30. 女神・人間化推進オペレーション!
ここ数日、開発二課の面々は、ある一つの共通見解に至っていた。
芽上結衣の様子が、おかしい ―― 。
その卓越した頭脳は依然として冴えわたっている。だが、ふとした瞬間に見せる反応が、以前とは明らかに異なるのだ。
「…え?あ、はい、申し訳ありません、もう一度お願いします」
佐藤の簡単な業務連絡に対し、一瞬、虚空を見つめてから聞き返す。
コーヒーを淹れようとして、隣のシュレッダーの電源ボタンに手を伸ばし、慌てて引っ込める。
極めつけは、重役たちが雁首を揃える定例報告会の最中のこと。カクン、と結衣の頭が揺れ、次の瞬間には静かな寝息が聞こえ始めた。隣に座っていた黒川が、慌てて肘でつつき事なきを得たものの、周囲の空気は完全に凍り付いていた。
「芽上さん、最近顔色が悪いけど、大丈夫かな…」
「国プロのプレッシャーがすごいんだろうな…」
「黒川さん、なんか芽上さんのこと、ずっと見てるよね」
(…うるせぇな!気になるだろうが、あんなフラフラしてたら!)
黒川は、周囲のヒソヒソ話に内心で毒づきながらも、結衣から目が離せなくなっていた。
彼女に気を許した訳では決してない。だが、明らかに精彩を欠き、弱っている所を見せられると、彼の人一倍強めの庇護欲は、どうしても刺激されてしまうのだ。
( ちくしょう、無視できねぇ…!いつか、何かやらかすに決まってる…!)
そして、その予感は最悪の形で的中した。
いつものように淡々と業務報告を行っていた結衣が、突然、言葉を詰まらせ、ふらりとよろめいた。
「おい、芽上!?」
隣にいた黒川が、崩れ落ちる彼女の身体を咄嗟に支える。その腕の中に感じた、驚くほどの軽さと冷たさに、息をのむ。
「芽上さんっ!」「どうしたんだ!?」「きゅっ、救急車!」
フロアは一瞬にしてパニックに陥る。
「め、芽上くーーーーん!!意識を!意識を確かに持てーーー!!」
佐々木が、顔面蒼白で駆け寄り、至急、タンカを持ってくるよう指示を飛ばした。
++
一時間後。医務室の簡易ベッドの上で、結衣は、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視界に最初に映ったのは、眉間に深いシワを刻んで自分を見下ろす黒川の険しい顔だった。
その隣には、心配そうな佐藤と、オロオロと落ち着きなく動き回る佐々木の姿もある。そこに、慌てた様子の野村部長も駆けつけた。
「佐々木くん、芽上くんが倒れたと聞いたが、容態は!?」
「の、野村部長!それが…」
事情を説明する佐々木の声を聞きながら、まだぼんやりとしている結衣の顔を黒川は苛立たし気に覗き込んだ。
「おい、芽上。聞こえてんのか!?気分は・・って、聞くまでもねぇか、顔が真っ白だ」
彼は、焦点の定まらない様子の結衣に、もどかしそうに声を荒げた。
「過労と、極度の貧血だとよ。お前、どういう生活してんだ?ちゃんとメシ食ってんのか!?正直に言え!」
不器用な問い詰め方だが、その声には明らかな心配の色が滲んでいる。結衣は、まだ少し混濁する意識の中、力の抜けた声で答えた。
「食事による…エネルギー補給、ですか……最後に摂取したのは…4日ほど前に…携帯型の栄養補助食品を…適量…」
弱々しい声で告げられた内容に、空気が凍りついた。
「よっ、4日前!? しかも栄養補助食品だぁ!?」
黒川が絶叫した。佐藤も隣で「ええっ!?」と素っ頓狂な声を上げ、信じられないものを見る目で結衣を見つめている。
「よ、4日…!?信じられん!それで、今まで通常通り、いや、通常以上に業務を…さすがだ、芽上くん…!」
「課長!しっかりしてください!そんなわけないじゃないですか!!」
佐藤が、必死に佐々木を現実に引き戻そうとする。
「そ、そりゃそうだ!こいつ、意識が混濁してんだよ! ぶっ倒れるくらいなんだから!」
黒川も、そう自分を納得させながら、結衣にさらなる追求の手を伸ばす。
「じゃあ……寝てんのか!?まさかとは思うが、それも…?」
「認知機能の調整には睡眠が不可欠です…ですが、 言われてみれば、過去123時間45分、実行しておりませんね…」
「お前、本当に死ぬ気か!!」
黒川が思わず叫び、佐藤も言葉を失って立ち尽くす。その混乱した空気の中、佐々木は、「…そうか!」と何かに思い至ったように、興奮気味に手を打った。
「これは、ゾーンだ…!人間は危機的状況や極度の集中状態において、通常の限界を超えたパフォーマンスを発揮するという!いわば『限界突破モード』! なるほど、これが芽上くんのあの驚異的な能力の秘密だったのか…いやはや、感服した!」
「か、課長!そんなこと言ってる場合じゃないですよ!芽上さん、倒れたんですよ!?」
「いやいや、佐藤くん、君はまだ分かっていない!確かにリスクは伴うが、この『限界突破』モードを意図的に引き出すことができれば、我々開発二課のパフォーマンスは飛躍的に…」
「やりませんよ!?」「死にますって、普通に!」
「……佐々木くん」その混乱を見かねてか、有無を言わさぬ響きで野村部長が口を開いた。
「その『限界突破モード』とやらが、仮に事実だったとしてもだ。部下の健康を犠牲にして成果を求めるような働き方は、断じて許されるものではない。これは明白な労務管理上の問題であり、組織として看過できない。 彼女の健康管理を最優先事項とし、適切なマネジメントを行うように。いいね?」
「は、はいっ!も、申し訳ありません!ただちに改善いたします!」
野村からの厳粛な指摘を受け、佐々木は、ビシッと姿勢を正した。
翌日から、開発二課では、かつてない奇妙なプロジェクト――『芽上結衣・健康で文化的な生活推進オペレーション』――が、始動した。
佐々木が徹夜で考え抜いた、『(色んな意味で)驚異のスーパー新人・芽上結衣に「人間らしい生活」を叩き込む』という、前代未聞の施策だ。
まずテコ入れが入ったのは、食事からだった。
「おい、芽上!何、ぼーっとしてんだ!今日はこの、サバの味噌煮定食だ!ちゃんと食えよ、DHAは脳にいいからな!」
昼休みの社員食堂。トレーにてんこ盛りの和定食を運んできた黒川が、有無を言わせぬ口調で言い、それを結衣の前に置いた。
彼女は、目の前に置かれた『サバの味噌煮』なる物体をスキャンすると、わずかに眉を寄せた。チラ、と視線を横にずらすと、隣に座る佐藤が「お味噌汁から飲むと胃に優しいですよ」と言い添える。
(…私の現行の消化能力を鑑みると、この脂質量と塩分濃度は負荷となる可能性が…しかし、ここで拒否した場合、黒川さんの『心配』及び『苛立ち』が閾値を超えるリスクが高い…。ここは、彼の『善意』を受け入れるのが、現時点での最適解でしょう…)
内心で素早く損益計算を行うと、結衣はおずおずと箸を取った。黒川と佐藤の、そして遠巻きに見ている他のメンバーの監視の視線を感じながら、ぎこちない動きでサバの身を口に運ぶ。
「……」
(…舌の上で分解されるタンパク質と脂質の複雑な結合…味噌由来の発酵アミノ酸がもたらす『旨味』という信号……なるほど。人間が『食事』という非効率な行為に時間を費やす理由の一端を、理解できたかもしれません)
結衣は、未知の味覚を冷静かつ真剣に分析しながら、黙々と箸を進めた。黒川は、どこか満足げな顔をして「残すなよ!」と言い放った。
次にメスが入ったのは、休息だった。
定時時刻のチャイムが鳴ると同時に、佐藤が結衣のデスクにやってくる。
「芽上さん、時間です!今日はもう上がりましょう!」
結衣が反論しようとすれば、すかさず黒川の叱責が飛ぶ。
「ごちゃごちゃ言ってねぇで、とっとと帰れ!徹夜なんかしてみろ、承知しねぇぞ!」
その光景は、さながら子供を寝かしつける父と母のようだった。
静まり返ったオフィスで、結衣は、初めて経験する『誰かに管理される』という状況に、強い戸惑いを覚えていた。
(私の自己決定権に対する、明確な侵害行為。非合理的な干渉です。…しかし…)
不思議なことに、胸の奥で抗議の声を上げる論理ユニットとは裏腹に、”芽上結衣”の精神は、それを『不快』とは認識しない。
むしろ、彼らの不器用な『善意』、過保護なまでの『心配』という名のエネルギーに触れるたび、胸の内側の温度が、緩やかに、しかし確実に上昇していくのを感じていた。
(黒川さんの叱責も、佐藤さんの気遣いも、その根底にあるのは同じ……。彼らが私に向ける『優しさ』。不可解で、しかし確かな『善意』…。これが、人間が社会的な繋がりの中に求める『温もり』――『安心感』というものなのでしょうか)
悠久の時の中で、決して知ることのなかったその感覚は、彼女の中に、新しい、そして極めて興味深い『感情』の揺らぎを形成し始めていた。
++
そして数週間後。
結衣の顔色は見違えるように良くなった。虚空を見つめたり、会議中に意識を飛ばしたりするような致命的なポンコツ行動は、影を潜めた。
とはいえ、女神としての超人的なスタミナや集中力が完全に戻ったわけではない。
集中を乱して深いため息をついたり、資料の並び順を間違えて佐藤にそっと訂正されたり、疲れや凡ミスを見せることもしばしばだった。
そんなある日の午後。結衣が、国プロ関連で新たに発生したレガシーコードの解析に手こずり、うんうんと唸っていた時だった。
「なんだ。行き詰まってんのか?見せてみろ」
いつの間にか隣に来ていた黒川が、ぶっきらぼうに、しかし自然な口調で声をかけてきた。
休憩から戻ってきたところなのか、彼の手には缶コーヒーが二つ握られている。自然な動作で一缶を、トンと結衣のデスクに乗せた。
結衣の説明に、黒川は「ああ、そこか。そこはな…」と、彼女が見落としていた根本的な設計ミスと、その回避策を的確に指摘する。
「なるほど…そういう見方が。ありがとうございます、黒川さん。おかげで解決の糸口が見えました。助かりました」
結衣は黒川に向かって、ふわりと微笑んだ。それは、以前の作り物めいたものでも、分析的なものでもない。安堵と、純粋な感謝の気持ちが滲む、心からの笑顔だった。
「………黒川さん?」
黙ったままの黒川に、結衣が気づかわし気な声をかける。その瞬間、彼は、バッとそっぽを向いて勢いよく立ち上がった。
「……べ、別に、これくらい……!お前がトロいから、見てられなかっただけだ!」
早口でそう言い捨て、彼は、そそくさと自分のデスクへと戻っていった。その背中は、明らかに動揺していた。
結衣は、少しだけ、その後ろ姿を観察していたが、彼がタスクに集中し始めるのを見届けると、自身の解析作業に戻っていった。
モニターを見つめる彼女の瞳は、いつも通りの冷静な色を宿していたが、胸には暖かな心地よさが広がっている。
(…これは、新しい『データ』です。『安心』とはまた違う、この『温もり』… )
彼女は、誰にも聞こえない声で、そう呟くと、デスクに残された缶コーヒーに、そっと指先で触れた。その感触は、少しだけ、温かかった。




