10. 幕間:聖域の守護者、天使との邂逅
開発二課の守護者(自称)こと、黒川徹は、自席で深く、深ーく、ため息をついた。
佐々木課長との、あれは面談だったのか? いや、途中までは確かに、涙が出るほど心に響くカウンセリングだったはずだ。
だが、後半は完全に「レガシーシステム刷新プロジェクトの意義と輝かしい未来(ただし、俺の聖域は更地になる)」についての熱弁に終始し、挙げ句の果てには俺を主担当に任命ときた。一度は浮上しかけたメンタルは、再びマリアナ海溝の底だった。
あの女神――芽上結衣が作った計画書を、なぜ俺が主担当として進めねばならならないのか。しかも、サポートにあの女神がつくとか、悪夢でしかない。
(分かってねぇ…課長も、周りの奴らも、全然分かってねぇんだ…! あの女のヤバさを…! 俺がどれだけ…!)
ぶつぶつと恨み言を呟きながら、モニターに映る自分のコード(長年継ぎ足してきた秘伝のタレのような代物だ)を睨みつける。だが、もはやそれに集中する気力も湧いてこなかった。
「おーい、黒川!」
背後から、能天気な声がかかる。振り向きたくもないが、声の主は佐々木課長だ。
「例の件、クラウド推進部との最初の打ち合わせ、今日の午後イチで頼むぞ! もうアポ取ってあるからな!」
「はぁ!? 今日っすか!? 無理ですよ、心の準備が…」
「いいから行け! これは、君の輝かしい未来への第一歩だ!」
有無を言わせぬ口調で、佐々木は黒川の肩をバンバンと叩き、去っていった。
(輝かしい未来、ねぇ…)
黒川は、舌打ちしたい気分をぐっとこらえた。クラウド推進部。あの、意識高い系の巣窟。現場の泥臭さも知らず、横文字ばかり並べて悦に入ってる連中だ。どうせ、また面倒な要求を山ほど押し付けてくるに決まっている。
重い、鉛を引きずるような足取りで、黒川は開発二課のフロアを出た。目指すは、別棟にあるクラウド推進部のオフィス。無駄にガラス張りで、やたらと観葉植物が置かれた、いけ好かない空間だ。
エレベーターを降り、目的のフロアに着く。約束の時間まで、まだ10分ほどある。入り口前の、これまた無駄にオシャレなソファに腰掛ける気にもなれず、壁にもたれて時間を潰す。
(あーあ、なんで俺がこんな目に…あの女神さえいなければ…いや、そもそも、あんな奴を採用した人事部が…)
思考は、どんどんネガティブな方向へ沈んでいく。いっそ、このまま体調不良ということにして帰ってしまおうか。そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
「あのー…もしかして、開発二課の黒川さん、ですか?」
ふわり、と。
まるで、汚れた空気ごと浄化するような、甘く柔らかな声がした。
顔を上げると、そこにいたのは――天使だった。
いや、違う。落ち着け俺。天使なわけがない。だが、黒川の目には、そうとしか思えなかった。
小柄で、華奢な体つき。大きな、潤んだ瞳がきょとんとこちらを見上げている。流行りのゆるふわな髪が、肩のあたりで愛らしく揺れていた。服装も、パステルカラーのカーディガンに、ふんわりとしたスカート。そこかしこにあしらわれた小さなフリルやリボンが、彼女の可憐さを完璧に演出している。開発二課には決して生息しない、輝く生命体。
(な、なんだ…この可愛い生き物は…!?)
黒川は、三十数年の人生で培ってきたはずの語彙力を一瞬で失い、ただただ見惚れていた。彼のシステムクラッシュ寸前だった心に、一筋の光が差し込んだような錯覚を覚えた。
「あ、はい、そうですけど…」
かろうじて、しどろもどろに返事をする。
「よかった! 私、クラウド推進部の森田愛莉っていいます!」
彼女は、ぺこり、と小さな頭を下げた。その仕草の、なんと愛らしいことか。
「今日の打ち合わせ、私が担当させていただくことになってて。よろしくお願いします!」
にぱーっと効果音がつきそうなほどの、満面の笑顔。黒川の荒みきった心に、温かな光が差し込むようだった。まるで、汚れたレジスタがリセットされていくような感覚。
「あ、ああ、よろしく…」
「開発二課さんとの連携、すっごく楽しみにしてたんです! 特に黒川さん! あの、会社の基幹システムを長年、たったお一人で守ってこられたっていう…伝説のエンジニアさんですよね!? すごいです!」
キラキラとした尊敬と憧れの眼差しを一身に受け、黒川の心臓はドクンと高鳴った。
(で、伝説…!? お、俺のこと、知っててくれたのか…!? しかも、そんな風に…!)
さっきまでの憂鬱が、嘘のように消し飛んでいく。そうだ、俺は伝説のエンジニアだった。こんなところで、くよくよしている場合じゃない。
「今回の刷新プロジェクト、すごく大変だって聞きました」
愛莉は、少し心配そうな顔で続ける。その表情の変化すら、いちいち可愛い。
「でも、黒川さんみたいな、経験豊富なベテランの方が中心になって進めてくださるなら、絶対、絶対うまくいきますよ! 私も、全然力になれないかもしれないですけど、一生懸命サポートしますから!」
彼女は、胸の前で、小さな拳をきゅっと握りしめた。その健気な姿に、黒川の心は完全に撃ち抜かれた。
(か、可愛い…! なんていい子なんだ…! しかも、俺のことをこんなに理解してくれて…!)
黒川の脳内は、もはやピンク色の花畑が広がっていた。さっきまでの女神への憎悪も、佐々木への不満も、クラウド推進部への偏見も、すべてがどうでもよくなっていた。彼のメンタルパラメータは、一瞬で危険水域から幸福度最大へと振り切れた。
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも私に言ってくださいね? 黒川さんの力になれるなら、私、なんだってしますから!」
少し首を傾げ、上目遣いでにっこりと微笑む愛莉。完璧なコンボに打ちのめされて、黒川のHPはもうゼロだった。いや、天使の特殊能力によるものか、むしろ全回復し、バフがかかった心地だった。
「お、おう! ありがとう、森田さん!」
黒川は、柄にもなく大きな声で、力強く頷いた。その顔には、一点の曇りもない。
さっきまでの死んだ魚のような目はどこへやら、決意と希望と、下心の光が輝いていた。
「よーし! やってやるぞ! 見てろよ、芽上! 俺だって、やるときはやるんだ! このプロジェクト、俺が必ず成功させてみせる!」
あれほどに手こずらされた守護者の再起動は、かくして、突如として舞い降りた天使の手によって、いとも容易く、しかし確実に行われたのであった。
意気揚々とクラウド推進部のガラス扉の向こうへと吸い込まれていく黒川の背中を、森田愛莉は、完璧な天使の笑顔で見守った。
その瞳の奥に、ふっと光が宿る。それは、感情を排除したような冷たい色だった。
(……チョロすぎる。でも、利用価値はあるかしら? ふふ、せいぜい私のために頑張ってね♡ )
計算通りに事が運んだことへの満足と、黒川という「駒」を手に入れたという確信。森田愛莉の「天使」というシステムは、今日も完璧に、そして冷徹に機能していた。
前回に引き続き、厨二を意識したタイトルにしてみました。
不穏な天使が登場・・・!




