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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第4章:神の愛と人の情(じょう)
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45. レガシー刷新!“調和”のスタートライン(後)

それは、黒川にとっては、猛烈な破壊力を秘めた会心の一撃だった。


あからさまにたじろぎ、照れたようにふいと目を逸らすと、ボソッと、誰にも聞こえるはずもない、蚊の鳴くほどに小さな声で呟く。


「…………ちくしょう…可愛いじゃねぇか…」


( だあああああああっ!終わった、完全に終わった!!デスマーチ確定だ!!どうあがいてもハッピーエンドにはならない!)


佐藤は、絶望で顔面蒼白になり、そっと胃薬のボトルの感触を確かめる。人事の野村部長に薦められたソレは、もはや精神安定剤に近かった。


反応を示さない黒川に、結衣が「黒川さん、いかがでしょうか?」と発言を促すと、彼は「ん。ああ…」と、どこか上の空のような、歯切れの悪い返事をした。そして、赤く染まった顔でチラリと結衣を見やると、ボリボリと無造作に頭を掻き、深く息を吸い込んだ。


『可愛いは正義!!その計画、全面的に採用だ!!』


そんな妄言を覚悟し、佐藤が頭を抱えた、まさにその瞬間 ―― 黒川の雰囲気が一変した。プロのエンジニアとしての厳しい光が、その双眸に宿る。

彼は、もはや結衣個人ではなく、彼女が提示した『計画』そのものに、真っ直ぐに対峙していた。


「…芽上。お前のそのピッカピカの計画書、確かに夢はこれでもかってくらい詰まってらぁ。最新技術の見本市みたいで、見てるだけでワクワクする奴もいるんだろうよ。だがな…」


黒川の声は、いつもの怒声とは違う、低く、しかし芯の通った、どこまでも冷静な響きを持っていた。

それは、長年、この会社の複雑怪奇なシステムと、それに伴う無数の『炎上』と『デスマーチ』を、歯を食いしばって生き抜いてきた彼だからこその、静かな、しかし抗いがたいほどの重みを含んでいた。


「まず根本的に、現実ってもんを、お前はまるで分かっちゃいねぇ。あのスパゲッティコードの塊を、どうやって安全に、マイクロサービスなんつー細切れの部品に切り出すつもりだ?あれは、一つの関数を変更しただけで、どこにどんな致命的な副作用が出るか、誰も予測できねぇような代物だ。…この資料にゃ、『リスク』のリの字もねぇみてぇだが…。まさかとは思うが、ノーリスクでこの刷新ができるなんざ、思っちゃいねぇよな?」


その問いかけは、単なる疑問ではなく、経験に裏打ちされた確信に近い響きを帯びていた。彼の視線は、結衣の計画書、いや、その奥にあるかもしれない楽観的な前提そのものに向けられているかのようだ。


「この資料には、成功した場合の、『バラ色の未来』と『莫大なメリット』が、それこそ嫌というほど詳細に書いてある。だが、移行期間中の業務への具体的な影響範囲、そして万が一、いや、十が一にもシステムダウンしちまった場合の、顧客への補償リスクとその具体的な金額の試算は、どこを探しても見当たらねぇ。ネガティブ要素の洗い出しはしたのか?前向きなのは結構だが、俺には、ただの夢物語にしか見えねぇぜ」


立て板に水のごとく、しかしその一つ一つが、現場で実際に発生しうる、そして一度起こればプロジェクトそのものが頓挫しかねない、血の気の引くような問題を的確に抉り出す鋭い指摘だった。

結衣の描いた美しい未来図に、黒川が容赦なく現実という名の墨を塗り重ねていくかのようだ。


「それにな。お前の、その『意味的構造化エンジン』とやらが、どれだけ神がかり的な代物かは知らねぇが、つまりAIによる自動抽出ってことだろうが。なら、そのAIが吐き出した『仕様の正しさ』は、どうやって証明する気だ?それを、一つ一つ、人間の目で確認して検証するんだったら、ツールを使おうが使うまいが、トータルの人的コストと時間が、そう大きく変わるとは思えねぇ。その後のAPI設計にしたって同じだ。現時点で、AIなんてもんは、あくまで人間の『補助輪』でしかねぇ。ほぼ100%信用できるっていうなら、その検証データを持ってこい。俺がその正しさを吟味してやる」


黒川の言葉に、若手の何人かが小さく頷くのが見えた。彼らもまた、AIの万能性を信じつつも、実務への適用にあたっての現実の壁 … 検証作業の膨大さに直面しているのだ。


「人的コストといやぁ、このタスク割り当てもそうだ。今の若手に、この解読困難なレガシーコードの解析と、お前が嬉々として並べ立てた最新技術スタックの習得を、この短期間で、同時にやらせるつもりか?どっちも中途半端になって、結局使い物にならないエンジニアを量産するだけだ。そもそも、数年後には置き換える予定のレガシー技術の解析に、若手の時間と育成コストをかけるのは、どう考えても無駄だ。そこは、ずっとシステムの面倒をみてきた俺たちが泥を被るべきところだろうが。若手には新しい技術をやらせとけ。その辺の切り分けを明確にしろ」


その言葉には、単なる効率論だけでない。彼なりの、若手への配慮と、年長者としての責任感が滲んでいた。


「全ての機能をいきなりクラウドネイティブにするって言うがな、うちの会社のガチガチなセキュリティポリシーと、そこに巣食う情報セキュリティ部の石頭をなめんなよ。こんな大風呂敷広げた計画を一度に全部導入しようなんざ、折衝段階で、まず間違いなく頓挫する。 小さく始めて、実績作って、徐々に広げていく。遠回りに見えても、トータルでいや、これが一番稼働負担の少ねぇ、確実な進め方だ」


最後に、理想を追い求めるだけでは乗り越えられない、組織という名の巨大な壁の存在について言及し、黒川は言葉を切った。

そして、真剣な顔で黒川の言葉に耳を傾ける結衣の目を、真っ直ぐに見据える。


その瞳には、もはや先ほどのデレた色は微塵もなかった。そこにあるのは、ただ、この困難なプロジェクトを成功させたいという、一人の技術者としての真摯な思いだけだった。


「まとめると、だ。お前のその計画書の全てにおいて、見積もりが甘過ぎる。圧倒的に、致命的に、期間とリスクと、そして人間の面倒臭さに対する想像力が足りてねぇ。 これの2倍…いや、現実的に考えりゃ2.5倍は最低でも見積もるべきだと思うぜ。正直に言や、それでも足りねぇくらいだ」


黒川の指摘は、理想論だけでは決して語れない、現場の泥臭い現実と、それを長年支えてきたエンジニアとしての矜持、そして、彼自身は決して口にしないだろうが、無駄な苦労をさせたくないという若手やメンバーへの彼なりの厳しくも現実的な配慮に満ちていた。


そのあまりの的確さと、普段の彼からは想像もできないほどの冷静で厳しい、しかしどこかプロジェクトの成功を本気で願っているかのような建設的な口調に、開発二課の面々は完全に言葉を失い、ただただ圧倒されていた。


(…黒川さん、どうしちゃったんだ!?いつもの直情的な全否定じゃなくて、めちゃくちゃ論理的で、的確で、どれも正論中の正論ばっかりじゃないか!しかも、芽上さんの意見を頭ごなしに否定するんじゃなくて、ちゃんと具体的な問題点を指摘して、議論しようとしてる…!?俺の知ってる黒川さんとは、まるで別人だ…!)


結衣は、黒川のその厳しい指摘の数々に対し、一切表情を崩すことなく、真剣な眼差しで彼の言葉の一つ一つに耳を傾け、時折深く頷いていたが、全ての指摘が終わると、彼女は深く一度息をつき、そして、意外なほど晴れやかで、心からの敬意を込めた表情で黒川を見つめた。


「黒川さん、ありがとうございます。あなたのそのご指摘は、私の初期分析からは抜け落ちていた、現場を深く理解された方ならではの、極めて重要かつ実践的な視点です。特に、既存システムとの連携リスク、若手の学習コスト、そして段階的な移行戦略の必要性のご指摘は、このプロジェクトの成否を左右するでしょう」


彼女の声には、反論されたことへの不快感など微塵もなく、新たな知見を得たことへの純粋な喜びと、黒川という技術者への深いリスペクトが満ち溢れていた。


(芽上さん、なんかめちゃくちゃ嬉しそうなんですけど!?黒川さんのあの辛辣な意見を、満面の笑みで受け止めちゃってる…俺だったら泣きたくなるけど…さすがというか、やっぱり感覚が普通の女性とは違うよな…でも、なんか、すごい…この調子が続けば、もしかしたらいけるのか…?)


佐藤は、結衣のメンタルの強さと前向きさに、若干の驚きとある種の納得を覚えつつも、会議が良い方向へ向かっていることを感じ取り、かすかな希望を抱き始めていた。


結衣は、黒川に向かってきっぱりと続けた。


「黒川さんのご意見を踏まえ、提案を修正します。理想アーキテクチャを最終目標としつつ、そこへ至る道筋は、より現実的で、かつ開発二課の皆様の負担と成長を考慮した段階的なアプローチとします」


彼女はそこで一度、黒川の顔をしっかりと見据えた。


「まず、ご提案通りレガシーの徹底的な棚卸しと領域の切り分けを行います。若手には新技術スタックの習得とAPI連携開発に注力してもらい、レガシー解析は経験豊富なベテランの方々にお願いするのが最適でしょう。API化やマイクロサービス化の対象領域は、業務影響やセキュリティポリシーとの整合性を最優先とし、リスクと効果を慎重に比較検討し、優先順位を再設定します。全面的なクラウドネイティブ化に固執せず、部分的なハイブリッド構成も現実的な選択肢として視野に入れます。…黒川さん、明日には修正案をお持ちします。レビューにご協力いただけますか?」


彼女は、黒川の厳しい指摘の一つ一つを真摯に受け止め、それを具体的な改善策へと即座に落とし込み、計画を柔軟に修正する姿勢を明確に示した。


黒川は、結衣のその真摯な態度と、自分の意見が的確に理解され、受け入れられたことに、少し驚いたようだった。

そして、どこか角が取れたような、柔らかで、満足げな表情を浮かべ、「…ああ。楽しみにしてる」と、静かに、しかし確かな手応えを感じさせる声で答えた。



会議の空気は、結衣の柔軟な対応と、黒川の建設的な意見によって、いつの間にか「理想と現実をどう摺り合わせるか」という、活発で前向きな議論へと変わっていた。


その熱を逃すまいと、佐々木課長がホワイトボードをパンと叩きながら号令をかける。


「素晴らしい!では、芽上くんが明日までに修正案をまとめてくれるとして、我々はその間に何をすべきか、具体的なアクションプランを今ここで決めようじゃないか!」


その一言で、会議はアクションプランへの議論へと進み、熱気を帯びたまま散会したのは、それからさらに一時間後のことだった。




++



会議室から出てきた黒川の顔には、普段の彼からは珍しい、確かな疲労の色と共に、どこか清々しい達成感のようなものが浮かんでいた。その様子に気づいた佐藤は、思わず彼に声をかける。


「黒川さん、お疲れ様です!今日の会議…正直、めちゃくちゃすごかったです!黒川さんがあんなに的確で、しかも建設的な意見をバンバン出すなんて…いつもと全然違うから、本気で驚きましたよ!」


佐藤の心からの賞賛に、黒川はキョトンとした顔で言った。


「…ああ?違うって…何がだよ?俺はいつも通り、思ったことを言っただけだぜ?」


その、全くもって自覚のない様子に、佐藤は内心で盛大なツッコミを入れた。


(うわっ、本気で気づいてないのか、この人…!今日の黒川さん、明らかに神がかってたのに!芽上さんの前だからって、無意識にカッコつけてたとかじゃなくて…!?)


「い、いやいや、全然いつも通りじゃなかったですよ!」佐藤は必死に言葉を続ける。


「だって、いつもの黒川さんだったら、芽上さんのあの理想的な計画を聞いた瞬間、もっとこう…不満気というか、鼻で笑う感じで…ほら、『マイクロサービスだぁ?コンテナだぁ?そんなお花畑みたいな非現実的な案が、うちの泥沼レガシーで通るとでも本気で思ってんのか!?寝言は寝て言え!』とか、まず最初に言うじゃないですか!」


佐藤が、普段の黒川の言動を(多少の脚色を加えつつも、かなり忠実に)再現してみせると、黒川は一瞬言葉を失い、気まずそうに視線を泳がせた。


「……ぐっ……そ、そう……だな……、まあ、確かに普段ならそう言ってたかもしれねぇが…」


そして、ボソッと、しかし佐藤にははっきりと聞こえる声で呟いた。


「…でもよぉ……あんなキラキラした目で自分の計画語られて……んな、頭ごなしに否定するような言い方したら……その、なんていうか……かわいそうじゃねーか……」


(か、かわいそうって…あの黒川さんが、相手が傷つくかもしれないとか、そういう人間的な配慮をしたってことですか!?しかも、その理由が『キラキラした目』って…!これは、もう……完全に、メロメロだ!!)


佐藤は、黒川の変化の根源が結衣への特別な感情にあることを確信し、感動と呆れと、そしてほんの少しの羨望が入り混じった、何とも言えない複雑な表情を浮かべる。




そして、佐藤は少しだけ迷い ―― 、「……黒川さん」 と少しだけ真剣なトーンで切り出した。


「今日の会議での黒川さんのあの姿勢、本当に素晴らしかったです。技術的にも的確でしたし、何より、ちゃんと相手の意見を聞いて、建設的に議論しようとしてました」


佐藤は、そこで言葉を切ると、黒川の表情を伺った。彼が、いつものように茶化したり、怒鳴りつけたりしないのを確かめるように。黒川は、腕を組んだまま、黙って佐藤の言葉に耳を傾けている。その真剣な横顔に、佐藤は少しだけ勇気をもらい、続けた。


「…だから、その……できれば、俺や、開発二課の他のメンバーに対しても、今日みたいに…とは言いませんけど、もう少しだけ、同じように接してもらえると、チーム全体の雰囲気ももっと良くなると思うんですよね…」


少し遠慮がちに、しかし長年の同僚としての願いを込めてそう言うと、黒川は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐにふいと顔をそむけ、頭をガシガシと乱暴に掻き、


「…けっ、お前に説教されるとはな…。……まー、善処する」


と、ぶっきらぼうながらも、どこかまんざらでもないような、そんな返事をした。その耳は、ほんのり赤く染まっている。


その照れ隠しの表情が、結衣を見るときの照れ顔と完全に重なり、佐藤はつい、余計な一言を口にしてしまった。


「ありがとうございます。きっと、芽上さんも喜びますよ」


その瞬間、黒川の顔にカッと火がついた。


「はぁ!?なんだよ!!なんで芽上が出てくんだよ!? 関係ねぇだろ!!」


「いや…あの……。その反応含めて、バレバレです…」


ほんのりどころか、もはや茹でダコのように真っ赤に染まってしまった黒川に、佐藤は思わず「あ、やっちゃった」という顔で、しかし堪えきれずに乾いた笑いを漏らした。



(黒川さん、少しは分かってくれたのかな…?まあ、急に変わるわけないけど…今日の会議は、本当に衝撃的だった。あの黒川さんが変わろうとしてるのかもしれないって思ったら、なんだか俺まで嬉しくなってきた)


佐藤は、そんなことを考えながら、少しだけ軽くなった足取りで自分のデスクへと戻った。




席について大きく伸びをする。3時間にもわたった会議だったが、心は不思議と満たされていた。

視界の端で、結衣が黒川のデスクに近づき、何か楽しそうに話しかけているのが見えた。黒川は、また顔を真っ赤にして、しかしどこか嬉しそうに彼女の言葉に耳を傾けている。


その光景は、まるで長年放置されてきた複雑怪奇なレガシーシステムに、一筋の美しい光が差し込んだかのようだった。



その光が、この開発二課に、いや、デジタル・ハーモニー社全体に、どんな未来をもたらすのか。それはまだ、誰にも分からない。

ただ一つ確かなのは、この波乱万丈なプロジェクトは、まだ始まったばかりだということだ。




読んでいただきありがとうございます!

前後編にも関わらず、少し間が空いてしまい申し訳ありません。


今回のエピソードでは、結衣・黒川・佐藤・そして開発二課のそれぞれの

関係性の変化の兆しに焦点をあててみました。

4章の始まりとして、よいスタートが切れたのではないかと思っています。

引き続き、キャラクターたちの心の動きに注目していただけると嬉しいです。



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ブックマークや評価などで「読んだよ!」と教えていただけると、ものすごく嬉しいです!


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