05. 歓迎会!女神の鉄槌
その夜、開発二課の歓迎会が、会社の近くの居酒屋で開かれた。
店内は、仕事終わりの開放感とアルコールの力で、陽気な喧騒に包まれている。結衣にとって、それは人間の感情エネルギーが渦巻く、興味深い観測フィールドだった。
「芽上さん、飲んでる?」
ジョッキ片手に、少し顔を赤らめた佐藤が隣に座った。
「はい。この『ビール』という液体は、複雑な化学反応を経て生成されるのですね。黄金色の液体、白い泡、喉を通る際の炭酸の刺激…実に精妙なバランスですばらしいです」
結衣は、手元のジョッキを分析するように眺めながら答える。ジョッキに口をつけ、一口、二口…。
「…非常に興味深いです。麦芽由来の糖分と酵母の働き、ホップの苦味成分…これらのパラメータが、人間の脳に『快楽』信号を伝達するのですね。実に合理的かつ効率的なシステムです」
分析しながら、結衣は無意識のうちにゴクゴクとジョッキを空にしていく。
佐藤が慌てて店員を呼び、新しいビールが運ばれてくる。結衣は「ありがとうございます」と礼儀正しく受け取り、また分析(と称する飲酒)を再開する。
そのペースは、明らかに常軌を逸していたが、本人は全く気づいていない。すでに空のジョッキがテーブルの下に数本隠れているのを、佐藤だけが知っていた。
「は、はは…まあ、そんなに難しく考えなくても…楽しんでくれれば…」
佐藤は引きつった笑顔で言うしかない。目の前の整然とした女性が、恐ろしいペースでビールを空にしてく様に、若干の恐怖すら感じ始めていた。
「しかし…驚きましたよ、今日の芽上さん。面接の時とは全然雰囲気が違ったから」
佐藤が、本題を切り出す。結衣は、なみなみと注がれたジョッキを傾けながら、用意していた回答を返す。アルコールの影響か、その表情はわずかに緩んでいるように見えた。
「面接の際は、大変失礼いたしました。あれは…そうですね、極度の『緊張』状態でした。人間の感情というものは、時に論理回路をオーバーライドします。それは、不可解で…しかし、それ故に興味深い現象ですね、ふふ」
少しだけ口角を上げてみせる。これも事前にインプットした『愛想笑い』のパターンだったが、どこかぎこちなく、逆にミステリアスな雰囲気を醸し出している。
「へ、へえ……そう、だったんだ…?」
佐藤は、追及を諦めた。というか、深入りするのを本能が拒絶していた。
その時だった。酔って赤ら顔の黒川が、数人の若手を引き連れて、肩を揺らしながら近づいてきた。
「よぉ、新人! ちっとはこの『開発二課』様の空気に慣れたかぁ?」
馴れ馴れしく、そして若干呂律が怪しい。
結衣は、絡みつくような不調和の気配を感じ、黒川へと視線を向けた。女神としての超感覚が、『嘲り:レベル2』『自己顕示欲:レベルMAX』『アルコールによる判断力低下:レベル3』を検知していた。
「はい。皆様のおかげで、非常に有用なパラメータの推移を観測させていただいております」
「パラメータの推移だぁ? ま、せいぜい俺たちの足を引っ張るなよな! なんたって、この俺がいる開発二課はなぁ、この会社の『稼ぎ頭』なんだからよぉ!」
黒川は、ビールの入ったジョッキを高く掲げ、自分の武勇伝(脚色入り)を語り始める。周囲の若手は、愛想笑いを浮かべている。
結衣は、黙って耳を傾けながらも、無意識に、黒川が守り続けてきたシステムの深層構造を、その誕生から現在に至るまでの全ての改変ログと共にスキャンしていた。彼女の瞳には、そこにまとわりつく技術的負債という名の不調和が、鮮明に映っている。
そのシステムを構成する一つ一つのアルゴリズムが、宇宙の根源的な法則からどれだけ逸脱していることか。
やがて、黒川の話が「俺がいかにして、あの難解なレガシーシステムを一人で守り抜いてきたか」という自画自賛フェーズに入ったところで、結衣は静かに口を開いた。手には、ビールで満タンのジョッキが握られている。いつの間にか、中から大へとサイズアップしていた。
「承知しております、黒川さん。貴方が保守されている『レガシーシステム』は、短期的な収益確保において、非常に重要な役割を担っていますね。その功績は認識しております」
一見、相手を立てるような言葉だが、アルコールでブーストされた結衣の口調には、何とも形容しがたい不思議な圧があった。
「お、おう、分かってんじゃねぇか、新人!」黒川は、気を良くして胸を張る。
「しかし」結衣は続けた。
「そのシステムは、いわば『技術的負債』の集合体。構造の複雑性は限界に達し、メンテナンスコストは指数関数的に増大し、セキュリティ脆弱性は放置され、潜在的リスクは計り知れません。いわば、いずれ必ず訪れる『裁き』の時に向けた、破滅へのカウントダウンのようなもの。短期的な利益と引き換えに、組織全体の『調和』を著しく阻害する『害悪』たらしめています」
シン…と、周囲の空気が凍りついた。結衣の言葉は、もはやただの指摘ではなく、システムの深淵を覗き見た者による、冷徹な『神託』のように響いた。しかも、ビール片手に、やや上機嫌(?)な表情で語られているのだから、余計に怖い。
黒川の顔から、酔いがサッと引いた。
「な、なんだと…!? てめぇ、俺の…俺の聖域を…侮辱する気か!!」
「侮辱ではありません。客観的な事実の提示です。その『聖域』は、もはや泥舟です。真に合理的な判断は、沈みゆく船を延命させることではありません。現行システムに見切りをつけ、最新のアーキテクチャに基づいた抜本的な『再構築』を行うことです」
結衣の脳内では、既にそのシステムの最適な未来像が、宇宙の根源的なアルゴリズムに沿った完璧な設計図として構築されている。彼女は、しばし考え、「例えば…」、と具体的な刷新案の骨子を語り始めた。
「まず着手すべきは、現行のモノリシックな巨大アプリケーションを、疎結合なマイクロサービス群へと完全に分解し、責務を再定義することです」
それは、彼女の途方もない設計図の一部を、人間が理解できる最も近い概念に『翻訳』したものだった。
『マイクロサービス化』、『コンテナオーケストレーション』、『サーバーレス』、『データレイク』、『CI/CDパイプラインの完全自動化』…
結衣の口から、未来的なシステム像が淀みなく語られていく。その1つ1つは、彼らにも馴染みのある用語であるにも関わらず、その声には、人間には感知できない、宇宙の根源的な法則の響きが宿っているかのようだった。
その『神託』は留まるところを知らない。黒川は完全に思考停止し、周りのエンジニアたちも、口をあんぐり開けていた。
― そして、15分後。結衣は、ようやく言葉を切ると黒川をひたりと見据えた。
「いかがでしょうか?黒川さんのお考えをお聞かせいただけますか?」
「……うっ…! う、うるせえーーーー!!」
論理では反論できないと早々に悟った黒川は、会話を打ち切るように捨て台詞を吐いた。
「お、お前…!新人のくせに生意気なんだよ!現場の苦労も知らねぇ奴が、舐めた口利いてんじゃねぇ!!」
そう叫ぶと、黒川はふらつく足をもつれさせながら、そそくさと逃げるようにその場を去ろうとした。だが、結衣は逃がさなかった。
「お待ちください、黒川さん」
その声が響いた瞬間、黒川の足がピタリと止まった。
( な、なんだ‥‥!? )
急に空気が薄くなったかのような、言いようのない違和感が身体中を覆っている。
さっきまで耳を劈くようだった居酒屋の喧騒――隣の席の笑い声も、店員の威勢のいい掛け声も、テレビの音も、全てが急速に遠のいていった。まるで、自分と彼女だけが、分厚いガラスで隔てられた無音の空間に取り残されたかのように。
「先ほどの貴方の言動は、ハラスメントに該当する可能性があります。また、組織の生産性を低下させる非合理的な行為です。今後、同様の行為が観測された場合、私は正式な手続きに基づき、人事部およびコンプライアンス部門に通報する義務があります」
静かだが、有無を言わせぬ声が、やけにクリアに鼓膜を震わせる。
カツン、と。結衣が空のジョッキをテーブルに置く音が、静寂の中で不自然なほど硬質に響いた。周囲の空気が、まるで真冬のそれのように、氷のように張り詰める。凍り付くような、絶対零度の空気。
その冷たい空気の中で、黒川が思考、身体ともに停止しかけた瞬間。
―― 目の前の女が、ふわりと微笑んだ。
いや、違う。『笑み』ではない。それは『笑顔という形をした何か』だった。 目元は優しく細められ、唇は美しい弧を描いている。それだけを見れば、完璧な、慈愛に満ちた聖母の微笑だ。しかし、そこには人間が浮かべるはずの感情の熱が、生命の揺らぎが、完全に欠落している。
そこには、まるで、人間の『笑顔』というデータを学習したAIが、無から『完璧』な笑顔を生成したような ― 人間には認識できない誤差を含んだディープフェイクのような、無機質で、底知れない不気味さがあった。
そして、彼女の瞳は ―― 当然のように、笑ってはいなかった。
それは、もはや人間の視線ではなかった。一切の感情を排して、ただ静かにこちらを見定めている宇宙の深淵そのものを映したかのような紺碧の瞳。いわば、抗うことすら許されぬ、絶対的な捕食者の、あるいは ―― 神の眼差しだった。
「…ひっ……!!」
黒川は、短い悲鳴を上げた。その目には、うっすらと涙さえ浮かんでいるように見えた。
「いかがでしょうか。ご理解いただけますか?」
「わ、わ、わ、わかった……もうしません……ゆるしてください……」
黒川は、半泣きになりながら頭を下げ、今度こそ文字通り『逃げるように』店を飛び出していった。その姿は、哀れなほどに小さかった。
シン……。
再び、テーブルに静寂が訪れる。誰もが、目の前で起こった『公開処刑』とも言うべき光景に、言葉を失っていた。
「め、芽上さん……」佐藤が、震える声で呟いた。
「あ、あの……もしかして、黒川さんのこと、泣かせちゃいました…?」
結衣は、きょとんとした顔で佐藤を見た。その表情からは、先ほどの絶対零度のオーラは消え、元のクールビューティ(ただし、ほんのり頬が赤い)に戻っている。
「泣く? なぜです? 私は、観測された事実と、それに基づく合理的な帰結、そしてコンプライアンス遵守の必要性を述べただけです。『悲しみ』を誘発するものではありません」
その純粋(?)な返答に、佐藤はもう何も言えなかった。
(やっぱり…! この人は、普通じゃない…! 面接の時のあの感じは、やっぱり素だったんだ…!しかも、酔うとリミッターが外れるタイプだ!)
周囲の同僚たちも、恐怖と畏敬の入り混じった表情で、ただただ結衣を見つめていた。
この日を境に、開発二課では『女神(芽上)』という呼び名が定着していった。「女神(芽上)に逆らうべからず」「特に酔った女神(芽上)には近づくな」という暗黙のルールが形成されることになる。
そして、翌日には、「新人に理詰めされて黒川さんが泣きながら逃げた」という事実に尾ひれが付いた噂が、社内を駆け巡るのだった…。