25. 幕間:女神、法令順守(コンプライアンス)の壁に散る
先日の、あの衝撃的な“無許可感情パラメータ測定事件”から数日。
開発二課には、国プロ始動の緊張感とはまた別の、なんとも言えないピリピリとした空気が漂っていた。原因は、もちろん一人。我らが女神、芽上結衣その人である。
そして、その最大の被害者であり、今や彼女の『重要観測対象』の栄誉(?)を賜った黒川徹は、ついに我慢の限界を超えた。
出社するなり、鬼のような形相で課長の佐々木のデスクに詰め寄った黒川は、周囲の目も憚らず、声を震わせながら訴え始めた。
「か、課長!もう我慢できません!芽上のやつ、どうにかしてくださいよ!」
その声は、怒りというより、もはや魂の叫びに近かった。
佐々木は、山積みの書類から顔を上げ、げっそりとした表情で黒川を見上げた。
(…またか。今度は何だ…?)
その顔を見ただけで、既に彼の胃はシクシクと警鐘を鳴らし始めている。
「どうした、黒川。まあ、落ち着いて話したまえ。…芽上くんが、また何か?」
佐々木は、努めて冷静に、しかし内心では(頼むからこれ以上面倒事を増やさないでくれ!)と祈りながら促した。
「落ち着いてなんかいられませんよ!あいつ、俺がこの前『二度と俺の感情を勝手に測るな!』って言ったのに、全然分かってないんですよ!」
黒川は、忌々しげに自分の腕に残る(気がする)計測器の感触を擦る。
「今朝だって、俺が愛莉ちゃんに挨拶されて、ちょっとドキッとした瞬間詰め寄ってきて、『黒川さん、現在の心拍数の上昇は、森田愛莉さんへの継続的な好意を示すものでしょうか、あるいは挨拶という社会的インタラクションに対する単純な生理的反応でしょうか?比較データが必要です』とか、言ってきやがったんですよ!しかもご丁寧に、俺のデスクに『感情パラメータ変動記録用紙(No.0001 黒川徹様)』とかいう気色悪いモンまで置いていきやがって!」
黒川は、証拠だとばかりに、くしゃくしゃになった謎の記録用紙を佐々木のデスクに叩きつけた。そこには、確かに黒川の行動と、それに対する結衣のズレた分析が几帳面に記録されている。
(うわぁ…これはまた……!…徹底的にやってるな、芽上くん…)
佐々木は、その記録用紙を見て、遠い目になった。黒川は、さらにヒートアップする。
「それだけじゃねぇんですよ!俺だけじゃなくて、最近フロアの何人かが、『芽上さんに、最近の悩み事について詳細なヒアリングをされた』とか、『なんかやたらと体調を気遣われたと思ったら、その時のストレス値を記録されてた』とか言ってて…みんな気味悪がってるんですよ!特に、愛莉ちゃんにちょっと気がある連中なんか、芽上さんに『あなたの森田愛莉さんへの恋愛感情は現在ステージ2です』とか、真顔で診断されたとかで、もう人間不信になりかけてますよ!」
(なんだその恋愛ステージ診断!?ていうか、黒川だけじゃなく、若手社員にまで…!?)
佐々木は、もはや言葉を発する気力も失せ、こめかみを押さえた。芽上結衣という存在は、本当にこちらの常識と想像の斜め上を行く。
「このままじゃ、開発二課の風紀が乱れんですよ!いや、もうとっくに乱れまくってる!課長、管理職として、ビシッと言ってやってくださいよ!アイツのあの暴走、止めてください!」
黒川は、最後には懇願するように佐々木に訴えかけた。その目には、切実な色と、少しのトラウマが宿っている。
佐々木は、大きく、そして深いため息をついた。
(はぁ……黒川の言うことには一理、いや、二理も三理もある。というか、全面的に正しい。芽上くんのあの行動は、いくらなんでもやりすぎだ。管理職として、いや、一人の人間として、これは看過できん。…よし!)
佐々木は、チラリと、机の隅の愛読書 ――『限界突破!アツイ組織を作るリーダーの心得』に目をやり、ついに重い腰を上げる決意を固めた。
「…わかった、黒川。君の言い分はよくわかった。そして、他の社員からも同様の声が上がっているのであれば、これは開発二課全体の問題として対処する必要があるだろう。…よし、私が芽上くんに、きちんと話をしよう!」
その言葉に、黒川の表情がわずかに期待で輝いた。
「ほ、本当ですか、課長!」
「ああ。ただし」
佐々木は、釘を刺すように言った。
「芽上くんに我々の常識がどこまで通じるかは、正直、未知数だがな…」
その言葉に、黒川の顔が再び曇ったのは言うまでもなかった。
++
昼休みを終え、重い足取りで自席に戻った佐々木は、内線で芽上結衣を小会議室へと呼び出した。彼の顔には「管理職としての断固たる決意」と「できれば関わりたくない本音」が複雑に入り混じっている。
「芽上くん、ちょっと話があるんだが」
会議室に入るなり、佐々木は努めて威厳のある声で切り出した。
対する結衣は、いつも通りの無表情で
「はい、佐々木課長。どのようなご用件でしょうか」と、小首を傾げる。
その純粋な瞳が、逆に佐々木のプレッシャーを増幅させた。
「う、うむ。単刀直入に聞くが、芽上くん。最近の君の…その、他の社員の感情パラメータの収集・分析活動についてなんだが…」
佐々木は、まず一般的な業務規律から攻めることにした。
「勤務時間中に、会社の業務とは直接関係のない個人的な研究に没頭するのは、社会人として、また組織の一員としていかがなものかと思うのだが… 」
すると結衣は、ほんのわずかに眉を寄せ、しかし淀みなく答えた。
「佐々木課長、ご指摘ありがとうございます。しかし、私のこの『人間感情アルゴリズム解析』は、単なる個人的な研究ではございません。 以前、具体的には、20〷年Y月ZZ日の15時32分頃、この会議室にて、課長ご自身も私の研究に対し『我が社の次世代ヒューマン・セントリック・コンピューティングや深層感情AIモデルの開発にも、計り知れないブレイクスルーをもたらすに違いない!無限の可能性を秘めている!まさに我が社の至宝だ!』と、デジタル・ハーモニー社への貢献の可能性を高く評価してくださったではありませんか」
「うぐっっ!!」
佐々木は、自分の過去の発言を、しかも日時まで正確に完璧に再現され、強烈なブーメランが鳩尾に突き刺さったような衝撃を受けた。
(お、覚えてたのかそんなことまで!?…いや、しかし、ここで怯んでは管理職失格だ!)
彼は咳払いを一つし、気を取り直して本題に入る。
「そ、それは確かにそう言ったかもしれんが…!いや、言った、言ったとも!だがな、芽上くん!その研究がどれほど有益であろうと、進め方には問題があると言わざるを得ない!対象となる社員の同意なく個人データを収集・分析するのは、やはり我が社のコンプライアンス規定に抵触する恐れが極めて高いんだ!それに、プライバシーの権利という、社会の基本的なルールもある!」
佐々木は、今度こそ正論で畳みかける。額には脂汗が滲んでいた。
結衣は、佐々木の必死の説明を真剣な表情で聞いていたが、やがてポンと手を打ったような顔をして言った。
「理解しました。コンプライアンス規定及びプライバシー権の重要性には同意いたします。私のデータ収集プロセスには、『対象者の明確な同意取得』というクリティカルスキームが欠落していますね。それは重大な不備です。ご指摘、感謝いたします」
(お、おおっ!?思ったより簡単に、話が通じた…!?さすが俺…!)
佐々木は、暗闇に一条の光が見えたような気持ちになった。しかし、結衣は続けた。
「今後の研究活動においては、被験者…いえ、観測協力対象者からの適切なインフォームドコンセントの取得を徹底し、倫理規定を遵守した上で、より質の高い、再現性のあるデータ収集を目指し、デジタル・ハーモニー社の発展に貢献いたします。さすがは佐々木課長です。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
彼女は、美しいお辞儀と共に、なぜか非常に前向きな決意表明をした。
佐々木は、その清々しい、しかし全くこちらの意図を汲んでいない返答に、眩暈を覚えた。
(…いや、そうじゃなくて、できればもうその研究自体をだな…いや、でも『同意があれば』コンプライアンス的にはギリギリセーフなのか…?『適切なインフォームドコンセント』とは…?あぁ、胃が…胃が痛い…!)
彼は、もはや反論する気力も失せ、ただただ「…う、うん。まあ、その…ほどほどに頼むよ…」と、力なく頷くことしかできなかった。
++
―― 面談の翌日。『佐々木課長の合意』を得たと解釈した結衣は、早速、行動を開始した。
彼女が手にしていたのは、昨晩、作成したという『感情パラメータ観測及び人間アルゴリズム解析への協力に関する同意書(Ver.1.0)』だ。
表紙には、デジタル・ハーモニー社のロゴと「極秘」のスタンプが押され、法的文書と研究の趣旨ー宇宙物理学の論文とSF小説が融合したかのような壮大かつ理解不能な全32ページにわたる怪文書―が添えられた非常にボリューミーな代物だった。
そして、その記念すべき最初の『合法的被験者候補』として白羽の矢が立ったのは――言うまでもなく、黒川徹であった。
結衣は、朝一番、真剣な眼差しで黒川のデスクにその分厚い同意書を差し出した。
「黒川さん、おはようございます。昨日の佐々木課長からのご指導に基づき、本日はあなたに、私の研究への正式なご協力をお願いしたく参りました。こちらの同意書にご署名いただければ、私たちは晴れて、合法かつ倫理的なパートナーです。あなたの貴重な感情データの価値を最大化するとお約束します。共に人類の叡智の発展に貢献しましょう!」
その瞳は、純粋な探究心と、なぜか黒川への絶対的な信頼に満ち溢れていた。
黒川は、目の前に突き出された怪文書と、結衣のキラキラした視線を交互に見比べ、数秒間完全にフリーズした後、全身全霊で叫んだ。
(読めるかこんなもん!!そして誰がサインなんかするかぁああ!!!)
「断る!断固として断る!お前はもう金輪際、俺に近づくな!半径10メートル以内に立ち入るなぁああああ!!」
彼は、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がると、脱兎のごとく開発二課のフロアから逃走した。その背中には、もはや女神への恐怖と、生理的な拒絶反応が刻み込まれているようだった。
結衣は、黒川の去っていった方向を残念そうに見つめながら、小さなため息をついた。
「これは…黒川さんの『協力拒否』の意志は、極めて強固なようですね。同意取得プロセスの難易度が、私の想定を大幅に上回っています。彼のアルゴリズムは、やはり一筋縄ではいきません…」
その後、結衣はめげることなく、佐藤をはじめとする他の開発二課メンバーにも、その怪文書(同意書)を手に協力を依頼して回った。
しかし、黒川の阿鼻叫喚の逃走劇を目の当たりにした彼らが、素直に「はい、喜んで!」とサインするはずもなく、ありとあらゆる言い訳を駆使して、結衣の魔の手を全力で回避した。
結果として、結衣の『合法的』かつ『倫理的』なデータ収集活動は、協力者が一人も現れないという、当然の帰結により、開始からわずか半日で頓挫に至った。
こうして、芽上結衣の『恋バグ検証』は、表向き一時凍結されたのだった。
佐々木は心底安堵し、この平和が続くことを祈った。
黒川も、結衣からの直接的な『測定』の脅威が去り、比較的穏やかに仕事に取り組むことができた。だが、時折感じる彼女の熱心な視線には、言い知れぬ不安が付きまとうのであった。
一方、結衣は業務に没頭するフリをしつつ、水面下では『人間感情シミュレーションモデル』の設計を続け、黒川を観察し、次なる研究の機会を虎視眈々と狙いつづけている。
彼女の探究心は完全に止まったわけではない。今のこの平穏が、かりそめの平和に過ぎないことを、開発二課の面々はまだ知らなかった。
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