40. 幕間:天使のデッドロックと男の料理(後)
「『フルコース』…!?なんなのそれ、バカにしているの!?だったら、そのレシピを今すぐ説明してちょうだい!」
愛莉の声のトーンが一段と鋭くなった。顔には、信じられないといった表情がありありと浮かんでいる。
「このPythonスクリプトは、どう見たって単純なラッパーだわ。本体はあのCで書かれたバイナリでしょうけど…。一体どんなロジックで、この『魔法』を実現してるっていうの!?普通じゃないわ!」
(これが、さっき黒川が言っていた『ユニークなアルゴリズム』の正体…?)
彼女の脳裏を、驚愕と疑念、そして技術者としての尽きない好奇心が高速で駆け巡る。
(あるいは、このバイナリすらもラッパーで、裏で、どこかの専用サーバーかクラウドに接続して、膨大な計算リソースを使っているのかも…。どちらにせよ、とんだブラックボックスだわ)
「普通じゃない?はっ、そりゃ誰の普通だ」
黒川は、愛莉の剣幕にも臆することなく、むしろどこか楽しんでいるかのように、腕を組んで続けた。
「ま、少なくとも俺のじゃねぇことは確かだ。お前らみてぇな、最新技術だのスマートだのって言葉に踊らされてる連中には、到底理解できねぇ代物だろうぜ」
彼は、一旦言葉を切り、勝手に愛莉のノートPCを外部モニタに接続した。大きな画面に、周囲で遠巻きに様子を窺う開発二課の社員たちにも見えるように、問題のコードの一部を映し出す。
モニターに現れたのは、コメントの一切ない、暗号めいたCのコード。
しかし、そこには凝縮されたロジックの密度と、異様なまでの秩序が息づいていた。
「『Cで書かれたバイナリ』だぁ? 違う。Cなんてもんは、表向きの皮だ。この『魔法』のキモは、低水準最適化。…つまり、インラインアセンブラでのハードウェア制御だ」
黒川の言葉通り、コードはハードウェアの制約を逆手に取るような、執拗なまでの効率追求の痕跡に満ちていた。CPUの挙動は、要所要所で詳細に制御されており、メモリは1バイトの無駄すらも許さない。
「データ処理のボトルネックは、全てビット演算で処理した。お前らお得意の、汎用パーサーどころか、ループ処理や条件分岐すら排除して、極限まで性能を追求している。柔軟性の欠片もない、レガシーの固定長データだからこそできる代物だ」
次に黒川が映したのは、暗号としか思えない数字と記号の羅列。それは、データの構造そのものを直接掌握し、書き換えるような、原始的で、しかし特定の条件下では恐ろしく効率的なロジックだった。
「さらに言や、こいつは単なるデータ処理プログラムとはワケが違う。虫食いのデータが喰えねぇなんていう我が侭なクラウド推進部様のために、欠損したビット列も全て補完してやった。こいつはなぁ、データの傾向を独自にパターン化して組み上げた特別な仕様…いわば、この俺の『ユニークなアルゴリズム』そのものだぜ!」
論理だけでは説明しきれない、経験と直感、そして対象への異常なまでの執着が生み出した、ヒューリスティックなアプローチの極致…それは、まさに黒川独自の『人為的AI』とでもいうべきものだった。
(低水準言語での徹底的な最適化に、レガシーデータに完全に特化した、彼だけの独自エンジン…そして、このデータ補間アルゴリズム…!人間の経験則と直感を、ここまで直接的にコードに落とし込むなんて…私の知る言葉で無理やり分類するなら…これは、 『ヒューリスティック・フィルタ』 の究極系?いえ、それだけじゃない…データの異常性を文脈から判断するこの精度は、まるで『統計的異常検知』…もはや『独自のパターン認識エンジン』とでも呼ぶべき領域だわ…!)
愛莉は呆然と、黒川の言葉の端々や、モニターに映るコードの片鱗から、その常軌を逸した技術の輪郭を必死に捉えようとしていた。
黒川の言わんとする技術思想自体は、彼女の知識体系の範疇にある。
しかし、それが机上の空論ではなく、部品に頼ることもせず、一個人が組み上げ、目の前で圧倒的な成果として具体的に提示されると、その事実は彼女の技術者としてのプライドと常識を激しく揺さぶった。
愛莉の反応を見て、黒川が挑戦的な笑みを浮かべる。
「…森田。お前、本当に極限まで最適化されたコードの威力ってもんを知ってるか?教えてやるよ。その答えはなぁ…こいつだ!!」
自信に満ち溢れた黒川の言葉が示す通り、それは、圧倒的な技術的成果だった。
この「劇薬」とも言える黒川の技術が、本当に信頼に足るものだとしたら…アテナの学習データは文字通り生まれ変わり、自分が抱えていた最大の課題が一瞬で解決するかもしれないという、抗いがたい魅力。
(…確かに、この処理速度とクレンジング精度は、教科書通りの汎用ライブラリや最新のAIツールでは絶対に実現できないレベルだわ…!でも…)
しかし、愛莉の技術者としての常識と倫理観が激しく警鐘を鳴らす。
(でも…、こんな、ほとんどブラックボックスで、コメントの一つもないようなコードの塊、まともなエンジニアリングとは到底言えない!採用するわけには…いかない!)
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しばらくの間、張り詰めた沈黙が開発二課のフロアを支配した。
モニターに映し出された、黒川の「差し入れ」の圧倒的な処理結果と、彼の不遜なまでの自信。その余韻が、まだ空気中に漂っている。
最初に口を開いたのは、愛莉だった。彼女は一度、きつく目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。その瞳には、先ほどまでの興奮と混乱を抑え込み、プロジェクトリーダーとしての、そしてAI倫理を重んじる者としての冷静な光が宿っていた。
「…黒川さん。あなたのその『差し入れ』とやらが、常軌を逸した性能を発揮することは…理解しました」
その声は、感情の波を乗り越え、意図的に平坦なトーンに整えられている。
「ですが、その方法論は、プロジェクト管理上、そしてエンジニアリングの常識から考えて、到底許容できるものではありません!何の事前相談もなく、このような検証が極めて困難なブラックボックス処理を、AIの学習データ生成パイプラインに組み込むことを提案するなんて!チーム開発の基本理念を、あなたは何だと思っているんですか!?」
愛莉の声が、静まり返った開発二課のフロアに鋭く響き渡る。周囲で固唾を飲んで見守っていたエンジニアたちの肩が、わずかに跳ねた。
「それに、このデータの『補間』や『補正』ロジック…!その統計的な妥当性と再現性は、どうやって保証するんですか!?AIの学習データに、あなたの個人的な解釈や、あるいは意図しない深刻なバイアスが『汚染』として混入してしまったら、アテナ・ウィズダムは取り返しのつかない欠陥を抱えることになるのよ!?」
愛莉の瞳は、黒川の技術の潜在的な力を認めつつも、その制御不能な危うさを、リーダーとして見過ごすわけにはいかないという強い意志を映していた。
「だいたい、この、コメント一つない暗号のような低水準コードの塊…!メンテナンス性という概念が、あなたには存在しないんですか!?何より、あなた一人しか触れないようなコードなんて、プロジェクトに組み込むことは絶対にできません!その処理に依存したAIシステムそのものが、新たな『技術的負債』を生み出すことになる!それじゃ、レガシー刷新の意味がないじゃない!!」
正論だった。その言葉の一つ一つが、プロジェクトを預かるリーダーとしての彼女の責任感と、技術者としての良識から発せられていることは明らかだ。
しかし、その凛とした声の奥には、黒川の常識外れの技術に対する隠せない畏怖と、それを理解し、そしてあわよくば自身のAIに取り込みたいという技術者としての強い欲求も複雑に絡み合っているのを、黒川は見抜いていた。
彼は、愛莉の剣幕にも怯むことなく、むしろその反応を予測していたかのように、ニヤリと不敵な笑みを深める。
「はっ、さすがはクラウド推進部のリーダー様だ。お上品で、ご立派な正論を並べやがる。ブラックボックス?だから何だ。結果が全てだろうが」
黒川の視線は、愛莉の動揺を見透かすように細められる。彼女が掲げる理想論と、それを実現できずにいる現実。その核心を突くように、彼は言葉を続けた。
「お綺麗な理想論だけで、尖ったものが作れると思ってんだったら、おめでたいにも程がある。お前らの言う『リアルタイム強化学習』を実現するのに必要な要件はなんだ?それを可能にする、圧倒的な処理性能と、質の高い学習データじゃねぇのか。違うか?」
黒川の言葉には、揺るぎない確信が宿っていた。
彼の頭の中には、数日前の夜、居酒屋で芽上結衣と熱く語り合った、レガシーシステムの未来と、AIとの融合という壮大な青写真が鮮明に思い浮かんでいる。あの女神が示した可能性、そして自分自身の技術がそれを現実のものにできるという確信が、今の彼を突き動かしていた。
「これを使えば、お前らのAIは、間違いなく、今までとは比較にならないレベルで賢く、そして爆速で学習できるようになる。それだけじゃねぇ。俺が本気でこいつをチューニングすりゃあな、今のバッチ処理でちまちま過去データ食わせるだけの単調な学習サイクルなんか、目じゃない。レガシーDBからほぼリアルタイムで最新の業務トランザクションデータをストリーミング供給して、『現実世界の複雑なフィードバック』を受けながら、ダイナミックに、それこそ生き物のように賢くなっていく『真のオンライン強化学習環境』!それすら、この俺が構築してみせるぜ!…それが気に喰わねぇなら、お前らお得意の、お上品な『汎用ライブラリ』とやらで作った、『凡庸』なシステムで一生遊んでるんだな!」
黒川は、愛莉の目を真っ直ぐに見据え、さらなる挑戦状を叩きつける。その瞳には、単なる挑発だけではない、確かな未来への展望と、それを実現できるという絶対的な自信が宿っていた。
「リアルタイム強化学習…!?」
愛莉は、その言葉に息をのんだ。彼女の整った顔立ちから、一瞬、血の気が引く。それは彼女がアテナ・ウィズダムで最終的に目指していた理想形の一つだったが、レガシーデータの品質と供給速度という巨大な壁に阻まれ、半ば実現不可能と諦めかけていた究極の目標だったのだ。
黒川の言葉は荒々しく挑発的だ。しかし、その瞳の奥に宿る、自らの技術への絶対的な自信と、AIという未知の領域への挑戦を心から楽しむかのような、純粋な技術者としての輝きは、否定しようもなく愛莉の心を捉えた。
愛莉は、黒川の実装の危険性や非標準性を理解しつつも、彼が提示した「リアルタイム強化学習」という言葉と、それを可能にするかもしれない圧倒的なデータ処理性能、そして何よりも彼のレガシーシステムへの常識外れの深い理解と、それを最新技術に繋げようとするその執念に、技術者として強い興奮と、自身のAIの新たな進化への強烈な可能性を感じずにはいられなかった。
反発と、それ以上の期待。この男の技術は、間違いなく劇薬だ。しかし、使い方次第では、アテナを、そして自分自身を、誰も到達できなかった高みへと導いてくれるかもしれない…!
そして、黒川もまた、愛莉のAIに対する深い知識と、彼女が目指すAIの未来像、そして自分の無茶苦茶な「差し入れ」に対して、感情論ではなく技術的な観点から真っ向から反論し、理解しようと食い下がってくるその真摯な姿勢に、次第に彼女を認めざるを得なくなっていた。
(…ケッ、偉そうなこという割に、目はモニターに釘付けじゃねぇか…。まあ、エンジニアなんてのは、大概そんなもんだ。ヤバけりゃヤバいほど、そそられちまう )
見開いた瞳が葛藤に揺れている。それは、彼が初めて目にした「天使」の人間臭い一面だった。
彼の愛莉を見る目つきが、いつの間にか、単なる敵意や侮りではない、何か別のもの――あるいは、同じ高みを目指す者への、どこか通じ合うような感覚――を含み始めていた。
開発二課のフロアの空気は、二人の放つ異様なまでの集中力と、周囲を圧するほどの技術的な熱気に満たされ、他のエンジニアたちはただ固唾を飲んで、その規格外の議論の行方を見守るしかなかった。
明確な結論は、まだ出ない。しかし、黒川と愛莉の間には、以前とは異なる種類の、ピリピリとした技術的な緊張感と、ほんのわずかながらも互いの剥き出しの能力を認め合うような、言葉にし難い繋がりが芽生え始めていた。
++
しばらくの後、フロアの入り口の方から、数人の足音が近づいてきた。
会議を終えたのだろう、芽上結衣、佐藤健太、そして佐々木課長の姿。彼らは、フロアの異様な雰囲気と、火花を散らすように議論を続ける黒川と愛莉の姿を目にし、一様に足を止めた。
「な、なんだどうした!一体、何があったんだ!?」と、佐々木が困惑を露わに声を発する。
結衣の分析的な視線、佐藤の心配そうな表情、そして佐々木課長の呆気にとられた顔。
三人の視線が突き刺さり、黒川と愛莉はハッと我に返って激論を中断した。
睨み合っていた互いの顔から、まるでタイミングを合わせたかのように同時に視線を逸らし、気まずい沈黙がフロアに落ちた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
前編での告知通り、
「ありえそうでありえない、リアルとファンタジーの境界線ギリギリ」を目指しました!
IT系の読者の皆さまの目にはどう映ったでしょうか。
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そしてIT系でない読者の皆様には、専門用語が多く大変失礼いたしました。
用語集では説明しきれないため、今回は心の目で雰囲気を感じていただければ幸いです…!
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引き続き、皆様のブクマ・評価・感想その他諸々、いつでもお待ちしております!(Xアカウント: @Endi_neer)