04. 配属!『普通』の新人 (神)
デジタル・ハーモニー社での衝撃的な面接から数日後。その日、開発二課のフロアは、普段とは明らかに違う、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
その理由は、数日前から、社内を賑わせている噂にあった。
『面接で世界平和を語った、不思議ちゃん』
『システム障害を予言する、神力の持ち主』
『その正体は、最新AI搭載の自律式アンドロイド』
そんな突拍子もない話が、slackの雑談チャンネル、給湯室でのひそひそ話、ランチタイムやタバコ休憩、社内のありとあらゆる場所で、まことしやかに囁かれている。
そして今日。その噂の主である、謎の新人が、この部署に配属される。期待と畏怖と、野次馬根性が入り混じった視線がフロアの入り口に集まる中、課長の佐々木が声を張り上げた。
「新しくチームに加わる、芽上結衣さんだ。皆、よろしく頼む」
当然、彼の耳にも、この数日の噂と、人事部長からの『規格外』という前情報は届いている。既に胃の辺りがシクシクと痛み始めていた。
佐々木による紹介が終わると、結衣は一歩前に出て、事前にインプットした模範的な角度でお辞儀をした。
「芽上結衣と申します。本日よりこちらでお世話になります。至らない点も多いかと存じますが、一日も早く戦力となれるよう努めますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
事前にインプットした『新人挨拶』のテンプレートを、完璧な発音と抑揚で再現する。
外見も『会社』に馴染むよう最適化を施している。色彩を抑えたダークブルーの髪を控えめなシニヨンにまとめ、服装も周囲に溶け込むような落ち着いた色合いを選んだ。
その姿は、どこからどう見ても、真面目で少しだけ綺麗な、ごく普通の新人女性エンジニアだった。噂されていた『神がかり』や『アンドロイド』のような雰囲気は、微塵も感じられない。
フロアに漂っていた緊張感が、ふっと和らぐのが分かった。
(あれ?なんだ、普通の新人じゃん…)
(噂は盛られすぎだったか)
(拍子抜けしたな)
警戒と少しの好奇心が入り混じった視線は、安堵と、そして少しだけ『騙された』ような空気に変わった。
面接に同席していた佐藤健太もまた、安堵とも困惑ともつかない表情で結衣を見ていた。あの面接での、常識を超越した言動の数々。それが嘘だったかのように、結衣は落ち着き払い、むしろ初々しさすら感じさせている。
(あれは、面接の緊張で舞い上がってただけ…なのか? いや、でも、あのバグの指摘は…)
佐藤の思考は混乱していた。
一方、フロアの隅で腕を組み、結衣を値踏みするように見ていた男がいた。黒川徹だ。彼は、他人に自分のやり方を乱されることを、何よりも嫌う性分だった。面接での噂を聞き、どんな奇人変人が来るのかと身構えていたが、目の前の彼女は、拍子抜けするほど『普通』だった。
(なんだ、大したことねぇな。噂だけじゃねーか。面白くもねぇ。…どうせ、すぐ音を上げて辞めてくだろ。この部署の厳しさも知らねぇで… )
黒川は内心で毒づき、興味を失ったように自分のデスクへと戻っていった。
結衣は、周囲の反応――警戒から安堵へ、あるいは侮りへ――という感情の変化を冷静に観測していた。彼女の内部では、人間関係という複雑なシステムの分析が既に始まっている。
(対象集団は、外部情報と内部情報の間に乖離を検出。急速な補正及びリスクレベルの低下を確認。同時に『未知』から『凡庸』へと認識が移行したことによる関心度の低下も観測されます。興味深いデータです)
朝礼での挨拶が終わると、自身の席へと案内された。隣の席は、面接の場にいた佐藤だった。
「よろしく、芽上さん。分からないことがあったら何でも聞いて」
「はい、佐藤さん。ありがとうございます。頼りにしております」
少しぎこちない笑顔で話しかけてくる佐藤に、結衣は微笑みを返し、静かに頷いた。
その日の業務は、主に社内システムのオリエンテーションや開発環境のセットアップだった。結衣は、与えられたマニュアルを驚異的な速度で読解し、必要な設定を淡々とこなしていく。
時折、佐藤が「大丈夫? 手伝おうか?」と声をかけるが、結衣は「問題ありません。このマニュアルは非常に合理的です」と真顔で返し、その言葉の通り、一切の迷いなくPCを操り、作業を終わらせた。
その並外れた処理能力に、佐藤は戸惑いを覚えたが、それ以外は、概ね平穏に一日の業務が終了――するはずだった。
「おい!! 誰だ、ここにテストスクリプトを流しやがったのは!?」
突如、響いた怒声により、フロアを支配していた穏やかな空気が一瞬で消去された。
「このポートは本番環境に繋がってるって、何度言やぁ分かる!?頭に書き込めねぇなら、テメェのそのツラにでも書いておきやがれ!!」
結衣が視線を向けると、フロアの奥、サーバルームの前で数人の若手社員が顔面蒼白で立ち尽くし、彼らよりも少し年長の男が、鬼の形相でキーボードを叩いていた。
「…佐藤さん。あの方は?」
「あ、あれは…うちの主任の、黒川さん…。少し…いや、かなり気難しい人でね…」
佐藤は、まるで自分のミスを指摘されたかのように肩を縮め、小声で囁いた。
結衣は、黒川の全身から放たれる苛立ちの波動と、それにおびえる若手社員たちの萎縮、そしてサーバルームから漏れ出るシステムの悲鳴――それら全てが織りなす不快な『不協和音』を観測すると、「なるほど」と小さく頷いた。そして、瞳に分析的な色を滲ませ、呟いた。
「―― この職場は、私の想像以上に、修正のしがいがありそうですね」
その囁くような言葉は、サーバールームから聞こえる喧騒に掻き消され、隣に座る佐藤には届かなかった。