表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第4章:神の愛と人の情(じょう)
58/71

58. ドメイン適応と暗黙知


黒川の「競争だ」という宣言から始まった三種のAIモデル検証は、数日後、誰の勝利でもない、重苦しい結果を突きつけることになった。


共同プロジェクトルームの大型モニターには、「アテナK」、「アテナH」、「アテナG」の3つの学習曲線が並んで表示されている。


愛莉は、自らが本命と見ていた「アテナH」──GANと黒川モジュールのハイブリッドモデルが、無残な形で停滞、あるいは異常値を示しているのを、固い表情で見つめている。その瞳からは、いつもの自信に満ちた光が消え、焦りと屈辱の色が浮かんでいた。


その隣で、黒川もまた、自らの名を冠した「アテナK」──黒川モジュール単体による学習グラフが、ある一点から完全に水平線を描き、成長を止めてしまっているのを、苦々しげに睨みつけていた。



重い沈黙を破ったのは、結衣だった。

彼女だけが、変わらぬ冷静な声で、それぞれのグラフを指し示しながら分析結果を告げる。


「…以上の結果から、アテナKは汎化性能に、アテナHとGは安定性と精度に、それぞれ深刻な課題を抱えていることがわかります。現時点では、どのモデルも実用には至りません」


その非情なまでの分析に、佐々木や佐藤、田中もがっくりと肩を落とした。



愛莉が、悔しさを押し殺した声でポツリと呟く。


「……これはやっぱり……黒川モジュールが、私のアテナの学習を阻害しているんじゃないですか…?」


「俺のせいだって言うのかよ!? だったら、お前のAIこそ…」


再び始まるかに見えた二人の対立。しかし、その声には以前のような勢いはない。自らのアプローチの限界を目の前に突きつけられ、弱々しく声を発したきり、耐えかねたように口を閉ざした。


その痛々しいやり取りを見かねてか、田中がおずおずと手を挙げる。


「あの…。素朴な疑問なんですけど…。黒川さんの『アテナK』は、もう事業部長の目標…15%の改善を、DH社のシステムに対しては達成してますよね?だったら、まずは一安心、じゃないんでしょうか…?どうして皆さん、そんなに難しい顔を…」


その純粋な言葉に、佐々木が自分の出番だとばかりに勢いよく立ち上がった。


「いい質問だ、田中くん!確かに、短期的な目標は達成した!だがな、それはDH社の既存業務…いわば『ホームグラウンド』のみでの話だ!」


そして、佐々木は熱っぽく語り始める。


「我々の『ハーモニーX』の目的は、全国の多種多様な行政基盤の連携だ。次の中間報告は乗り切れても、他システムに展開した途端に精度問題がやり玉にあがってしまう。前にも、教えただろう!?PHSとガラケー、最新スマホでは……いや、この例えは古いのだったな…!」


佐々木は少し考え込み、ポンと手を打った。


「そうだ!ジャンプとマガジン、サンデーの違いと言い換えてもいい!ジャンプで鉄板の『努力』『友情』『勝利』の方程式は、サンデーで人気のラブコメの土壌にはなじまん…!つまり、そういうことだ!!」


得意げに言い切る佐々木。しかし、田中はさらに困惑を深める。


「す、すみません、課長…。僕、漫画雑誌は読まないので、よく…」


「うぐぅ!これもダメか…!」


佐々木が頭を抱えて崩れ落ちる。その光景を冷めた目で見ていた愛莉が冷静に、しかし少し呆れたような声で引き取った。


「課長、ご説明ありがとうございます。田中さん、これは『ドメイン適応』の課題です」


愛莉は手元のタブレットを操作し、モニターに新たなグラフを映し出す。


「こちらの汎化性能のグラフを見てください。これは、先月、導入されたばかりの新しい業務フローに対する誤り訂正率を元に算出したものです。見ての通り、アテナKの精度は、HにもGにも劣っている…。つまり、未知のデータには対応できないということです」


彼女は悔しそうに続ける。


「黒川モジュールが、X-Core…つまり、DH社のみに特化していることは最初から分かっていました。それを打開するための策が、ハイブリッドモデルだったんです。それが、さっぱり機能しないなんて。何が問題なのかしら…?」


愛莉の言葉をきっかけに、結衣が口を開く。


「問題は、モデルの汎化性能そのものよりも、入力データの『文脈』をAIが捉えきれていないことに起因する可能性があります。各ドメインが持つ、暗黙的なルールや文化的背景…。それを特徴量として、どうモデルに組み込むか…」


結衣のその一言を皮切りに、彼女と愛莉による、常人には理解不能なレベルの高度な技術議論が始まった。ホワイトボードが、複雑な数式やアーキテクチャ図で埋め尽くされていく。

佐々木も佐藤も、すぐについていけなくなり、田中は完全に思考を放棄して白目を剥いていた。


(また凡人(おれたち)には見えない高次元の話が始まってしまった…。これだから、天才は……)


佐藤は、為すすべなくその光景を眺めていたが、ふいに、『彼』の存在を思い出す。


そうだ。今の俺たちには彼がいる。

『天才』と『凡人』の翻訳者たる男が……!


佐藤は、この状況を打開できるのは黒川しかいないと、助けを求めて彼の背中に視線を送った。


しかし、黒川はホワイトボードには目もくれず、手元のPCに映し出された生データログだけを、食い入るように見つめていた。画面には、意味不明な文字列が滝のように流れている。


その指が、時折、ログの一部をハイライトしては、何か考え込んでいる。その横顔は、無機質な数字の羅列の中に、言いようのない不快感を覚えているかのように、眉根が寄せられていた。


(……なんなんだ、この感じは。この時期のデータだけ、何か気味が悪ぃ…)


やがて、彼の指がピタリと止まった。

説明のつかない、だが、絶対の確信が脳を支配する。そして、誰に言うでもなく呟いた。


「……わかったかもしれねぇ」


全員の視線が、一斉に彼へと突き刺さる。黒川は、モニターに自分のPCの画面を投影する。そこには、膨大なログから特定の期間のみを抽出して可視化した、数種類のグラフと表が表示されていた。


「この期間を見てみろ。アテナHの正誤判定率が、他の週に比べて明らかに不安定になってる。原因はここにあるデータのどれかだ。この期間…グラフ変動の発生日の3日前から2週間、ごっそり除外して再学習させれば改善するはずだ」


彼は言葉少なにそう説明すると、すぐさま手元のPCで問題の期間のデータを特定し、除外処理を施したデータセットを愛莉の端末に転送した。


「こいつだ。試してみろ」


「……そんなのは統計的な誤差の範囲内だわ。それを異質だと判断する根拠は?」


「ですが森田さん、現状は手詰まりです。何かがある可能性があるなら、まずは試してみませんか?」


結衣の冷静な後押しもあり、愛莉は半信半疑ながらも、そのデータでAIの再学習を開始する。数分後、モニターに表示された新しい学習曲線に、部屋中が息をのんだ。

不安定だったグラフは、嘘のように滑らかな、美しい理想曲線を描いている。アノマリーは完全に消失していた。


「す、すごい…。前から思ってましたが、黒川さんの言うことって、いつも当たりますよね…。野生のカン……いえ、天賦の才能なんでしょうか…?」


感嘆の声を漏らす田中に、しかし、結衣が静かに首を振った。


「いいえ、田中さん。これは『カン』という非論理的なものではありません。黒川さんの長年の経験によって脳内に構築された、言語化困難な知識体系──『暗黙知』です。熟練の職人だけが持つ、極めて高度な判断アルゴリズムと言えます」


その言葉に、黒川が少し難しい顔をしながらも、続ける。


「……そうだな、芽上の言う通りだ。『カン』や『当てずっぽう』でやったわけじゃねぇ。理由なら想像が付く」


彼は、手元のPCを操作して何かのデータを確認していたが、やがて「当たりだ」と小さく呟き、先ほど特定した期間の別のログをモニターに映し出した。


「見てみろ。リリース履歴と、サービス運用ログだ。この日の深夜、緊急メンテナンスが入ってる。『特定条件下におけるデータ不整合の暫定対処』…。これだけじゃ詳細はわからねぇが、十中八九、深刻な不具合対処だろうな」


「サービスが止まってる間の申請データはどうなると思う?サービス再開後、数日にわたって、後付けで無理やり投入・補正される。そのイレギュラーなデータが、全体の正誤判定を狂わせた。そういうことだろうよ」


その鮮やかな推理に、田中だけでなく、佐々木や佐藤も「なるほど…」と感心の声を上げた。

黒川は、ふんと鼻を鳴らして得意気に口角を上げながらも、その内心は、全く異なる感情に支配されていた。



(…そうだ。これは、カンなんかじゃねぇ。抜き出して見りゃ、このデータの異質さは明白だ。なぜと問われれば、今のように説明がつく)


(だが、この違和感はなんだ…?この膨大なログデータの中から、俺は、どうして……この期間に着目しようと思ったんだ…?)


まるで、「ここに問題がある」と、最初から分かっていたかのような、気味の悪い感覚。大量のログデータを前に、その部分だけが何故だか色が変わって見えたような気さえした。


その感覚の再現を試みるかのように、黒川は再度データを睨みつけると、さらに数点の不備を指摘した。その度、アテナHの曲線はみるまに改善していった。



その様子を、結衣は、憂いを帯びた瞳で見つめていた。


(……黒川さんの内部で、ケイオスの波動が強まっている。間違いない。これは、神の『検知能力』と同質の力…。それが、彼の『暗黙知』と合わさって、異常なレベルの能力を発現させている…?)



結衣が黒川の魂に根差した力の変調に息を呑んだ、その時だった。


佐々木が「す、すごいぞ黒川!」と声を上げた。

部屋中が感嘆と興奮に包まれる。しかし、その熱気に、冷や水を浴びせるかのように、愛莉が冷静に、鋭く声を上げた。


「……素晴らしいです、黒川さん。でも、そのやり方はスケールしません。なんの解決にもなっていない」


「あなたの暗黙知はDH社のX-Coreには適用できるかもしれないけれど、『ハーモニーX』は全国の多様な行政システム基盤と繋がるんです。万一、あなたの暗黙知が自治体に適用できたとしても、将来に渡って、ひたすらあなたが目視で確認し、最適化していくとでも言うんですか?不可能だわ」


その的確な指摘に、誰もが言葉を失った。黒川の個の力は圧倒的だが、それが汎用的な解決策ではないこともまた、明らかだった。


重苦しい空気を断ち切ったのは、佐々木だった。彼は、パン、と大きく手を叩く。


「よし!課題は明確になったな!だが、まずは目先の目標達成だ。黒川のおかげで、我々はカオス社を凌駕する精度を手に入れた。この事実は揺るぎない!次の中間報告では、この結果をもって圧倒的優位に立つ!自治体への適用は、その勝利を確定させた後の次のステップだ。それまでに、我々で対策を練る!」


マネージャーとしての現実的な判断。それに、一同は頷くしかなかった。会議はお開きになる。


しかし、三人の思考は、まだ止まっていなかった。

黒川は、自らの内に芽生えた、得体の知れない能力への戸惑いを。

愛莉は、黒川の暗黙知という「魂」を、どうすればアテナに移植できるかという野心を。

そして結衣は、黒川の魂を静かに蝕む「混沌」から、彼をどうすれば守れるかという焦燥を。


三者三様の思惑を乗せて、プロジェクトは、新たな、そしてより困難な局面へと静かに舵を切ったのだった。





お読みいただき、ありがとうございます!


前回までのラブコメ展開から一転のお仕事回、AI開発の壁の一つでもある

「ドメイン適応」をテーマにしてみました。

佐々木課長の漫画雑誌の例えは、田中くんには伝わりませんでしたが、我ながら

巧い例えだと思っており(笑)、少しでも雰囲気が伝わっていれば幸いです。


もしご興味もっていただけましたら、ぜひ評価や感想で教えていただけると

めちゃくちゃ喜びます!次回もよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ