33. 缶コーヒー一本分の真心
国プロ中間報告会での嵐のような一日と、エレベーターでのぎこちない会話から数日。
開発二課のフロアの一角では、依然として芽上結衣と黒川徹の間に、目に見えない、しかし確かな「壁」が存在していた。二人の会話は途絶え、業務連絡ですら佐藤を介することが常態化し、その重苦しい空気は、周囲の社員たちにも伝染しそうなほどだった。
結衣は、デスクのモニターに表示された複雑なコードの海を眺めながらも、その思考の一部は別の問題に占有されていた。
佐藤に教えられた「人間の気持ちの機微」。
黒川が見せた「失望」という感情。
そして「愛着」という、彼女の論理体系にはまだ組み込まれていない不可解な概念。
これらの要素が、彼女の内部で複雑なエラーを出し続け、解決の糸口を見出せずにいた。その影響か、普段は寸分の狂いもない彼女の仕事のパフォーマンスにも、ほんの僅かな揺らぎが見え隠れしていた。
一方、森田愛莉は、国プロ関連の業務で開発二課に顔を出すたび、その不自然な空気を敏感に察知していた。特に、結衣の僅かなパフォーマンスの低下と、黒川との間に漂う緊張感。それは、彼女の観察眼と、野心を刺激するには十分だった。
(芽上結衣とあの石頭、本格的にこじらせてるみたいね。特に、芽上結衣……今の彼女は少し不安定そうにみえる。彼女の能力の秘密や、弱みを握れるかもしれない…!これは、チャンスだわ! )
愛莉の天使のように愛らしい顔に、計算高い微笑みが浮かぶ。絶好の機会を物にすべく、すぐさま行動を開始した。
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昼休み。結衣が一人、社員食堂の隅のテーブルで、味気ない昼食を摂取していると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「あれぇ、芽上さん。今日は一人なんですか?なんだか最近、元気がないみたいだけど…大丈夫?」
声の主は、森田愛莉だった。完璧な笑顔と、心から気遣っているかのような優しい声色。その手には、彩り豊かなサラダとハーブティーのカップが握られている。
「何か悩み事ですか?私でよかったら相談にのりますよ? 同じプロジェクトで戦う仲間だし、女性同士、分かり合えることもあるかもしれないです♡」
愛莉からの提供された突然の『親切』。結衣は、その行動パターンと意図を解析しようと瞳を細めた。
(森田さんのこのアプローチ…。対象の警戒心を解き、情報を引き出すための典型的なラポール形成戦術と類似。しかし、その目的は不明瞭です…)
だが、結衣は、黒川との関係で実際に袋小路に陥っていた。その解決のためにも、『人間の感情』や『複雑な人間関係の解決ソリューション』について、より多くの実データと知見を得る必要がある。
(彼女の知見は有効な情報源となる可能性がある。リスクは…現時点では限定的と判断できます)
脳裏で情報を吟味し、結衣は、結論を出した。
「…ありがとうございます、森田さん。実は、少し…解析に難航しているヒューマン・インタラクションケースがありまして」
愛莉は、内心で(かかった)とほくそ笑みながら、心配そうな表情を作って、結衣の向かいの席に腰を下ろした。
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その後、二人は、社内の少し奥まった場所にあるカフェスペースに場所を移していた。柔らかな間接照明が、二人の間に親密な雰囲気を醸し出している。
愛莉は、共感的な相槌や、時に自分の「失敗談」を交えるといった巧みな話術で、結衣の警戒心を徐々に解いていった。そして、核心へと、ゆっくりと、しかし確実に迫っていく。
「芽上さん、黒川さんと何かあったんでしょう?黒川さんて、ちょっと口は悪いし、頭も固いけど、根は悪い人じゃないと思うんです。でも、男の人って不器用で、自分の気持ちを素直に表現できないことが多いから…きっと、誤解があるんじゃないでしょうか?」
黒川を貶めるとも擁護するとも取れる言い方で、結衣が話しやすい雰囲気を意識的に作り出す。
「黒川さんの、どんなところが気になってるんですか? 仕事のやり方がどうしても合わない、とか?それとも…、もっと、個人的な…感情のもつれ、みたいなものだったりして♡」
あくまで軽いゴシップのような口調で、しかしその瞳の奥は、結衣の反応を鋭く観察していた。
結衣は、愛莉のその計算しつくされた『親身さ』に、少しずつではあるが、自身の抱える問題を語り始めた。それは、彼女の論理体系で整理された、しかし感情的な側面も含む、正直なで、どこまでもズレた告白だった。
「…黒川さんのレガシーシステムに対する『愛着』という、論理的に非合理的な『感情』が、私の善意に基づいた合理的な刷新提案に対し、予期せぬ強いネガティブな応答を引き起こしたのです」
「佐藤さんの分析によれば、私のコミュニケーション・プロトコルに問題が存在していると示唆されています…。私は、その『問題』も『最適解』も、未だ導き出せておりません」
「黒川さんの感情アルゴリズムは、非常に複雑かつ予測困難な反応を示すため、解析が難航しており…そして、私自身の内部システムも、彼に対し、まだ定義できない不確かな内部状態を継続的に観測しています」
愛莉は、結衣のその人間離れした分析的思考と、恋愛感情への絶望的なまでの鈍感さに、内心で呆れと嘲笑を禁じ得なかった。
(やっぱりこの女、普通じゃないわ…頭は切れるみたいだけど、人間の機微ってもんが全く分かってない。でも、だからこそ操りやすいかもしれない。もっと詳しく聞き出して、私の駒にしてやるわ)
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「うーん、それは結衣さんも悩みますよねぇ」
愛莉は、さも共感したかのように深く頷いた。さりげなく、呼び名をファーストネームに切り替える。そして、とびきりの天使の笑顔で、結衣に「アドバイス」を始めた。それは、彼女を自分の都合の良いように誘導するため、そして、結衣をさらに混乱させるためのものだった。
「そうだなぁ…、黒川さんみたいな不器用で頑固なタイプには、結衣さんの考えを、とことん説明してあげるべきだと思う!『分かった』って白旗を揚げるまで、何度でも、結衣さんの『正しい』考えを、優しく、でも断固として伝えてあげるの♡」
いかにも良いことを思いついたというように、結衣のKYさを助長させるようなアドバイスをする。もちろん、そんなことをしたら、更に拗れるのが分かった上での提案だ。
「あとはぁ‥、そうだ! もしかしたら、結衣さんが黒川さんを頼りにしてるからって、調子にのってるんじゃない?ヤキモチ焼かせてみるとかどう? ちょっと他の男性社員…そうね、例えば佐藤さんとかと、わざと親しげにしてみるとか♡ 」
悪戯っぽく囁く愛莉。佐藤をも巻き込んで、開発二課の空気が更に悪くなればいい。そうなれば、プロジェクト・ネクストXは愛莉の独壇場、成果も全て自分の思う侭だ。
結衣は、愛莉のそれらのアドバイスに、真剣な表情で耳を傾けていた。
アドバイスが一通り終わった後、結衣は静かに、しかし真っ直ぐに愛莉の目を見つめ返した。その深い青色の瞳は、先ほどまでの困惑の色が消え、どこか冷徹なまでの純粋な光を宿していた。
「森田さん、貴重なご助言、ありがとうございます。大変参考になりました。ただ、ひとつ、基本的な疑問が解けません」
「なぁに?結衣さん?」愛莉は、まだ余裕の天使の笑顔を崩さない。
「あなたが今お話しされたようなコミュニケーション戦略は、対象の感情や行動を、ご自身の望む方向へと『操作』し、特定の反応を引き出すことを主目的としているように観測されます。それは、対等な人間関係における『相互理解』や、私が目指すべき『調和』とは、根本的に異なるベクトルを持っています」
結衣の言葉は、淡々としていたが、その内容は愛莉のコミュニケーションスタイルの本質を、的確に、そして容赦なく射抜いていた。
「森田さんご自身は、そのような戦略を用いることで、本当に、ご自身の心の中にある『悩み』や『満たされない思い』から解放され、穏やかな精神状態を保つことができているのでしょうか?」
「私の観測では、あなたの内部には、常に高いレベルの『警戒』と『不信』、そして『他者からの承認への強い渇望』と、それが満たされないことによる『潜在的な不満』といった、複雑なノイズが恒常的に検出されています。それは、あなたのコミュニケーション戦略の限界、あるいは副作用を示しているのではないでしょうか?」
愛莉の顔から、一瞬にして天使の微笑みが消え失せた。
結衣の言葉は、純粋な分析結果の提示だったが、それは愛莉にとって、自分の最も隠しておきたい部分、自分でも気づかないフリをしていた心の闇を、容赦なく白日の下に晒されたような衝撃だった。
(こ、この女…!それが、私の本心だって言いたいいうの…!?ふ、ふざけないで!!)
愛莉は、込み上げてくる苛立ちや怒りを思考で抑え込もうと、必死で頭を巡らせた。
…目の前の女――芽上結衣は、確かに規格外の分析能力を持っている。だが、それだけだ。感情の機微など理解できるはずがない。これは、彼女なりのブラフか、あるいは偶然、核心に近い部分を突いただけに過ぎない。
愛莉は、そう結論付けると、わざとらしく刺々しい声で言い放った。それは、動揺を必死で押し隠しているようにも見えた。
「…私のアドバイスはいらなかったみたいですね。残念です。それなら、あなたらしく頑張ってみてください。じゃあ、これで♡ 」
作り笑顔を浮かべ、まるで逃げるように、愛莉は足早にその場を立ち去った。
その背中は、わずかに震えている。結衣をコントロールしようという気など、今は、完全に失せ、その心には、彼女の言葉が、消えない棘のように深く突き刺さっていた。
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愛莉が去った後、結衣は一人、彼女の言葉と、そして何よりも彼女のあの動揺した反応を反芻していた。
(人間の感情はやはり複雑で、森田さんの戦略も万能ではない…彼女自身もまた、多くの矛盾とノイズを抱えているようです。しかし、黒川さんとの現在の『不調和』を放置することもできません…私が直接、誠実なコミュニケーションを試みるしかないのですね)
彼女は、自分なりの結論を出し、行動に移すことを決意した。
その日の夕方、開発二課のフロアで一人残業している黒川の元へ、結衣はそっと近づいた。
彼のデスクには、以前、彼女が倒れた時に彼が用意してくれたのと同じメーカーの栄養ドリンクが、未開封のまま置かれている。
結衣は、おずおずと、しかし真剣な表情で、小さな紙袋を差し出した。中には、彼女が休憩時間に自販機で買ってきた缶コーヒーが二本入っている。
「……黒川さん。あの…先日は、私の配慮が足りず、不快な思いをさせてしまい、本当に…申し訳ありませんでした。あの、これは…コーヒーです。もし、よろしければ…」
ぎこちない、しかし彼女なりに真摯な、心からの謝罪の言葉だった。その声は、自分でも気づかぬほどに、わずかに震えていた。
黒川は、結衣からの突然の謝罪と差し入れに、驚いて顔を上げた。
彼女のその、これまで見たことのないほど殊勝な態度と、どこか「しょんぼり」しているように見える表情に、彼の心は大きく揺さぶられた。
(な、なんだコイツ…いきなり殊勝な態度取りやがって…コーヒー?俺にか?しかも、なんか…本気で反省してるみてぇな顔しやがって…)
黒川の中で、あの時に感じたわだかまりは、まだ完全に消えてはいない。しかし、目の前の結衣の、必死な様子を見ていると、突き放す気にはなれなかった。
「…ああ。…サンキュ」
ぶっきらぼうに、それだけ言うと、コーヒーを受け取り、また作業に戻る。
それ以上の会話はない。関係が劇的に改善したわけではないが、凍り付いていた二人の間に、ほんのわずかな、しかし確かな変化の兆しが見えた瞬間だった。
その様子を遠巻きに見ていた佐藤は、わずかな希望と、相変わらずの不安を感じていた。
(芽上さん、少しは人間らしいことするようになった…のか?黒川さんも、まんざらでもなさそうだし…いい方向に進むといいけど…)
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自席に戻った愛莉は、窓の外に広がる横浜の夜景にぼんやりと視線を投げた。しかし、その瞳には、きらびやかな街の灯りではなく、もっとずっと昔の、ある出来事の残像が揺らめいていた。
結衣の言葉――『コミュニケーション戦略の限界、あるいは副作用』――が、まるで呪いのように彼女の頭の中で反響する。
(限界? 副作用ですって?)
違う、と愛莉は内心で強く否定した。限界などではない。ましてや副作用などと、簡単に片付けられてたまるものか。
(…私のやり方は、間違ってなんかいない。あれは、私があの屈辱的な現実の中で、生き残るために、そしていつか全てを見返すために、必死で作り上げた…私だけの『システム』なのだから)
脳裏に蘇るのは、まだ自分が何者でもなく、ただ純粋な理想と才能だけを信じていた、あの日のこと。
そう、全ては、あの忌まわしい新人成果報告会から始まったのだ――。
次回、回想編です。ご意見・ご感想、お待ちしております!




