16. 天使のコンピテンシー
横浜、デジタル・ハーモニー社本社ビル。
その中でも、ひときわモダンで洗練された空気が漂うフロア――それが、クラウド推進部だ。固定席のない開放的な空間では、社員たちが思い思いの場所でノートPCを広げている。
窓際のカウンター席で外を眺める者、中央のコラボレーションハブで議論を交わす者、そして一人用の集中ブースに籠もる者。
壁には抽象的なアートが飾られ、コーヒーサーバーからは常に挽きたての豆の香りが漂う。
そこで働くエンジニアたちもまた、どこかスマートで、自信に満ちているように見えた。彼らが扱うのは、会社の未来を担う最新技術。コンテナオーケストレーション、サーバーレスアーキテクチャ、AIモデルの最適化…。開発二課が扱うような、古くさいレガシーシステムとは別次元の世界が、ここにはあった。
森田愛莉は、そんな先進的な環境の中で、今日も完璧な『天使』としての役割を演じていた。彼女の周りには、いつも男性社員が絶えない。
その日、フロアの一角にあるミーティングスペースで、古井部長がチームリーダーを集め、新たなプロジェクトの概要を発表していた。それは、社内の様々なデータを統合・解析し、経営判断を支援するための、最新のAIプラットフォーム構築プロジェクトだった。技術的にも難易度が高く、会社の未来を左右する可能性のある、花形中の花形プロジェクトだ。説明を聞きながら、愛莉の胸は高鳴っていた。
(これよ…! これこそ、私がやるべき仕事!)
「…というわけで、このプロジェクトには、我が部の総力を挙げて取り組みたい。特にAIのコア部分に関しては、高い技術力と発想力が求められることになるだろう。そこで…」
古井部長がメンバーのアサインについて話し始めようとした瞬間、愛莉は誰よりも早く、パッと手を挙げた。
「はいっ! 部長! 私、そのAIプロジェクト、すごく興味あります! ぜひ、やらせていただけませんか!?」
満面の笑顔と、やる気に満ちた声。周囲の社員たちも(おお、愛莉ちゃん、積極的だな)という温かい視線を送る。
しかし、古井部長の反応は、愛莉の期待とは異なるものだった。彼は、少し困ったような、それでいて有無を言わせぬ口調で言った。
「ああ、森田くんか。意欲は買うが…君には今、重要な任務があるだろう? そう、開発二課とのレガシーシステム刷新プロジェクトの調整役だ。あちらとの連携は、我が部にとっても無視できない課題だからね。まずは、そちらに専念してくれたまえ」
(調整役…? レガシーの…?)
愛莉の笑顔が、一瞬だけ凍り付いた。まただ。また、こういう扱い。新しい、面白そうな、評価に繋がる仕事は、いつも男性社員に回され、自分には『調整役』だの『サポート』だの、そういう役割ばかりが与えられる。
「で、でも、部長! そのプロジェクト、すごく勉強になると思うんです! 少しだけでもいいので、お手伝いさせていただけませんか? レガシーの調整と両立させますから!」
愛莉は、内心の怒りを必死で抑え込み、あくまで健気に、可愛らしく食い下がった。ここで感情的になれば、『やはり女は感情的だ』と言われるだけだと分かっているからだ。
その時、近くで話を聞いていた高橋が、助け舟を出すように口を開いた。
「まあまあ、部長。愛莉ちゃんも意欲があるようですし。…そうだ、愛莉ちゃん。いきなりコア部分というのは難しいかもしれないけど、僕の方で進めている関連技術の調査がいくつかあるんだ。まずは、それを手伝ってみるかい? それなら、レガシーの調整と並行してもできるだろうし、勉強にもなると思うよ」
(…調査の、手伝い…?)
愛莉は、高橋の言葉に内心で舌打ちした。それは、遠回しに『君にはまだ早い』『お守りが必要だ』と言われているのと同じだ。彼の真意は読めない。だが、ここで断れば、やる気がないと思われるだけだ。
「…はいっ! ありがとうございます、高橋さん! ぜひ、やらせてください! 全力で頑張ります!」
愛莉は、再び完璧な笑顔を作り、深々とお辞儀をした。
そのやり取りを見ていた周囲の同僚たちが、近くでひそひそと話しているのが聞こえてきた。
「愛莉ちゃん、すごいねー、AIやりたいなんて」
「まあ、可愛いけど、さすがにAIのコアは無理でしょ」
「だよなー。高橋さんも大変だな、お守り役押し付けられて」
「でも、ああやって可愛くお願いされたら、男は断れないよなー(笑)」
(…………)
愛莉は、聞こえないフリをして、にこやかに席を立った。
込み上げてくる怒りを、笑顔の仮面の下に必死で押し込める。
(無理? 可愛いだけ? …あなたたちみたいな、凡庸な男たちに、私の何が分かるっていうの…!)
愛莉は、深呼吸をして感情をリセットすると、すぐさま行動を開始した。正規のルートでは得られない情報を得るために。
フロアの奥まったところにある集中ブース席。
彼女は、背後に誰もいないことを確認すると、自作のネットワーク監視ツールを起動した。別のコンソールを立ち上げ、ログを開くと意味をなさない文字列が、画面を滝のように流れ始めた。
すかさず、彼女の指が、まるで生き物のようにキーボード上を踊る。あるファイルのパスがツールに入力され、途端に、その文字の濁流が平文へと姿を変えた。
彼女が入力したのは、高橋のPCに保存されていた認証キーだった。数週間前に高橋のPCメンテナンスを手伝った際に、こっそり入手しておいたのだ。
(トークンキーを抜かれているとも知らないで、気安く管理者権限をくれるんだから。…まあ、知ってたとしても、この膨大な通信ログから目的のデータを抜き出そうなんて、考えもしないでしょうけど)
愛莉は、皮肉気に口元を歪めると、再び、凄まじい速度でコンソールを操り、膨大なログを探索し始めた。 ターゲットは、古井部長と高橋のプライベートメッセージだ。
数分後、彼女のモニターに、目的の会話が表示された。
そこに表示されたログにざっと目を通した瞬間、愛莉の表情から血の気がスッと引いた。
古井部長: 『メンバーに森田を入れるのか? 事業部長は生意気な女が嫌いだと知っているだろう。彼女、たしか都内の国立女子大卒だったな? 下手に頭でっかちな女は、扱いにくくて面倒だ』
高橋: 『ご心配なく。彼女には、"勉強" してもらうだけですよ。いつものように、他部門との調整役とか、資料作成とか、そういうサポート業務をやってもらいます。彼女、そういう "細やかな気配りだけ" は得意ですから』
古井部長: 『お前がそう言うなら任せるが…。くれぐれも、 "女だから"と甘やかすなよ』
(………………っ!!!)
愛莉は、モニターを睨みつけ、奥歯をギリリと噛みしめた。血が滲むほどの力で。
(資料作成…? 調整役…? 使えない駒だとでも言いたいの…!? 私を、舐めないで!! )
結局これだ。
能力を見せれば『生意気だ』と叩かれ、愛嬌を振りまけば『可愛いだけ』と見下される。
この男社会の馬鹿げたルールには、もううんざりだった。
怒りと屈辱で、目の前が赤く染まっていく。
それでも、いや、だからこそ、愛莉は、より冷静に思考を巡らせた。
(私は、間違ってない。ヘタに爪を見せても潰されるだけ。チャンスを狙うべきよ。…あの女だって、きっとそう。バカな女 )
だが、さらにログを追った愛莉は、決定的な一文を発見してしまう。別の、高橋とプロジェクト関連部署のリーダーとのやり取りだ。
リーダー: 『AIコアのアルゴリズム検討チームですが、やはり芽上結衣さんにも参画をお願いしたいと考えています。彼女の解析能力は…』
高橋: 『ええ、私も同意見です。彼女なら、この難題をブレイクスルーしてくれる可能性がある』
(芽上…結衣……ですって………!?)
愛莉の中で、何かがプツリと切れた。
私を『調整役』扱いしておきながら、あの女は『ブレイクスルーを期待される』存在!? なぜ!? 何が違うっていうの!? 私の方が、この会社にずっと貢献してきたのに!
激しい嫉妬と怒りが、彼女の冷静な思考を焼き尽くしていく。
その、まさに怒りの頂点に達した瞬間、内線チャットがピコンと鳴った。相手は、開発二課の黒川からだった。
『森田さん、おつかれ。連携の件で、ちょっと相談したいんだけど、時間ある?』
(…………黒川徹)
愛莉の目に、冷たく、鋭い光が宿った。
(…そうよ。まずは、この単純な駒からね…)
彼女は、再び完璧な『天使』の仮面を被ると、キーボードを叩き始めた。
『黒川さん、お疲れ様です! もちろんです、いつでも時間作りますよ! 私で力になれることがあれば、何でも言ってくださいねっ! 全力でサポートします♡』
送信ボタンを押す。その唇には、もはや計算された天使の笑みではなく、怒りと屈辱に彩られた歪んだ笑みが浮かんでいた。
ハッカーよろしく、上司のやりとりを盗み見る愛莉。
いわゆるソーシャルエンジニアリングというやつです。
本作は『ファンタジー』ですが、不思議な力より現実味を意識してます。
社内でのやりとりには気を付けましょう!
ちなみに、エピソードタイトルの『コンピテンシー』という言葉には、単なるスキルだけでなく、彼女の行動特性や思考のクセといったものなど、複合的な意味を込めています!




