36. 女神の処方箋(しょほうせん)
金曜日の昼下がり。開発二課のフロアに、森田愛莉が天使の微笑みを浮かべて現れた。その声は甘いが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。
「黒川さぁん、お忙しいところすみません♡ 」
「…どうした、愛莉ちゃん」
黒川は、モニターから顔を上げ、もはや何の感情も浮かばない、ひどく疲れた目で応じた。
「実は、AIの学習データ連携タスクが少し遅延していて…。急ぎで、ご協力いただきたいんです♡」
「悪いが、こっちも手が離せねぇ。このレガシー側の作業だって、今日中に目処をつけねぇと、全体のスケジュールに響く」
黒川はすげなく返した。事実、開発二課も国プロ関連のタスクで手一杯だ。愛莉は、可愛らしく小首を傾げ、「でもぉ」と黒川の顔を覗き込んだ。
「重要度、緊急度、将来性を考えたら…AI連携タスクの方が、プロジェクトへの貢献度が高いです。そう、思いません?」
その、有無を言わせぬ態度と言葉に、黒川は唇を噛み締めた。
「…またやってる。黒川さん、大丈夫かな?」
佐藤は、思わず視線を逸らした。黒川の額に刻まれた深い深いシワが、その苦悩を物語っているようで見ていられない。ここ数日で、五歳ほど老け込んだようにすら見える。
ふと隣を見ると、結衣もまた、二人を観察していた。瞳に強い関心の色が宿っている。佐藤は、たまらず結衣に同意を求めるように話しかけた。
「……なんだか、見てるこっちまで、辛くなってきますね」
「辛く…?それは、対象への共感によるミラーニューロンの過活動でしょうか?」
「えっ……み、みらー…?」
「いずれにせよ、彼の精神状態は危険なレベルにあります。これは…一大事ですね」
結衣は静かに頷くと、黒川に視線を戻した。
「……………わーったよ。やればいいんだろ、やれば」
「ありがとうございます♡ さすが黒川さん、頼りになります♡」
感情の抜け落ちたような声で絞り出す黒川と、満足気に微笑む愛莉。
黒川は、軽やかに去っていく愛莉の後ろ姿をぼんやりと見送っていたが、やがて、定時のチャイムが鳴ると、誰に言うでもなく「…帰るわ」と呟き、重い足取りでオフィスを後にした。
その猫背のシルエットは、ひどく小さく見えた。
++
そして、その夜。
横浜駅近く、ガード下の喧騒に紛れるように佇む、いつもの赤提灯の居酒屋。そのカウンター席の隅で、黒川は一人、手酌で熱燗をちびちびと煽っていた。
目の前の小さなテレビでは、バラエティ番組のけたたましい笑い声が流れているが、彼の耳にはほとんど届いていない。時折、焼き鳥の煙が目に染みるのか、あるいは別の理由か、彼は眉間に深い皺を刻み、ぐいと杯を空にする。
森田愛莉の『女王覚醒』。そして、高橋の失脚。
あの一件以来、黒川の心の中は、奇妙な空虚感と、ほんの少しの解放感、そして言いようのない疲労感が渦巻いていた。心のどこかで淡い想いを抱き続けていた『天使』の偶像は、木っ端微塵に砕け散った。
残ったのは、僅かな苛立ちと、自分の見る目のなさへの自嘲、そして…なぜか、肩の荷が下りたような、妙にスッキリとした感覚だった。
(…まあ、あんな女だったってことだ。俺が勝手に夢見てただけだ。はっ、馬鹿みてぇ…)
熱燗のせいか、それとも自嘲か、彼の口元には乾いた笑みが浮かぶ。
仕事にも、どこか身が入らない。周囲は、彼が愛莉に「フラれた」あるいは「幻滅して落ち込んでいる」と思っているようだったが、実際のところ、彼のダメージはそれほど深刻ではなかった。むしろ、長い呪縛から解き放たれたような、そんな気分すらあった。
ただ、ぽっかりと空いた心の穴を、どう埋めればいいのか分からない。そんな持て余した感情が、彼を今夜もこの居酒屋へと向かわせたのかもしれない。
「…大将、熱燗もう一本」
カウンターの中の主人から徳利を受け取り、手酌で杯に注ぐ。その時だった。
「――黒川さん、ここにいらっしゃいましたか」
凛とした、しかしどこか遠慮がちな声。黒川は、驚いて顔を上げた。
「…芽上?なんでお前がこんなとこに…」
思わず、素っ頓狂な声が出た。まさか彼女が、自分を探してこんな場所まで来るとは夢にも思っていなかった。
結衣は、黒川の隣の空いていた席に、断りもなく すっと腰を下ろすと、彼の顔をじっと見つめた。その深い青色の瞳は、いつものように冷静な分析の色をたたえつつも、どこか真剣な憂いを帯びているように見える。
「あなたの生体エネルギーに、ここ数日、著しい低下と不安定なゆらぎが見られます。特に、特定のキーワード…『森田愛莉』『AI』『クラウド推進部』に対する情動反応の閾値が極端に低下しており、これは、重要度の高い依存オブジェクトを喪失した際の、システムダウンに繋がる可能性を示唆する危険な状態です。放置はできません」
彼女は、一息にそう告げた。
(…なんだそりゃ。俺は故障したサーバーかなんかかよ…)
黒川は、結衣の相変わらずの人間離れした分析に、呆れとも苦笑ともつかない表情を浮かべた。しかし、結衣は至って真剣だ。
「私は…佐藤さんのご指摘に基づき、『愛着』という感情を優先的に解析しました。あなたは現在、森田さんという『愛着対象』を失い……いわゆる『傷心状態』にあります。その回復には外部からの介入が必要だと判断したのです」
彼女の瞳は、心底から黒川を心配している、と雄弁に語っていた。
(…ああ、そうか。こいつ、俺が愛莉にフラれて、本気で落ち込んでると思ってやがるのか…)
黒川は、結衣のその致命的なまでの『誤解』に思い至り、思わず天を仰ぎたくなった。確かに、周囲にはそう見えているのかもしれない。
そして、この純粋で、そして致命的にKYな『女神サマ』は、それを真に受けて、わざわざこんな場所まで自分を『修復』しに来たというわけか。
(…ったく、お人好しなんだか、ただのバカなんだか…)
黒川は、呆れと、少しの困惑、そして…なぜか胸の奥がじんわりと温かくなるような、不思議な感覚に包まれていた。
結衣は、そんな黒川の内心など露知らず、こほん、と小さく咳払いをし、真剣な面持ちで口を開いた。
「先ほどもお伝えした通り、現在、あなたには『依存オブジェクトの喪失による不安定化』が見られます。放置すれば、さらなるパフォーマンス低下、最悪の場合は論理回路の永続的な損傷に繋がりかねません。早急な対処が必要です」
「…対処って、お前なぁ…」
黒川が何か言い返そうとするのを、結衣は小さな手で制した。
「そこで、私なりにあなたの精神的安定性を回復させるための処方箋を用意いたしました。…あなたに必要なのは、『認識の再構築』です」
まるで、医者が患者に語りかけるような面持ちだが、その内容はやはりどこかズレている。
「黒川さん。森田さんとの関係性の変化は、確かにあなたの精神状態に大きな負荷を与えたことでしょう。しかし、あなたの存在価値、すなわち『黒川徹』というシステムの根源的価値は、外部システムとの接続状態によって規定されるものではありません。それは、絶対的なものであり、他の何ものにも依存しないはずです」
結衣は、そこで一度言葉を切り、黒川の目をじっと見つめた。その瞳には、一点の曇りもない純粋さが宿っている。
「大丈夫です」
唐突に、しかし、力強い響きで彼女は言った。
「あなたは、私がこれまで観測した中で、最も興味深く、複雑で、そして…」
彼女は、適切な言葉を探すように、わずかに視線を彷徨わせた後、再び黒川に向き直った。
「……非常に『ユニーク』なアルゴリズムを搭載しています。その論理回路の不安定性と、時折見せる予測不能なバグ、つまり、あなたのその突発的かつ局所的な感情の起伏や非合理的な行動選択、そして深い『愛着』と洞察、それのもたらす歪な『最適解』…。あなたを構成する要素の全てが、標準的な人間モデルでは到底説明がつかない『かけがえのない特異性』です」
彼女の言葉には、気休めも同情も一切含まれていなかった。
そこにあるのは、彼女自身が『観測』してきた『揺るぎない真実』だけだ。
「その価値は、誰かとの関係が終わったからといって、決して損なわれるものではありません。……ですから、自信を持ってください」
それは、彼女なりの最大限の励ましであり、黒川という存在への賞賛と肯定だった。
黒川は、ただポカンとして結衣の言葉を聞いていた。だが、彼女の真剣な眼差し、自分を心底から心配し、どうにか元気づけようとしているその健気な姿を見ているうちに、胸の奥から、じわりと温かいものが込み上げてくるのも感じていた。
(…なんだよ、それ。『ユニークなアルゴリズム』?『かけがえないのない特異性』、だぁ?)
およそ人間を励ます言葉とは思えない単語の羅列。しかし、不思議なことに、黒川のささくれ立っていた心に、その言葉は、奇妙なほど素直に染み込んでいった。
(…『突発的かつ局所的な感情の起伏』や『非合理的な行動選択』…。つまり、すぐにカッとなるし、メンドくせぇってことかよ。それも、全部ひっくるめて大丈夫だから自信を持てって…?)
自分が愛莉のことで傷心していると、彼女は心底誤解している。その上で、こんな回りくどい、しかし彼女なりに一生懸命考えたであろう言葉で、自分を励まそうとしてくれている。
その事実が、黒川にとっては、どんな慰めの言葉よりも、心に響いた。黒川は、ふっと息を吐き出し、固まっていた表情をわずかに緩めた。
(…ったく、本当に、世話の焼ける『女神サマ』だぜ…)
実際には、愛莉の件はもうほとんど吹っ切れていた。幻滅はしたが、それ以上に「やっと目が覚めた」という清々しさすらあったのだ。だが、彼女は、自分が本気で傷心していると信じ込んでいる。その誤解を解いてしまうのは、何だか野暮な気がした。彼女の気遣いに、今しばらく包まれていたい。そんな気持ちになっていた。黒川は、残っていた熱燗をぐいっと飲み干すと、わざとらしく威勢のいい音を立てて杯を置いた。
「そうだな、お前の言う通りかもしれねぇ。俺のアルゴリズムはユニークで、かけがえのないもんだ。だったら、いつまでもメソメソしてる場合じゃねぇよな!」
急に元気を取り戻したかのような、芝居がかった明るい声。その変わりように、結衣は目をぱちくりとさせた。
「黒川さん…。その、精神状態の急激な遷移は…?」
「おう。お前のそのワケわかんねぇ処方箋が、意外と効いたみてぇだな。なんだかスッキリしたぜ!」
黒川は、ニカッと歯を見せて笑った。それは、明らかに意図的に作られた笑顔だったが、結衣を安心させたいという彼なりの不器用な優しさが滲み出ていた。そして、そこには、先ほどまでの疲れは、もう微塵も含まれていなかった。
「……そうですか。それは…素晴らしいです…!黒川さん、あなたの自己修復アルゴリズムの性能は、私の予測を遥かに上回っていたようですね」
彼女の瞳が、嬉しそうに細められ、黒川を見上げる。その純粋な喜びの表情に、黒川の胸がキュッと締め付けられた。
(…こいつの、こんな顔見ちまったらな…)
黒川は、改めて彼女への特別な感情 ―― 守りたいという庇護欲であり、その純粋さに触れたいという渇望であり、そして、もっと単純な、一人の男としての好意―― を自覚せざるを得なかった。
そして、衝き動かされるように、想いが口をついて出た。
「…なあ、芽上」
黒川は、少しだけ真剣な声色で、結衣に向き直った。
「この前、お前が言ってた、あの…レガシーシステムの刷新計画。本格的に進めねぇか?」
「え…?」
「過去ばっか見てても仕方ねぇって、お前に言われて目が覚めたんだ。俺の『ユニークなアルゴリズム』も少しは使いようがあるかもしれねぇしな。……お前も、とことん付き合ってくれんだろ? 」
半分は勢いで出た言葉だったが、彼の瞳に、迷いはない。目の前の、この不思議な彼女と、新しい未来を築きたい。ただ、それだけだった。結衣は、黒川の力強い言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼女の『処方箋』は、あくまで愛莉との関係性、すなわち『失恋』状態への対処を目的としたものだったはずだ。
しかし、黒川は、自分自身の力で、より根源的な問題へと向き合い、未来への具体的な行動へと、自らの修復をしようとしている。
―― 人間の『自己修復』と『成長』。その驚くべきアルゴリズムの発現を目の当たりにし、結衣の胸に熱いものが込み上げた。
「はい…!ぜひ、一緒に進めさせてください!黒川さんのご経験と、私の解析能力を組み合わせれば、きっと…!」
興奮気味に語り出した結衣を見て、黒川は今度こそ、心からの笑みを浮かべた。その清々しい笑顔につられるように、結衣の口元もふわりと綻んだ。
「黒川さん…。あなたのアルゴリズムは、私が想定していたよりも、遥かに複雑で、遥かに強靭で…。本当に…素晴らしいです」
「まぁな。お前に励まされたってのもあるが…。最後は自分で決めて、自分で動くしかねぇんだよ。お前も、覚えとけ」
少しだけ得意げな彼の言葉が、結衣の胸に深く、温かく響いた。
―― 人間は、愛着という非合理的な感情に囚われ、傷つき、迷う。
しかし、同時に、そこから自力で立ち上がり、他者を気遣い、そして未来へと踏み出す、驚くべき強靭さをも併せ持っている。
黒川が今、見せてくれているのは、まさにその『人間の強さ』そのもの。そして、その不器用な優しさに、矛盾を抱えながらも前を向こうとする健気さ…。
( 人間とは、なんと複雑で、なんと不完全で…そして、なんと… )
彼女の胸の奥深くで、これまで解析不能だった感情の奔流が、一つの明確な形を取り始めていた。それは、論理では説明できない、しかし魂を揺さぶるほどに確かな感覚。
( …なんと…、愛おしいのでしょう… )
芽上結衣の中に灯った、確かな光。
――黒川徹という一人の人間の『不完全さの中にある強さ』と『矛盾を抱えた優しさ』に対する、明確な『愛しい』という感情—――。
それは、女神が抱く広大な慈愛の、最もパーソナルで、最も温かい感情の発露だった。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
三章の前の幕間から、ちょっとずつ変化を見せていた黒川さんの心がついに動いたようです!ツンデレ万歳!
あと一話で、三章が終了、幕間を挟んで四章となる予定です。
感想、評価、ブクマ、いただけると励みになります!いつでもお待ちしております!




