59. 揺らぐ女神と、揺らがぬ思い
夜の気配が満ちた開発二課のフロアは、静寂に包まれていた。
残っているのは、私と、そして数席離れた場所で、まだモニターに向かっている黒川さんだけ。聞こえるのは、規則正しいキーボードの打鍵音と、サーバーの低いファンノイズ。
この、どこにでもあるありふれた日常の風景が、今の私にとっては、宇宙のどんな法則よりも貴く、そして愛おしいものに感じられる。
カタカタ、カタ…と断続的に続いていた黒川さんのキーボードを打つ音が、ふと止まった。
ほんの一瞬、彼の周辺の空気が、微かに揺らぐ。私の神経がピリ、と静電気のように微細な力の発動を感知した、まさにその刹那。
……カタ、カタカタ。
何事もなかったかのように、再び規則正しい音が聞こえ始める。
私は、無意識に詰めていた息を、そっと吐き出した。
───安定している。
彼は、ケイオスの力の欠片を、完全に自らの制御下に置いたようだった。
彼本来の技術者としての経験、知識と合わさり、その解析能力は、もはや力の衰えた私では歯が立たないレベルにまで至っている。
その事実が、嬉しくもあり、少しだけ、寂しくもあった。
私の力は、静かに、しかし確実に、その輪郭を失いつつある。
かつては宇宙の隅々まで見通せたはずの知覚は鈍り、森羅万象を調律した神力は、この小さなオフィスで起きる停電一つに、全霊を傾けなければならないほどに陰っている。
こんなに近くにいる黒川さんの感情でさえ、もう、ほんのわずかな揺らぎしか読み取れない。
いや、彼の感情が読み取れないわけではない。
だが、それは、神としての「検知能力」ではなく、一人の人間としての「経験知」に近いものだ。
(なにしろ、黒川さんはとてもわかりやすい方ですから……)
無意識に、くすりと小さな笑みが漏れる。
次いで、目の前のモニターに映る刷新計画の構成図に目を向けた。
「経験知」というのなら、この解析にしたって同じことだろう。今の私がやっていることは、人間の経験則に基づいた、人間的な思考の積み重ねに過ぎない。
直接システムの深淵にアクセスし、その不調和の根源を探知しようとしても。
今の私には、果たしてできるかどうかわからない。
ここまで急激に、私の力が変質したきっかけが何だったのか。
それは、明らかだ。
あの日、あの医務室での、黒川さんからの告白───。
彼の強さに安堵し、感嘆して、心からの涙を流したあの瞬間。
私は、神としての自身の存在意義が、その根底から揺らぐのを自覚したのだ。
───人間は、神よりもよっぽど強い。
魂が、そう認識してしまった瞬間、私という存在を定義していた神の力が、すうっと空気に溶けこむように薄れていくのを、確かに感じた。
あの時、それに気づいた私は、慌ててその流出を繋ぎ止めた。
完全に力を失う訳にはいかない。彼の内部には、まだ、ケイオスの波動が残っている。
今、この身に残っているわずかな神力は、彼を守るために、必死で繋ぎ止めたかつての力の残滓だ。
(……でも。それも、もう……不要なのかもしれない……)
このまま、完全に力を失ったら。私という存在は、どうなるのだろうか?
『芽上結衣』としての身体を維持するだけの力は残るだろうか。
あるいは、この身体ごと、この世界から消えてなくなるのかもしれない。
チクリとした、鋭い痛みが、胸を刺した。
「……芽上?」
心配そうな声に顔を上げると、いつの間にか傍にきていた黒川さんと目があった。私が完全に上の空だったのに気づいて、様子を見に来たらしい。
「どうした。疲れたなら、もう上がれ」
「いえ。大丈夫です。少しだけ……考え事をしていました」
その答えに、彼は納得していないようだった。しばらく何か言いたげにこちらを見ていたが、やがて、諦めたように息をつくと、ぶっきらぼうに言った。
「…メシ行くか」
「はい?」
「俺はもう上がるから、お前も付き合え。奢ってやる」
そう言うと、彼は有無を言わせず、まだ解析途中だったPCのシャットダウンボタンに手を伸ばした。私は、慌てて、その手を掴んで止める。
「待ってください…!」
「もういい時間だ。終わんねぇなら、明日、手伝うから」
「でも……」
「なんだよ、行きたくねぇのかよ。もう帰るだけだろ?」
猶もしぶると、彼が少しだけ口を尖らせる。検知などしなくとも伝わる、明らかに不満そうな様子に、自然と笑みが零れた。
「いいえ、行きたいです。……少しだけ待ってください。すぐに保存しますから」
そう答えると、黒川さんは機嫌よく自席のPCを落として机を片付け始めた。
あの告白の後も、黒川さんは、少しも変わらなかった。
彼が宣言した通りに、私に向ける優しさも、その気持ちも、名前のない曖昧な関係も、すべてそのままだった。
それが、今の私には何よりも嬉しくて、心地よい。
存在自体が揺らいでいる、何もかもが不確かな自分。
その中で、彼の隣だけが、揺らがぬ確かな地盤のように思えた。
エレベーターを待ちながら、黒川さんの顔を見上げる。すると、彼が私の視線を気にするように自分の顎をなぞった。
「……何かついてるか?」
「いいえ。……黒川さん、いつもありがとうございます」
黒川さんは、少しだけ不思議そうに、照れたようにはにかんだ。
その笑顔を見ながら、私は、一つの願いを抱いた。
それは、生まれて初めての、理屈ではない人間的な願いだ。
────いつか、私の存在が消えてなくなったとしても。
この温もりの記憶だけは、どうか、変わらず。
彼の中に、残り続けてほしい。
そこは、きっと。何よりも温かい、自分だけの居場所だからと。
……心から、そう思った。
お読みいただきありがとうございます!
このエピソードで、「第四章 神の愛と人の情」終了となります。
揺らぐ結衣と、揺らがぬ黒川。二人の関係に、一つの大きな区切りがつきました。
幕間を挟んで、いよいよ最終章に突入します!
皆様の応援のおかげで、がんばって育ててきたこの連載も、100ptという大きな節目が目前です。
本当にありがとうございます…!
二人が迎える結末を、ぜひ最後まで見届けてください。
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