15. 伝説のタレ壷と歪(いびつ)な調和
社運を賭けたレガシーシステム刷新プロジェクトは、 その後、大きな混乱もなく、驚くほど順調な滑り出しを見せていた。
開発二課とクラウド推進部、異なる文化を持つ二つのチームが、それぞれの専門知識を持ち寄ることで、環境構築や基本的な連携部分の設計などの初期タスクが、目に見える形で次々と完了していく。
予期せぬ技術的な課題が発生しても、芽上結衣の『神業』により迅速に解決され、プロジェクトの進捗には一切の無駄がなかった。
特に注目を集めたのは、紅二点である芽上結衣と森田愛莉の存在だ。
結衣は、その並外れた高度で合理的な技術指針や設計思想で、愛莉は、ともすれば緊張しがちな部署間連携を和ませる緩衝材として、プロジェクトに欠かせないキーマンとなっていった。
そして、誰もが最も懸念していた 黒川もまた、このポジティブな波に乗っているかのようだった 。結衣への対抗心か、あるいは愛莉への下心か、彼は珍しく若手に自身の経験則を共有したり、システムに関する基礎知識を資料に起こしたりと、意外なほど協力的な姿勢を見せていた。
開発二課のフロアには、いつになく前向きな活気が満ち溢れていた。このまま行けば、案外スムーズにプロジェクトは成功してしまうのではないか――。メンバーの間にも、そんな楽観的な空気が生まれ始めていた。
しかし、その空気は、一変することになる。
これまでの課題が、来たる真の難所に比べれば、取るに足らないものであったことに、彼らは気づいていなかったのだ。
その日、プロジェクトの核心部分であり、最大の難所であるレガシーコアモジュール『X-Core』との、連携インターフェース設計に関する最初の会議が開かれた。
長年の度重なる改修、仕様変更、そして場当たり的なバグ修正の果てに、『X-Core』はもはや元の設計思想すら曖昧になった、複雑怪奇な代物と化していた。ドキュメントは古く、実態と乖離しており、どこがバグでどこが仕様なのか、判別することすら困難だ。
それは、まさに、何世代もの主人が秘伝のタレを継ぎ足し続けた結果、成分不明の暗黒物質と化した『伝説のタレ壺』のようだった。
順風満帆に見えたプロジェクトは、開始からわずか数週間で、巨大な暗礁に真正面から激突することになったのだ。
設計会議では、誰もが頭を抱えていた。
「この『タレ壺』と安全に連携するAPIなんて、どうやって作ればいいんだ…?」
「下手に接続しようとしたら、どんなアレルギー反応を起こすか…考えただけでも恐ろしい」
「ドキュメントとコードが違いすぎて、手がかりがない…」
重苦しい沈黙が会議室を支配する。そこには、技術的な壁にぶつかった者たちの絶望が充満していた。
そんな中、主担当であるはずの黒川は、と言えば、佐藤の隣の席で、スマートフォンに視線を落とし、口元を緩ませている。
(また森田さんからのメッセージか、今日は特に多いな…。って、黒川さん、今はそれどころじゃないでしょう!?ああもう、完全に、骨抜きにされちゃって…!)
「発言しても、よろしいでしょうか」
その沈黙を破ったのは、芽上結衣だった。彼女は、いつも通り冷静な表情でモニターに映る混沌としたコードを見つめていたが、その声には珍しく、わずかな逡巡の色が滲んでいるように聞こえた。
「…このモジュールについて、『人間的手法』による安全な連携インターフェースの設計、及び改修パスを発見することはできませんでした」
彼女の言葉に、一同は息をのむ。芽上結衣ですら「発見できない」というほどの難物。その事実が、この問題の途方もなさを改めて知らしめた。
「内部の依存関係は極度に複雑化し、もはや論理的な整合性を完全に放棄しています。長年の運用の中で形成された、極めて特殊で不安定な『経験則に基づく均衡』の上に、かろうじて成り立っている状態です。あらゆる連携パターンをシミュレートしましたが、そのいずれもが、致命的なデグレードや、データ破損等を誘発するリスクを内包しています。その発生確率は…72.8%。これは、許容可能な閾値を大幅に超えています」
それは『解析不能』という白旗ではない。『人間の業』によって生み出された『混沌の結晶』ともいえる複雑怪奇なシステム。それは既に『論理』を超越した異物へと昇華しており、現存しうる『人間的手法』では介入できないと、結衣は分析していた。
(…この、歪みきった構造…。最適解は、連携でも、改修でもない。このレガシーの呪縛ごと、ゼロから『再構築』することです。私の本来の力ならば、恐らくは、瞬きする間に可能でしょう)
(…ですが、それは。数十年もの間、彼らが必死に積み上げ、守り続けてきた歴史を、一瞬で無に帰す行為に等しい。それは、あまりにも無慈悲な ―― 紛れもない『神の所業』。人間としてここに在る『芽上結衣』が、踏み越えるべき一線ではない)
(…では、基幹部だけでも切り離し、段階的に…? いいえ、それですら、今の彼らの技術では非現実的な領域でしょう…)
フロアには、結衣の言葉の重みを受け止め、再び重い空気が流れる。彼女ですら「安全なパスがない」と言うほどの、まさに「触れてはならない」領域なのだ。
会議室が絶望的な空気に包まれた、その時だった。
「けっ、笑わせてくれるぜ 」
言葉とは裏腹に、心底つまらなさそうな、忌々し気な声が響いた。黒川だ。「く、黒川さん!」と佐藤がたしなめるが、黒川は悪びれもせずに、手の中のスマホを弄び続けている。
「笑わせるとは? 何か、おかしなことを申し上げたでしょうか」
黒川の挑発にも、周囲の凍り付いた空気にも、結衣は一切動じない。その表情は完璧な無表情のまま、ただ静かに彼の次の言葉を待っていた。
「黒川さん」と結衣が発言を求めると、ようやく黒川はスマホをポケットにねじ込み、皮肉気に口元を歪めながら、結衣を見据えた。
「『安全なパスがない』? それが『女神サマ』の御神託かよ。反吐が出る。……『ない』んじゃねぇ。見えてないだけだろーが」
吐き捨てるように言うと、結衣が配布した資料を無造作につかみ上げた。
何かを確認するように、目を落として、数秒。再び顔をあげると、その目は、もう目の前のいけすかない新人ではなく、モニターの中の、自身が知り尽くした『聖域』に向けられていた。
「……ここいらはなぁ。どこもかしこも、まるで地雷原みたいになってて、下手に踏み込むとドカンといく。だから、どこにも触らずに必要なものだけを掻き集めるしかない」
言うが早いか、黒川は自分の端末を操作した。普段の無骨さが嘘のように、指がキーボードの上を軽やかに滑り始める。素早くサーバーにログインすると、コンソール画面に特定のディレクトリ以下のファイルリストを表示させた。
そこには、およそ通常の運用では使われないであろう、謎めいた名前の一時ファイルが並んでいた。
「この一時ファイルは、次のバッチ処理が開始されるまでのわずか30秒間しか存在しない。タイミングを逃せば二度と手に入らない幻のデータだ。それから、こっちの 用途不明のバイナリデータ。それに、…確か、これか?…っし!これらの断片的な情報を、だ…」
黒川は、目的のファイルパスを数個、指でなぞるように確認すると、まるで彼の思考そのものを叩きつけるかのように、複雑に絡み合ったコマンドと記号で構成された文字列を打ち込んでいく。
―― たった一行の呪文。
最後に、Enterキーが押されると、モニターに『必要なデータ』が淀みなく流れ始めた。
黒川が拾ったのは、公式な入出力仕様書のどこにも記載されていない、おそらくは過去の開発者がデバッグ用に残した、そして忘れ去られた使い捨ての中間ファイル群。永続的に保存される保証もなければ、フォーマットの互換性すら怪しい代物だ。
しかし、黒川は、それらが生成される特定のタイミングを見計らい、 必要なファイルだけをピックアップし、まるでパズルのピースを組み合わせるように 、その場で必要なデータ形式へと加工してみせたのだ。
「ほらな。こうすりゃ、連携に必要な最低限の情報は取れんだろーが」
黒川は、ざっとデータを確認しながら満足そうに頷いた後、結衣が観察するような視線で自分を見つめているのに気づいた。
途端に不機嫌そうに顔を歪め、ふん、とふてぶてしく椅子にもたれて、モニターを顎でしゃくりあげる。
「……それで完成だ。まあ、いつまでこの手が使えるかは保証できねぇがな。『再構築』なんて『色眼鏡』かけてたら、見えるモンも見えやしねぇってこった、覚えとけ」
それは、最新技術とは程遠い、極めて泥臭く、場当たり的で、リスクの高い方法だった。だが、この「魔窟」のようなレガシーシステムを知り尽くし、その癖を読み切り、 不安定な要素の中から必要なものを正確に、かつ安全に(?)抽出し、組み合わせる ――まさに長年の経験と勘だけが成せる「 職人技 」と呼ぶべきものだった。
「……はい。理解…いいえ、認識しました」
結衣は、黒川の一連の操作とその結果を、驚きと共に、そして極めて高い関心を持って分析していた。彼女にとって、それは自身の解析モデルに存在しない、全く新しいアルゴリズムの発現だった。
( システムの『残骸』や『歪み』を、ノイズとして除去するのではなく、『素材』として認識し、それを組み合わせ、新たな『価値』をもたらす…。なんと危険で、場当たり的な手法なのでしょう…。ですが…これは、ある意味で、極めて高度な、未知の『調和』の形を示している…!)
非論理的で、非効率で、不安定なやり方だ。しかし、それは現実の問題に対する、一つの確かな「解」でもあった。完璧さとは無縁で、目を覆いたくなるほど危ういリスクをはらんでいる。
(… 神の力による完璧な『再構築』と、人の手による『歪な調和の形』。『芽上結衣』が選択できるのは、今、目の前にある、人間が生み出した『現実解』以外にはない…)
結衣は、もう一度、黒川をみつめ、それから、モニターに視線を戻した。隅々まで精査するようにデータに目を通す。
『人間の持つ不完全さ』が生み出した『知恵の結晶』ともいうべきもの。そして、それは、逞しい『生命力』で満ち溢れ、無視できないほどに美しい輝きを放っている。その力の持つ熱量に、その光が放つ眩さに、彼女は目を奪われていた。結衣は、静かに結論を出した。
「そのアプローチは、多くのリスクと制約を内包しますが、現時点での実行可能性と影響範囲を考慮した場合、最も現実的な選択肢と判断します。黒川さん。あなたの、このシステムに対する深い経験知は、本プロジェクトの成功に不可欠です」
それは、結衣からの、紛れもない称賛の言葉だった。
「へぇ…!」
佐藤や他のメンバーは、結衣が黒川の「裏技」的なアプローチを認めたことに、純粋に驚いていた。「黒川さん、すげえ…」「そんな方法があったとは…」「もはや生きる伝説だな…」という声が、あちこちから上がる。芽上さんが認めたのだ。これは本物だ、と。
「ふ、ふん… まあな」黒川は、照れ隠しのように悪態をついた。
「理想論だけじゃ、現場は回らねえんだよ。おまえも、少しは現実ってもんを見るんだな」憎まれ口を叩きながらも、その声には隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
あの『女神』に、自分の仕事が、自分のやり方が認められた。それは、彼のエンジニアとしての矜持を、久しぶりに温かく満たすものだった。
(……二人の関係も、少しは改善されたみたいだ。まあ、結果オーライ…かな?)
佐藤は、二人の様子をみて小さく安堵の息を漏らした。しかし、その直後、黒川の尻ポケットから、ピコンという通知音が鳴ったのに気づいて、複雑な気分になる。
(また、森田さんか…!会議中にスマホはマズイですよ、黒川さん!………でも、何だかんだいっても、うちの会社を支えてきたっていうのも本当なんだよな…)
尊敬と呆れが入り混じった、そんな気持ちだった。
会議が終わり、席を立とうとした黒川の視線が、結衣のそれと絡み合った。
黒川は一瞬だけ逡巡した後、すぐに、ふいと目を逸らして退出していった。結衣は興味深そうに、あるいは少し眩しそうに、彼の背中を見つめていた。
(…不完全さの中に宿る、歪で、美しい『調和』…)
彼女の口元に、初めて見るような、慈しみに満ちた柔らかな微笑みが浮かんだ。
それは、彼女の信じる宇宙が、ほんの少しだけ、色鮮やかに広がった瞬間だった。
やっと黒川の見せ場を書くことができて満足です。
レガシーシステムあるあるをエピソードに盛り込んでみました。




