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調和の女神はデバッグがお好き  作者: 円地仁愛
第2章:神の御業と人の技
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17. 天使のおまじないと守護者の呪文

あの『伝説のタレ(つぼ)』を攻略した会議から数日後。


黒川の思わぬファインプレーによって、プロジェクトの難所を乗り越えた開発二課。そこには、以前より少しだけ前向きな空気が流れていた。


結衣と黒川の間にも、最低限の連携が成立しつつあり、チームは再び開発作業へと集中し始めている。


特に変化が見られたのは、黒川だ。彼の長年の経験知がプロジェクトの窮地を救ったこと、そしてあの芽上結衣に『不可欠な存在』と言わしめたことは、彼の凍てついていたエンジニアとしての矜持を、じんわりと溶かし始めていた。


結衣に対する態度は相変わらずぶっきらぼうだったが、以前のようなあからさまな敵意は薄れ、最低限のコミュニケーションくらいは、行うようになっていた。


(黒川さん、少し丸くなったかな…このまま平和が続けばいいけど…)


佐藤健太は、そんな二人の微妙な距離感を、壊れ物を扱うように見守っていた。だが、その脆い均衡を、快く思わない人物がいた。


「黒川さーん!」


昼休み明け、自席でモニターを眺めていた黒川に、鈴を転がすような声がかかった。森田愛莉だ。彼女は、可愛らしいマグカップを手に、黒川のデスクにやってきた。


「この前の会議、黒川さんの知識、本当にすごかったです! 開発二課だけじゃなくて、ウチの部でも、『さすが黒川さんだね!』ってみんな言ってましたよ!」


キラキラした瞳で、最大級の賛辞を送る。黒川は、まんざらでもない様子で「いや、まあ、あれくらいはな…」と照れ隠しに頭を掻いた。


「でもぉ…」


愛莉は、ふと声を潜め、心配そうな表情になった。


「ちょっと気になったんですけどぉ、芽上さん…黒川さんのあのすごいアイデアを、なんか、『古臭い』とか、『大したことない』とか言ってるって、聞いちゃったんですよね…あ、給湯室で聞こえただけで、誰が言ってたかとか、わかんないんですけどぉ…」


もちろん、そんな事実はない。愛莉の出まかせだった。


「……なんだと? 本当か、愛莉ちゃん」


黒川は、ピクリと眉をあげた。結衣に対する根深いコンプレックスは、そう簡単には消えない。愛莉の言葉に、一度は収まりかけた結衣への不信感が、再びむくむくと頭をもたげてくる。愛莉は、黒川の問いには答えず、困ったような顔で首を傾げた。


「私、思うんですけど……芽上さんって、完璧すぎて、ちょっと人間味がないっていうか…近寄りがたい感じしません? やっぱり、黒川さんみたいに、経験豊富で、お仕事に熱意をもつ方がリーダーシップ取らないと、チームって上手くいかないと思うんですよね」


愛莉は、黒川の自尊心をくすぐりながら、巧みに結衣へのネガティブキャンペーンを展開する。


「だからぁ、たまには、あの完璧な女神さまにも、人間らしい『うっかり』とかさせてあげた方が、良いのかもですよ?」


黒川の視線を感じながら、愛莉は、コーラルオレンジに彩られた唇に、そっと人差し指をあて、困ったように眉を下げてみせた。


「…だって、あの人、失敗なんてしたことなさそうじゃないですか。でも、私、ちょっとしたミスって、かえってチームの潤滑剤になると思うんです」


愛莉は、悪戯っぽく微笑むと、ふわりとスカートを翻した。黒川が座る椅子の後ろに回り込むと、その背もたれにそっと指先をかけ、身をかがめる。どこか甘い、花のような香りが黒川の鼻先を掠めた。


「例えばですけど…。大事な設定ファイルに、ほんのちょーっとだけ、昔のシステムで使ってた『おまじない』みたいなコードが混じっちゃう、とか。そういうの、 今の若い子には、絶対分からないでしょう?」


吐息が混じるような、艶を帯びた囁き声が、黒川の鼓膜を震わせる。ピクリ、と彼の肩が揺れるのを確認すると、愛莉はパッと顔を離した。


ぼんやりと自分を見つめる黒川に、愛莉は、いつもの天使のような微笑を向けると、小さくウインクした。


「 ……なーんて。うふふ、冗談ですよ♡」


それは、紛れもない悪魔の囁きだった。だが、黒川は、その提案に乗ることを選んだ。


「…ああ。愛莉ちゃんの言う通りかもしれねえな。 あの『女神サマ』には、少し、人間の厳しさってもんを教えてやる必要がある」


一度は、結衣を見直しかけていた彼の気持ちは、愛莉への好意と、再び燃え上がった対抗心の前に、もろくも崩れ去っていた。愚かにも、黒川は、愛莉の口車に乗り、嫌がらせをする決意を固めてしまったのだった。


その日の午後。黒川は周囲の目を盗み、結衣が使う重要設定ファイルをローカルにコピーした。そして、間髪入れず、バイナリエディタを起動する。


( あの女、バカにしやがって…。『古臭い』の何が悪い。この“古の呪文”、解けるもんなら解いてみやがれ!)


指先が、慣れた様子でキーを叩く。ファイルの深層、数バイトの領域に、メインフレーム時代から伝わる特殊な制御コード――検出不能の「時限爆弾」を、密かに、しかし確実に埋め込んでいく。ファイルを元の場所に戻すと、黒川は何食わぬ顔で自席のモニターに向き直った。


(これを使ったが最後、謎のエラーに苦しむはずだ。原因究明に手間取る姿が目に浮かぶぜ…!)


しかし、数時間後。結衣は何事もなかったかのように、淡々と設計作業を進めていた。(なんだ…?不発か?)黒川が不審に思い、遠巻きに様子を窺っていると、彼女が佐藤に話しかけているのが聞こえた。


「佐藤さん、先ほど使用した設定ファイルに、レガシーシステム由来と推定される、非標準の制御コードシーケンスが混入していました。原因に心当たりはありますか? データ破損の可能性も考慮し、ファイルのバイナリレベルでの整合性チェックを行い、異常シーケンスは除去済みです。念のため、関連ファイルのアクセス監査ログも強化します」


「えっ!? ば、バイナリレベルで…!? それって、もしかして…い、いや、俺は何も…」


佐藤は、黒川の方をチラリと見ながら、冷や汗をかいていた。


(…なっ!? バイナリまで見たのか!? しかも、あの制御コードを『非標準シーケンス』だと…!?この短い時間で看破して、除去までしたっていうのか…!?)


黒川は、自分の仕掛けた巧妙な罠が、いとも簡単に見抜かれ、無力化されたことに愕然とした。それはもはや、デバッグというレベルを遥かに超えている。システムの内部そのものを直接覗き見たかのような神業だった。彼の背筋を、得体のしれない恐怖が走り抜けた。


(くそっ…! やっぱり、あの女…ただもんじゃねえ…! いや、人間じゃねえかもしれねえ…!)


彼は、自分のデスクに戻ると、やり場のない怒りと無力感に打ちのめされた。結衣の鼻を明かしつつ、愛莉に良いところを見せるはずが、格の違い…超えられない壁を見せつけられた気分だった。


そのとき、タイミングを見透かしたかのようにピコンとチャットがなった。


『黒川さん♡ 調子はいかがですか?』


『…芳しくねぇな。悪ぃ、失敗したかもしんねえ』天使からの返信は、間髪入れずに届いた。


『そうなんですね…。でも、大丈夫です!黒川さんの方が、ずっと、ずぅっとスゴイんだってこと、私は知ってますから! 次はきっと上手くいきますよ♡』


そのメッセージに、目を通すと、黒川は再び息を付いた。


(……そうだな。いつまでも、あの女に後れを取るわけにはいかねぇ。愛莉ちゃんも信じてくれてる…)


黒川は、結衣への複雑な感情と、愛莉への恋心、そして自身のコンプレックスとの間で、不安定に揺れ動き始めていた。


開発二課という名のシステムに静かに広がり始めた不協和音。それは、これから訪れるであろう、より大きな混乱と衝突の、ほんの序章に過ぎなかった。



天使の策略によって、だんだん展開も重苦しく。

次はコメディ回です!



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