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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第4章:神の愛と人の情(じょう)
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53. 混沌の欠片(後)


デジタル・ハーモニー社への帰り道。電車の中は、すでに夕方の混雑が始まっていた。


黒川は、吊革を両手で握りしめ、窓の外を流れる景色を睨みつけながら、不機嫌オーラを全身から放っている。神代への不信感と、結衣との不思議な距離感への嫉妬。彼の心は、負の感情で渦巻いていた。


「おい、芽上」


そして、とうとう耐えかねたように、彼は隣に立つ結衣に問いかけた。

開発二課の面々は、この場は結衣に任せることが最良とみたのか、少し離れたところに立って、二人を遠巻きにしている。


「さっきの神代とかいう野郎、一体何なんだ。お前の、あの反応…。知り合いか?」


視線は窓の外へと向けたままだ。しかし、その目には抑えきれない苛立ちが滲み出ていた。


「………『約束』って、なんだ。あいつと……個人的に、会うつもりか」


黒川は、荒ぶった感情を逃がすように吊革をキツく握りしめる。その様子は、どこか苦しそうだった。


結衣は黒川の剣幕に少し驚きつつも、彼の感情の揺れ動き――特に、負の方向への異常な増幅――を冷静に観察した。そのパターンは、彼が時折、佐藤に抱いている感情 ― 嫉妬と分類されるものと同種のものだ。しかし、その変動量は、佐藤の時の比ではない。


神代の正体や、過去の全て話すことはできないが、このまま彼を放置しておくわけにもいかない。結衣は、黒川の『感情』を落ち着かせるため、慎重に言葉を選んだ。


「神代さんは…私がDH社に存在する以前に、少しだけ…関わりがあった方です。協力し合っていた時期もありますが、過去の話です。今の私にとっては、何の関係もない、ただの外部の方です。追加の質問には、DH社にお電話いただければ回答するとお約束しました」


きっぱりとした結衣の言葉に、黒川は、わずかに安堵の色を見せた。

しかし、神代に送り込まれた『混沌』の残滓が、沈みかけた負の感情を、再び掻き乱す。彼は、一瞬、口を開きかけたが、何を言うでもなく、そのまま黙りこんだ。

結衣の気づかわし気な視線に気づいているだろうに、彼は頑なに視線を合わせようとしない。


結衣が、再度、口を開こうとした時、ちょうど電車が駅で停車した。途端に、乗り降りする人々の喧騒に包まれる。黒川は空いた席を顎で示して結衣を座らせると、彼女の視線を ―― あるいは、自身の感情を遮断するかのように、固く目を閉じた。




++




オフィスに戻った後も、黒川の異変は収まらなかった。


外線が鳴る度に、厳しい顔付きで応対する若手社員を睨みつける。集中を欠いたように、普段ならしないようなミスを連発する。些細なことで苛立ったように佐藤に当たり散らす。


黒川のその明らかな変化に、周囲は戸惑いを隠せなかった。「黒川さん、どうしたんだろう」「会議で何かあったのか?」と囁き合い、遠巻きにしている。


だが、結衣が感じていたのは、戸惑いなどという、生易しいものではなかった。

胸の奥で、不快な不協和音が鳴り響いている。最初は小さなノイズに過ぎなかったそれは、次第に音量を増していき、今や耳を塞ぎたくなるほどだった。


(黒川さんの感情の不協和音。こんなにも不安定な波形が、数時間にも渡って持続するなんて……!この急激な変化は、ケイオスの仕業でしかありえない…!まさか、神力で、人間の精神に干渉したというの?彼には、そのようなことが…!?)


ケイオスの力は、結衣を――ユイシアを上回っているのかもしれない。

彼女の力は人間の『精神』へは及ばない。そのカギとなる『人間理解』のために、こうして人間界に降臨したのだから。


(ケイオスが原因ならば、なおのこと。早急な対処が必要……今なら、もしかしたら……?……いいえ、ダメです。未だ、私の『人間理解』は不完全。そんな危険を冒すことはできません)


最高神が示した、彼女の力の限界。そして人間界に来てから感じる、力の陰り……。

歯がゆさに唇を噛む。だが、嘆いている時間はない。女神の力が通じないのなら、残された方法は一つだけ。


(『芽上結衣』としてなら――言葉によって、彼を安定……いいえ、『安心』させることはできるはず…!)



++



彼女は意を決し、終業後、一人残っていた黒川のデスクへと向かった。


フロアの明かりが間引かれ、窓の外には横浜の夜景が広がり始めている。その光を背に受けてモニターに向かう彼の背中は、ひどく疲れているように見えた。


「黒川さん。まだお仕事ですか?」


「……芽上」


「もう、定時をとっくに過ぎています。今日は終わりにして………少しだけ、お話しませんか?」


普段の結衣からは考えられない誘いに、黒川が訝しげに眉を寄せる。結衣は構わず続けた。


「休憩スペースに行きましょう。コーヒーをお入れします。……まだ、感想をお聞きしていませんでしたから」




静まり返った休憩スペース。

ここでも、既に照明の大部分は落とされており、自動販売機の淡い光が二人を照らし出している。


「どうぞ、黒川さん」

「……おう」


結衣が差し出したカップを受け取り、黒川は一口すすった。深く、そして少しだけ苦味の強い、いつもの飲みなれた味だ。


「今日はお疲れでしょう。今朝よりも、少しだけ蒸らし時間を長くして、温度も最適化しています。雑味を抑え、香りが立つように調整しました。いかがですか?」


結衣が、わずかに不安そうに、だが、どこか期待するように、こちらを伺っている。差し出されたカップから伝わる熱が、いや、それ以上に、自分のために心を砕いてくれた彼女の気遣いが、黒川のささくれ立った心にじんわりと染み渡るようだった。


「……ああ、旨い」


黒川の口から、思わず素直な言葉が零れた。


「細かい違いはわかんねーけどな。『俺の好きな銘柄』だ。……旨いよ、ありがとな」


本音を言えば、味よりもカフェインの強さで選んでいたに過ぎなかったが、彼女が自分のためにいれてくれた、それだけで十分だった。


黒川の感謝の言葉に、結衣の表情が、ふわりと柔らかく綻んだ。

花がほころぶような、心からの笑顔。


いつの頃からか、彼女が自分に対して、自然と見せるようになった表情だ。

誰にでも向けられているわけではないことを知っている。

そのことに、純粋なうれしさと、温かさと……それに相反するような、どす黒い独占欲が心の底からせり上がってくる。


(……誰にもみせたくねぇ。特に、あの神代とか言う野郎には……!)


苛立った感情を必死に押し殺していると、目の前の結衣の笑顔が、ふっと陰ったように見えた。




「…………休日、何してんだ?」


唐突に、黒川が切り出した。その問いに、結衣はキョトンとした顔を向ける。


「休日、ですか?」

「お前が言ったんだろーが。『お話』しよう、ってな」



それから、ポツリ、ポツリと、会話をした。本当に、たわいのない話を。


好きな食べ物、最近読んだ本、ネットで見た面白いニュース。

意外な共通点が見つかっては、どちらからともなく笑いがこぼれた。今週の社食の残念なメニューの話で、なぜか妙に盛り上がったりもした。



「そういえば、会社の近くに新しい食堂ができたらしいな」

「はい、私も気になっていました。評判も良いそうですよ」


「…じゃあ、まあ、近いうちにでも、喰いに行くか」

「はい、ぜひ」


小さな『約束』に結衣が嬉しそうに笑うと、黒川もつられたように微笑んだ。穏やかな時間が流れる。いつもと同じように、優しく結衣を見つめる黒川の眼差しに、結衣もまた安堵していた。


その穏やかな空気を壊してしまうことを少しだけためらいながらも、結衣は意を決して切り出した。





「黒川さん、今日の会議のことですが…。神代さんと、少し、お話されていましたか?」


「ああ……。ワケわかんねーこと言ってたな。……あいつ、得体が知れねぇ。まるで、お前みたいだ」


黒川の心をチクリとした痛みが差す。神代に触れられた肩のあたりに、今も残るような妙な不快感。彼が気にするように顔を顰めたのを、結衣は見逃さなかった。その瞳が、辛そうに揺れる。


「黒川さん。神代さんのことですが……先ほどもお話した通り、私と神代さんは、過去に接点がありました」


結衣は、一度、言葉を切ると、姿勢を正して黒川にしっかりと向き直った。真剣な表情で、真摯に言葉を紡いでいく。


「その関係性の全てを、ここで詳細に語ることはできません。それは、宇宙の理――秩序に反する事ですから。デジタル・ハーモニー社に秘密保持規定があるのと同じことです」


「私が、お話しできることは、とても限られていて……。それが、あなたを不快にさせているのかもしれません。申し訳ありません」


結衣は、深く頭を下げた。そして、顔を上げると、黒川の瞳を、まっすぐに見つめる。


「ですが、私が大事にしたいのは、過去ではありません。今の、このデジタル・ハーモニー社での日常、そして『未来』です。それだけは、どうか、信じていただきたいのです…」


言葉を切った後も、結衣は目を逸らさなかった。少しでも自分の本心が彼に伝わるように、そう願っていた。


そして、黒川は、かすかに揺れる結衣の瞳の奥の、その真剣な想いを受け止めながら、自分の内側をかき乱していた黒い奔流がゆっくりと静まっていくのを感じていた。


その感情のまま、黒川が小さく頷くと、彼女は心底、安心したように微笑んだ。



―― 信じるも何もない。


彼女は、いつだって真摯で誠実で。その瞳には、一欠けらの嘘も偽りもありはしなかった。


そもそも、自分と彼女はただの同僚に過ぎない。

彼女への想いを口にすることもせず、自分が勝手に腹を立てているだけだ。

彼女には、なんの責任も、説明する義理もない。


それなのに、彼女はどこまでも誠実に、自分と向き合おうとする。自分の一方的な想いに気づいている証拠だった。


彼女が、自分をどう思っているのかはわからない。

「脈ありじゃないか」

佐藤はそんなバカげたことを言っていたが、彼女のその瞳に、自分と同種の熱があるとは、どうしても思えなかった。


だが、どこまでも誠実な彼女に対しては、自分も同様に誠実であるべきだ。困らせるかもしれない。それでも、心配させ、不当に謝らせるよりも、ずっとマシだろう。


裏表のない結衣の瞳を見つめながら、黒川は、深く息を吸い込んだ。



「……なぁ、芽上。今更かもしれねぇが、俺は……」


「おーい、黒川、芽上君!こんなところにいたのか!ちょっと来てくれ、明日のミーティングについてだが…!」

「かっ、課長!その話は、また後で…!」



そして佐々木は、この日もとことん、間が悪かった。




++




終業時刻をとっくに過ぎ、開発二課のフロアからほとんどの人間が姿を消した後。

佐藤は、やり場のないもどかしさと、ほんの少しの期待感を胸にしまい込み、帰り支度を終えて廊下に出た。


すると、少し先の壁に、黒川が寄りかかって立っているのが見えた。

エレベーターを待ちながら、窓の外に広がる横浜の夜景を、ただ黙って見つめている。


佐藤は、気まずい思いを抱えながらも、意を決して、彼の元へ歩み寄った。


「黒川さん……」


声をかけると、黒川はゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情に、日中の刺々しさはもうない。


「あの、なんというか……。さっきは、本当に……すみませんでした!俺が、課長を止められれば…!」


佐藤は、心からの罪悪感を込めて、深く頭を下げた。

数秒の沈黙の後、頭上から、深いため息と共に、呆れたような声が降ってくる。


「……別に、お前が謝ることじゃねぇし、謝られることでもねぇ。ただ、世間話してただけだ」


おそるおそる顔を上げると、黒川は心底面倒くさそうに、しかしどこか角が取れたような表情でこちらを見ていた。

その言葉は、いつものように、ぶっきらぼうだが、棘はない。そのことに、佐藤は心から安堵した。


「なら、良かったです。……黒川さんの棘を抜けるのは、いつも芽上さんですね。さすがです」


佐藤は、どこか感心したように息をつくと、自然な様子で黒川の隣に並び、エレベーターを待ち始める。それを横目で見ながら、黒川は、少しくすぐったい気持ちになった。


思えば、最近は、この後輩には、余計な心配ばかりかけている気がする。

今日も、苛立ち紛れに、不当に当たり散らしてしまったが、気にした様子はない。

いや、気にしていないように振る舞っているだけかもしれないが、それでも、お互い、以前よりも格段に心を許しているのは確かだった。


その小さな信頼が、黒川の口を、ほんの少しだけ滑らかにした。


「……佐藤」


不意に、名前を呼ばれ、佐藤は顔をあげた。いつもの怒声とは違う、低く、落ち着いた声だった。


「芽上に………ちゃんと、言うわ」

「……!」


佐藤は、息をのんだ。驚きで目を見開き、焦ったように、黒川を見つめる。


「そ、それって……!ついに、告白、するってことですか!?え、ええと!いいと思います!もちろん、僕も応援しますから!!」


興奮を抑えきれず、上ずった声で問いかける。

その純粋なまでの驚きと喜びに満ちた顔を見ながら、黒川は、どこか吹っ切れたように、ふっと柔らかく口元を緩めた。


それは、佐藤が今まで見た中で、一番穏やかで、そして強い意志を感じさせる笑みだった。

その瞳には、もう迷いはなかった。






お読みいただきありがとうございます!

混沌の欠片、後編いかがでしたでしょうか。

ついに覚悟を決めた黒川。長かった恋煩いに、いよいよ決着が…つく…はず…!?

ぜひ、評価、ブクマ、感想などお待ちしております!



↓ 他作品:どちらもお仕事要素ありの11話完結・短編です。こちらもよろしくお願いいたします!


▼剣と魔法と予算案(11話完結)

https://ncode.syosetu.com/n4316ku/


▼天界再生計画(11話完結+予告編2話)

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