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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第3章:神の理(ことわり)と人の業(ごう)
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29. 女神の理想・天使の現実・匠の技

国プロのテスト環境で発生した、深刻なデータ同期エラー。それはプロジェクトの根幹を揺るがしかねない緊急事態だった。


モニターには解読不能なエラーコードが明滅し、若手社員からの報告は途切れがちだ。佐々木は、胃のあたりを押さえながらも、中心に立ち、必死に声を張り上げている。


そんな中、彼らは、即座に行動を開始していた。


意識を研ぎ澄ませ、膨大なログとネットワーク構造をスキャンする結衣。

苦い顔で、使い古された端末にコマンドを叩き込む黒川。

そして、ビデオ会議画面の向こうの愛莉は、わずかに眉を寄せつつも明るい声で告げた。


クラウド(こちら)側は、リクエストも応答もすべて正常です。開発二課さん側の問題だと思います…!」


甘い声でそちらのせいだと断じる響き。それが、黒川の神経を逆撫でする。


「そうと決まったわけじゃねぇ」

「えっと、じゃあ…IF仕様書の最新版をいただけますか?確認しますね♡」

「…最新版?」


彼は、鼻で笑うと、吐き捨てた。


「勝手に漁れ!ここの仕様書なんざ、化石みてぇなもんだがな!」


モニター越しの愛莉が、驚いたようにシュンと眉を下げる。

その『愛らしい』仕草も、怜悧な瞳も、今の彼には無性に腹立たしく映った。



++



解析が進み、エラーの核心が明らかになる。それは、レガシー側の特定モジュールと、クラウド連携における根本的な設計思想の齟齬に起因していた。


その原因の根深さに、会議室の空気は一層重く沈み込む。この難局をどう乗り越えるか。絶望的な沈黙の中、三人は、それぞれ腹を決めたかのように顔を上げた。


最初に口火を切ったのは、結衣だ。モニターにシステムの論理構造を示す複雑な図を表示させ、淡々と、しかし確信に満ちた声で告げる。


「問題の根本原因は、レガシーモジュール群のアーキテクチャそのものの限界にあります。恒久的な安定稼働には、該当モジュール群の再構築が最も合理的です。所要時間は、最短で約72時間。これにより、同様のトラブルの再発リスクは限りなくゼロに…」


「ええっ!72時間で、該当モジュールを全部、再構築ですか!?」

モニター越しの愛莉が目を丸くして、結衣の発言を遮った。


「芽上さんって、本当にすごいんですね!けど、デモまでもう本当に時間がありませんよ?そんな大手術、今、できるわけないですよね?」


その声は、驚きというより、『非現実的だ』と断じるように響いた。そして、一転して甘えるような、しかし有無を言わせぬ口調で続ける。


「私が開発した最新のAIデバッグ支援ツールを使いましょう♡レガシーコードの問題を自動で解析して、修正する緊急回避用のパッチコードを、ちゃちゃっと生成してくれるんです。対外的にも『AIで迅速解決!』ってアピールできて一石二鳥です!」


彼女の提案は、最新技術を駆使した、いかにもスマートで迅速な解決策に聞こえた。しかし、それは複雑怪奇なレガシーシステムに、さらにAIというブラックボックスを重ねる、危険な賭けでもあった。


「……その『ちゃちゃっと直す』ってのが、一番ヤベェんだよ」


黙って二人のやり取りを聞いていた黒川が、低い、唸るような声で口を開いた。彼の視線は、厳しくモニター越しの愛莉に向けられている。


「愛莉ちゃんよぉ。アンタの言うAIパッチってのは、聞こえはいいが、結局やってることは対症療法だろうが。根本原因…このシステムの構造的な問題を放置して、上っ面だけ取り繕ったって、どうせすぐに別の場所で、もっとデカい問題が起きるのがオチだ」


黒川の言葉には、長年このシステムの『負の連鎖』と戦ってきた、苦い経験と警告が込められていた。彼は、もはや忠告ではなく、最後通牒を叩きつけるように、語気を強めた。


「テストは中断だ。デモの範囲を縮小しろ。それが不満なら、クラウド側(そっち)のデータ流入を調整するんだな」


愛莉は、しかし動じない。可愛らしく小首を傾げ、そして、自信たっぷりに言い放った。


「大丈夫です♡ 私のAIなら、副作用の少ない最適なパッチを提案してくれますから。何かあったら、すぐに戻せばいいじゃないですか。デモの後で、ゆっくり根本対処しましょう?ねっ♡」


その、あまりにも楽観的な言葉が、黒川の中にくすぶっていた憤りの最後の引き金を引いた。彼は持っていたペンをデスクに叩きつけるように置き、低い、ドスを利かせた声で愛莉に問いかけた。


「…… すぐに『戻せる』だぁ? その根拠は何だ、愛莉ちゃんよぉ 」


黒川の声のトーンは、普段のぶっきらぼうさとは明らかに違う、冷たい怒りを含んでいた。その目には、長年このシステムの闇と向き合ってきた技術者としての譲れない一線と、愛莉の提案の危うさに対する強い憤りが宿っていた。


「気付いてねぇとは言わせねぇ。ここのシステムにゃ、まともなドキュメントも無けりゃ、まともなテストコードも存在しやしねぇんだ。……『技術的負債の集合体』。❘開発二課うちの……俺の『経験』と『記憶』でもってるだけの『泥船』だ 」


黒川の口元が皮肉気に歪められる。彼は、結衣の視線に気づくと、わずかに目を伏せた。しかし、すぐに顔を上げると、モニターに表示された複雑怪奇なコードの一部を指さし、続ける。


「問題がでているモジュール。その依存関係なんざ、もはや誰も完全に把握できちゃいねぇ。どこをどう直したら、どの機能に影響が出るか、副作用の予測なんて不可能に近い 」


彼の言葉には、現場で何度も痛い目を見てきた者だけが持つ、重い実感がこもっていた。


「そんなシステムに、AIだか何だか知らねぇブラックボックスなパッチを当てる?『何かあったら戻せる』? ……冗談じゃねぇ!本当に安全にロールバックできる保証がどこにある!?下手にいじって致命的なデグレでも起こしたら、どう責任取るつもりだ!ああ!?」


黒川の語気は、徐々に荒くなっていく。


「過去にもあったんだよ!場当たり的な修正が原因で、数ヶ月後に全く関係ないはずの基幹機能に深刻な副作用が出たことがな!その原因特定とリカバリーにどれだけ時間とコストがかかったか、アンタは知らねぇだろ!」


彼は、苦々しい記憶を吐き出すように言った。


「俺たちが、どれだけ限られた予算と人員の中で、この不安定極まりない『泥船』を騙し騙し動かしてきたか!その場しのぎの修正が、どれだけ後々の保守を地獄にしてきたか! そんな現場の実情も知らねぇで、簡単に『AIパッチでちゃちゃっと♡』だの、『戻せるから大丈夫♡』だの…。随分と簡単に、言ってくれるじゃねぇか!!」


その声は、もはや怒りというよりも、悲痛な叫びに近かった。


「最新技術を使えば何でも解決できる、なんて思ってんなら大間違いなんだよ!!このシステムにはな、アンタが考えてるよりずっと深い、根深い『闇』がある!それを理解もせずに、安易な手出しは……、絶対に、許さねぇ!! 」


黒川は、そう言い切ると、荒い息をつきながらモニター越しの愛莉を睨みつけた。その気迫は、愛莉だけでなく、その場にいた全員を沈黙させるのに十分だった。




++




開発二課のフロアに、静寂が訪れる。


誰もが、普段の黒川からは想像もできない本気の怒りに圧倒されていた。そんな中、結衣はただ一人、彼の言葉と、そこから発せられる強い感情の波を冷静に分析していた。


(黒川さんの主張は、経験に基づく論理的なリスク分析。しかし、それを駆動しているのは、強い感情的コミットメント。…人間の行動とは、論理と感情が複雑に絡み合って決定されるのですね。彼の強い『感情』は……どこから来るのでしょう)


愛莉は完全に言葉を失っていたが、わずかな沈黙の後、再び完璧な「天使」の仮面を被り直した。モニター越しにもはっきりとわかるほどに、ふっと表情を曇らせると、大きな瞳にみるみる涙を溜め、か細く、震える声で訴えかける。


『……ひ、ひどいです…黒川さん…。私、そんなつもりじゃ…うぅ…ご、ごめんなさい…!私の言い方が、悪かったです…!システムの歴史や、黒川さんたちの苦労も知らずに、軽率なことを言ってしまって…』涙声で言葉を続ける。


『でも、私、このプロジェクトを絶対に成功させたい一心で…プレッシャーで、少し、焦ってしまってて…。黒川さんの経験と知識が、私たちにとってどれだけ大切か、本当は、ちゃんと分かっているんです…。だから…お願いです…どうか、私の未熟さを許して、力を貸していただけませんか…?黒川さんが協力してくれないと、私…もう、どうしたらいいか…不安で…ひくっ』


それは、愛莉の決して長くはないデジタル・ハーモニー社のキャリアの中で、磨かれ、計算され尽くしてきた、完璧な「天使ムーブ」だった。


(うぐっ…ま、またこれかよ…!分かってる、分かってんだよ!騙されるな!…でも…もし、本当だったら…?…くそっ!なんで俺は、いつもこうなんだよ!)


黒川の内心は、再び激しい嵐に見舞われた。技術者としてのプライド、愛莉への不信感、そして目の前の『傷ついた天使』を前にした、抗いがたい衝動と罪悪感。


彼が答えを出せずに唇を噛んでいると、不意に隣から静かな声がかかった。


「黒川さん」


声の主は、結衣だった。彼女は、黒川の葛藤を見透かすように、その深い青色の瞳で真っ直ぐに彼を見つめていた。


「あなたの懸念は論理的に妥当です。短期的な対処法は、未知のリスクを孕みます」


その言葉に、黒川は少しだけ驚いたように顔を向ける。「しかし」と、結衣は続けた。


「時間がないのも事実。短期的な対処も必要悪と考えます。もし、それが予期せぬ『不調和』を引き起こした場合、その時は、私が必ず検知し、対処します。 私の解析能力は、…現在低下しているとはいえ、依然として有効です。ですから…」


彼女は、そこでわずかに言葉を切り、黒川に安心させるような、しかし感情の読めない視線を向けた。


「あなたの懸念の一部は、私が引き受けます。信じてください 」


その言葉は、黒川にとって予想外のものだった。


結衣が、自分の懸念を理解し、しかも「自分が対処する」と断言したのだ。相変わらずの人間離れした口調。だが、彼女の揺るぎない瞳には、奇妙な説得力があった。そして何より、「私が引き受ける」という言葉は、黒川の肩にかかっていた重圧を、ほんの少しだけ軽くした。


(……信じろ、か…)


黒川は、結衣の言葉を反芻する。おかしな話だ。先ほど愛莉に「根拠は何だ」と詰め寄ったばかりだというのに、こいつは何の躊躇いもなく「信じろ」などと口にする。


(聞いたって無駄だ、根拠なんざあるわけねぇ。だが………くそっ、どいつもこいつも……!……信じろって、言われたらなぁ……!)


天を仰ぎ、深い深いため息を一つ。


やがて、彼は観念したように、そして深い自嘲を浮かべ、吐き出すように言った。


「……あーもう!分かったよ!泣くな、愛莉ちゃん!俺が悪かった、言い過ぎた! …俺が!俺が何とかしてやる!協力する! だから、その涙引っ込めろ!」


その声は、先ほどの怒りが嘘のように投げやりになり、肩はがっくりと落ちていた。


目の前の涙を放置できない彼の(さが)。そして、この掴みどころのない同僚の、わけのわからない自信に、なぜか賭けてみる気になってしまった自分自身への諦め。それらが複雑に絡み合い、技術者としての『正義』よりも、ほんの少しだけ強く、彼の心を動かしたのだった。


(黒川さんの決断と、そこに至るまでの複雑な感情の揺らぎ…。私の言葉が彼の『リスク許容度』に僅かにでも影響を与えたのは確かでしょう。その力が『信頼』という名のアルゴリズム ー人間が互いの間に築く、どこか温かい相互作用ー その一端なのかもしれません)


論理だけでは説明できない人間の心の動き。その一部始終を見つめる結衣の瞳には、単なる分析対象への興味を超えた、何か別の、柔らかい色が宿り始めていた。


黒川は、結衣の視線に気づくと、露骨に嫌そうに、そして少しバツが悪そうに顔をしかめた。


一方、モニターの向こうでは、愛莉が俯き、悔しそうにキュッと下唇を噛んでいた 。


最終的には黒川をコントロールし、表向きには、事態収拾の主導権を握った形になったものの、黒川の予想外の激しい抵抗と、何より芽上結衣の底知れない介入――あの、全てを見透かすような静かな瞳と、こちらの計算を狂わせる不可解な言動。それらは、愛莉の完璧な計画に微細な亀裂を入れた。


(…なんなのよ、あの女…!私の完璧なAI戦略が、こんな形で狂わされるなんて…絶対に許さない!それに、黒川のあの妙な抵抗…!ただのレガシーエンジニアじゃなかったっていうの…?計算外だわ!)


しかし、愛莉はすぐに切り替え、ゆっくりと顔を上げた。目元を軽く押さえた指を震わせ、健気さを演出することも忘れない。


『……あ、ありがとうございます…!あの、泣いちゃってごめんなさい…!でも、手伝ってくださるって信じてました!一緒に、頑張りましょうねっ♡』


その潤んだ瞳の奥では、結衣という予測不能な存在への警戒心と、この状況をどう利用し、最終的に自分の利益に繋げるかという新たな計算が、既に高速で始まっていた。


(…いいわ。芽上結衣、あなたのその得体の知れない力、徹底的に利用させてもらう。黒川も、まだ使い道がある。このプロジェクトの成功は、絶対に私の手で掴み取る…!そのためなら、どんな手段だって…!)


彼女の胸の奥で、より強く、より冷徹な野心の炎が静かに燃え上がろうとしていた。それは、彼女の本質を感じさせる、危険な輝きだった。



++



「と、とにかく…!今は動かすことが最優先だ!みんな、頼む!」


結局、佐々木の悲鳴に近い指示が、三人を無理やり一つのチームとして機能させた。


―― 黒川が、経験と勘で、迫りくるエラーの洪水を堰き止める。―― 結衣が、神の如き解析力で、その洪水の源流たるボトルネックを特定する。―― 愛莉が、その解析結果を元に、超高速でAI駆動の緊急パッチを開発、適用する。


三人の、全く噛み合わない、しかし奇跡的な連携によって、システムはかろうじて小康状態を取り戻した。


夜が白み始める頃、システムは安定を取り戻し、フロアには疲労と安堵、そして根本問題が解決していないことへの重い緊張感が漂っていた。


「ふぅ、なんとか一段落、ですかねぇ?」

「へっ、なんとかしてやるって言っただろ。俺にかかればこんなもんだ」

「一時的な対処に過ぎません。根本原因は依然として潜伏しており、再発のリスクは極めて高い状態です」


佐々木は、疲れ果てた顔で「と、とにかく、みんな、本当にお疲れ様…!なんというか…素晴らしいチームワークだったぞ!結果的に!今日はもう休んでくれ…!」と言うのが精一杯だった。


この一日の様子を記録に取りつつ、見守っていた佐藤は、深い溜息をついた。


(三人とも、規格外なのは分かってたけど…これほどとは…)


一人一人の能力は、間違いなくデジタル・ハーモニー社でもトップクラスにだ。しかし、なんというか致命的に噛み合っていない。まるで、高性能だが互換性のないパーツ同士を無理やり繋ぎ合わせたような、危うさだ。


(それなのに…いや、だからこそ、この絶望的な危機を乗り越えられたのか…?)


自分の常識が、もはや何の役にも立たないことを悟る。できるとしたら、いつ爆発するか分からない、規格外な天才たちを見守り、緩衝材になることくらいか。


(本当に、このチーム、どうなっちゃうんだろう…でも、目が離せないのも、また事実なんだよな…)


佐藤は、苦笑いとも諦めともつかない表情で、静まり返ったフロアを見渡した。彼の気苦労は、まだまだ始まったばかりのようだった。



エンジニア魂を注ぎ込みました。感情移入しすぎて、書きながら目頭が熱く…!


ぜひIT系リーマンに読んでいただきたいです。

シラけないラインを攻めたつもりですが、ツッコミあれば聞きたいです。


そして、IT系でない方がどう思うのかも知りたいです。

雰囲気で伝わるかなーと思ってるのですが、取っつきにくかったでしょうか…?


今回のシステムトラブルの状況を図解してみました。

ご興味があれば、こちらもどうぞ!

https://x.com/Endi_neer/status/1921579082594074865/photo/1


皆さまからの温かい感想、厳しいツッコミ、どちらも大歓迎です!お待ちしております!

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