57. 告白(後)
二人きりの医務室に、静寂が訪れる。
結衣は、ただ驚いたように大きく目を見開いて、黒川を見つめていた。
その深い青色の瞳が、困惑と、驚きと、そして黒川には読み解けない何か複雑な色をたたえて、微かに揺れている。
その揺れる瞳を、今度は黒川の方が真っ直ぐに見つめ返す。
──不思議だった。
あれほどまでに胸の中で荒れ狂っていた感情の嵐が、嘘のように凪いでいる。
心の奥底に溜まっていた澱をすべて吐き出してしまったかのような、奇妙な達成感。あるいは、ただの開き直りか。
どちらにせよ、ひどく清々しい気分だ。
肩の力が、ふっと抜けて、自分がまだ彼女の手を強く握りしめていたことに気づき、慌てて力を緩めた。
だが、彼の手が離れようとした、その瞬間。
今度は逆に、結衣の指が、彼の右手をきゅっと握り返してきた。
「黒川さん……」
力なく呟かれたその声には、まだ混乱の色が濃い。
黒川は、繋がれた右手はそのままに、前のめりになっていた姿勢をゆっくりと戻した。
そして、目の前の、まだ状況を飲み込めていないらしい彼女に向かって、どこか吹っ切れたような、それでいて少しだけ照れくさいような苦笑いを向ける。
「おまえに惚れてる。……まあ、バレバレだったみてーだけどな」
一度、口にしてしまえば、気恥ずかしさも意地もない。妙にすっきりと落ち着いた気分で、今度は何の気負いもなく、そう言って笑った。
その言葉を、結衣はすぐには咀嚼できなかったようだ。何かを確かめるように、繋いだままの黒川の右手を、何度も握り直していたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「ええ……そうです。あなたのその感情のベクトルを、私は、認識し……把握していました」
そして、意を決したように顔をあげると、黒川の瞳の奥を見つめながら告げた。
「ですが、私には……。あなたに、同じ気持ちを返すことはできません」
きっぱりとした、しかしどこか痛みを堪えるような声が、静かな医務室に響く。
その瞳には、彼を傷つけることへの純粋な躊躇いと、それでも伝えなければならないという、彼女なりの誠実さが宿っていた。
「まあ……そうだろうな」
黒川は、分かりきっていたことのように、穏やかに頷いた。不思議と、胸は痛まない。むしろ、彼女のどこまでも誠実で、真摯な瞳が、自分に安らぎを与えてくれるようだった。
「わかってる。別に、言いたかっただけだ。気にしなくていい」
その言葉は、心からの本心だったが、彼女はますます戸惑ったように眉を下げた。
黒川の手を握る指が、どうしたらいいか分からないとでも言うように、落ち着きなく何かを探っている。まるで、彼の脈拍や体温から、言葉の真意を読み取ろうとしているかのようだ。
やがて、彼女は諦めたように力を抜いて、小さく問いかけた。
「……あの、黒川さん……。私は、今後あなたに対して、どのように振る舞うべきなのでしょうか……?」
その瞳には、さきほどまでの悲しみも自責の色もない。ただ、本気でわからないとでもいうように、途方にくれた瞳で困っている。
その様子が珍しくて、黒川は思わず笑ってしまった。そして、少しだけ意地悪く、口元を歪めて言う。
「なんだよ。俺の気持ちは、迷惑だって言うのかよ」
「いいえ、そんなことは…!」
結衣は、弾かれたように顔を上げると、強く首を振って否定する。
「迷惑だなんて、ありえません。嬉しい…です」
それは、心の底から零れ落ちたような、正直な想いだった。
その言葉に、黒川の表情が穏やかに綻ぶ。結衣は、その反応に勇気づけられるように、慎重に、だが誠実に、自身の気持ちを言葉にした。
「あなたが私に向ける感情は、いつも、とても純粋で…強いエネルギーに満ちています。それは、私が観測してきたどの事象よりも貴く、掛け替えのないもので……私の興味を強く引きつけてやみません。できることなら、ずっと、その輝きを見ていたいと、そう思っていました」
ある意味、想像していた通りの言葉だった。黒川は、もう笑うしかない。
このどこか人間離れした女神サマにとっては、自身に向けられる恋心さえ、興味深い分析対象だということだ。
「お前らしいっていうか……。それなら、それでいいだろ」
全てわかっていて、それでも心を開け渡してしまったのだから、今更だ。驚きも何もない。
「これまでと同じだ。何も変える必要ねぇ。変えたいとも思わねぇよ」
その言葉に、しかし、結衣は強く首を振った。
「いいえ、同じではいけません。あなたのその感情と、私の無理解が、あなたを心身ともに追い詰めたのです。これは、放置できないクリティカルな問題……明白な『バグ』です。バグは、正さねばなりません……!」
「『バグ』って、お前なぁ……」
黒川は、呆れを通り越して、もはや感心するような溜息を一つ吐いた。
だが、自分を心配して、どうにか「正しい状態」に戻そうとしている彼女の真剣な表情を見ていると、すぐに、胸の奥からどうしようもない愛おしさが込み上げてくる。
どこまでも、真面目で、ズレていて───だからこそ、目が離せなくて、放っておけない。
彼は、繋がれたままの彼女の手に、無意識に少しだけ力を込めた。
「ホント、しょうがねぇな……。芽上、お前に一つ教えてやる」
彼女がズレているなら、彼女の論理に合わせてやればいい。このどうしようもない真実を、彼女の言語に翻訳してやるまでだ。
「いいか、よく聞け」
黒川は、わずかに身を乗り出し、揺れる彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。そして、自分の胸を、親指でとん、と軽く叩く。
「これはな……『バグ』じゃなくて『仕様』だ」
「仕様…ですか?」
結衣が目を瞬きながら、小さく首を傾げる。その反応に、黒川の口元がわずかに緩んだ。
「ああ。俺っていう人間の、どうしようもねぇ根本仕様だ。変えられねぇし、変える気なんかサラサラねぇ。それが『問題』だって言うなら、そっちが…お前が、俺に合わせるしかねぇよな」
自分の気持ちに応えるのかと、暗に問う。途端に、彼女が言葉を詰まらせて首を振った。
「それでは…解決になりません。そのように不安定な状態を、許容することは…」
「できねぇだろ?」
黒川の声には、彼女を責める響きは微塵もない。ただ、変えようのない事実を、あるがまま受け止めて言った。
「俺だって、無理に合わせられても困る。……別にいいじゃねぇか。バグも、仕様も、必ずしも直さなきゃならねぇもんでもないしな」
言いながら、繋がれていた手をそっと離す。もう彼女を不安にさせることはしないという、無言の意思表示だった。そして、どこか吹っ切れたような、穏やかな声で続ける。
「俺は俺で、勝手にお前のことを好きでいる。お前はお前で、これまで通り勝手に俺を観察でも分析でもしてればいい。噛み合ってねぇかもしれねぇが、それでいいんだよ」
「仕様の噛み合ってないシステムなんて、ザラにある。そういう時は……騙し騙し運用するか、折れて『仕様変更』を受け入れるか。……まあ、一種の根比べだな」
そこで一度言葉を切り、黒川は、ニヤリと、挑戦的な笑みを浮かべた。
「俺は折れない。だから、今まで通りだ」
その、眩しい光のような、力強い宣言に、結衣は息をのんだ。
彼女の神としての知覚が、黒川の魂の奥底に、まだ微かに燻る混沌の波動を捉える。
だが、その澱んだ闇は、もはや彼を蝕むことはできない。
彼が「仕様」と呼んだ、感情の定義。それが礎となって、外部からのどんな干渉にも揺るがない、強固な地盤を築き上げたのだ。
────彼はもう、混沌に振り回されることはない。
その事実に気づいた瞬間、結衣の瞳から、再び涙が零れ落ちた。
しかし、それは先ほどの悲しみや罪悪感の涙ではなかった。安堵と、畏敬と、そしてどうしようもないほどの歓喜に満ちた、温かい涙だった。
「……よかった…」
その涙に、今度は黒川が焦る番だった。
せっかく凪いだはずの彼の思考回路が、再びショートする。
「おい、またかよ!? なにも泣かせるようなこと、言ってねーだろ!?」
わけが分からず、ほとんど悲鳴に近い声が出た。
その狼狽ぶりに、結衣はどうにか涙を抑えようと、顔を手で抑えながら、必死で言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、嬉しくて……。それに、安心して、しまって……」
結衣が目元を手の甲で拭いながら、顔を上げた。
その泣き笑いの表情に、黒川は、ぐっと言葉を詰まらせる。
嬉しそうに涙を零す、その矛盾した表情が、どうしようもなく愛おしくて、心臓を鷲掴みにされる。
「わ、わかったから……、もう、泣くなって……!」
思わず彼女へと伸ばしかけた手をすんでで止めて、視界の端にあった籠のタオルを掴む。それを、半ば押し付けるようにして彼女の手に握らせた。
その不器用な優しさに、結衣はふふ、と息を漏らすように笑いながら、受け取ったタオルで顔を抑えた。
そして、タオルの下から、まだ少し涙の残る、くぐもった声で呟く。
「黒川さん……。あなたは、本当に……強い人です」
その声に、黒川が背けていた視線を戻すと、結衣は涙を拭い、タオルをそっと外したところだった。
濡れた睫毛の奥で、その深い青色の瞳が、真っすぐに彼を見つめている。
「その強さが……私は、とても……、とても、好きなんです」
その声は、疑いようもないほどに、純粋で真摯な響きを帯びていた。
「……振っておいて、それかよ…」
少しだけ責めるように、だが、抑えきれない嬉しさを滲ませて、黒川が苦笑する。
結衣は、小さく、笑い交じりの声で「ごめんなさい」と呟き、そして──彼が世界で一番好きな、あの花が綻ぶような笑顔で、はにかんだ。
その笑顔を見て、黒川は、もう何も言えなくなった。
───もう、十分だ。
彼女が、こうして幸せそうに笑ってくれている。
これ以上の、何を求める必要があるのかと、心からそう思った。
(……さて。問題はこの後だ。アイツらの面倒くせぇ尋問がまってやがるからな)
イエスでもノーでも保留でもない、第四択目。
そう答えたら、ヤツらは、どんな顔をするだろう。
きっと、理解できないに違いない。
そんなことを考え、黒川は、どうしようもなく込み上げてくる笑いを噛み殺した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
開発二課を巻き込んだ「告白大作戦」、ついに完結です。
イエスでもノーでも保留でもない、「第四択目」という名の着地点でした。
二人の少し特殊な関係性。エピローグまで、温かく見守っていただけると嬉しいです。
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