調律した神力は、この小さなオフィスで起きる停電一つに、全霊を傾けなければならないほどに陰っている。


こんなに近くにいる黒川さんの感情でさえ、もう、ほんのわずかな揺らぎしか読み取れない。


いや、彼の感情が読み取れないわけではない。

だが、それは、神としての「検知能力」ではなく、一人の人間としての「経験知」に近いものだ。


(なにしろ、黒川さんはとてもわかりやすい方ですから……)


無意識に、くすりと小さな笑みが漏れる。


次いで、目の前のモニターに映る刷新計画の構成図に目を向けた。


「経験知」というのなら、この解析にしたって同じことだろう。今の私がやっていることは、人間の経験則に基づいた、人間的な思考の積み重ねに過ぎない。


直接システムの深淵にアクセスし、その不調和の根源を探知しようとしても。

今の私には、果たしてできるかどうかわからない。





ここまで急激に、私の力が変質したきっかけが何だったのか。

それは、明らかだ。


あの日、あの医務室での、黒川さんからの告白───。


彼の強さに安堵し、感嘆して、心からの涙を流したあの瞬間。

私は、神としての自身の存在意義が、その根底から揺らぐのを自覚したのだ。



───人間は、神よりもよっぽど強い。


魂が、そう認識してしまった瞬間、私という存在を定義していた神の力が、すうっと空気に溶けこむように薄れていくのを、確かに感じた。


あの時、それに気づいた私は、慌ててその流出を繋ぎ止めた。

完全に力を失う訳にはいかない。彼の内部には、まだ、ケイオスの波動が残っている。


今、この身に残っているわずかな神力は、彼を守るために、必死で繋ぎ止めたかつての力の残滓だ。




(……でも。それも、もう……不要なのかもしれない……)



このまま、完全に力を失ったら。私という存在は、どうなるのだろうか?

『芽上結衣』としての身体を維持するだけの力は残るだろうか。

あるいは、この身体ごと、この世界から消えてなくなるのかもしれない。


チクリとした、鋭い痛みが、胸を刺した。




「……芽上?」


心配そうな声に顔を上げると、いつの間にか傍にきていた黒川さんと目があった。私が完全に上の空だったのに気づいて、様子を見に来たらしい。


「どうした。疲れたなら、もう上がれ」


「いえ。大丈夫です。少しだけ……考え事をしていました」


その答えに、彼は納得していないようだった。しばらく何か言いたげにこちらを見ていたが、やがて、諦めたように息をつくと、ぶっきらぼうに言った。


「…メシ行くか」


「はい?」


「俺はもう上がるから、お前も付き合え。奢ってやる」


そう言うと、彼は有無を言わせず、まだ解析途中だったPCのシャットダウンボタンに手を伸ばした。私は、慌てて、その手を掴んで止める。


「待ってください…!」


「もういい時間だ。終わんねぇなら、明日、手伝うから」


「でも……」


「なんだよ、行きたくねぇのかよ。もう帰るだけだろ?」


猶もしぶると、彼が少しだけ口を尖らせる。検知などしなくとも伝わる、明らかに不満そうな様子に、自然と笑みが零れた。


「いいえ、行きたいです。……少しだけ待ってください。すぐに保存しますから」


そう答えると、黒川さんは機嫌よく自席のPCを落として机を片付け始めた。





あの告白の後も、黒川さんは、少しも変わらなかった。


彼が宣言した通りに、私に向ける優しさも、その気持ちも、名前のない曖昧な関係も、すべてそのままだった。



それが、今の私には何よりも嬉しくて、心地よい。


存在自体が揺らいでいる、何もかもが不確かな自分。

その中で、彼の隣だけが、揺らがぬ確かな地盤のように思えた。



エレベーターを待ちながら、黒川さんの顔を見上げる。すると、彼が私の視線を気にするように自分の顎をなぞった。


「……何かついてるか?」

「いいえ。……黒川さん、いつもありがとうございます」


黒川さんは、少しだけ不思議そうに、照れたようにはにかんだ。





その笑顔を見ながら、私は、一つの願いを抱いた。

それは、生まれて初めての、理屈ではない人間的な願いだ。



────いつか、私の存在が消えてなくなったとしても。


この温もりの記憶だけは、どうか、変わらず。

彼の中に、残り続けてほしい。


そこは、きっと。何よりも温かい、自分だけの居場所だからと。



……心から、そう思った。






お読みいただきありがとうございます!


このエピソードで、「第四章 神の愛と人の情」終了となります。

揺らぐ結衣と、揺らがぬ黒川。二人の関係に、一つの大きな区切りがつきました。

幕間を挟んで、いよいよ最終章に突入します!


皆様の応援のおかげで、がんばって育ててきたこの連載も、100ptという大きな節目が目前です。

本当にありがとうございます…!

二人が迎える結末を、ぜひ最後まで見届けてください。

引き続き、ブックマークや評価(↓の☆☆☆☆☆)、感想などで応援いただけますと、めちゃくちゃ嬉しいです!

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