辺獄の羽根編 第八話
著者:ハトリユツキ 様
企画・原案:mirai(mirama)
病院を紹介すると、彼女は安心したように帰っていった。何度も、何度も、ウイリアムに頭を下げながら。
ウイリアムはしばらく彼女の背中を見つめていたが、彼女が豆粒ほどに小さくなった頃、ひどいめまいがしたので、ドアを閉めて、椅子に腰をかけた。
まぶたを閉じるとさらにめまいが強くなる。わずかに頭痛もある。身体が怠い。動くことすら、億劫に感じられる。
妻メアリが亡くなってからずいぶんと長い間が経った。その間、自分は1日たりともまともに生活をすることはなかった。毎日ワインを飲み、腹を酔いで満たしていた。身体は病人のように痩せ細っており、このまま朽ち果てて、死を待つだけの時間だった。今だって、同じ。ゆっくりと死に向かって行く、その長過ぎる時間を持て余している。このまま、消えたって構わない魂だ。誰も、自分の死を悲しむものなどいない。
呆然としたまま、窓から差し込む今の彼にとってはまぶしい光を見つめる。
夕方を過ぎ、空は少しずつ薄暗くなりつつあるけれど、それでもまだ太陽の光は残っていて、ちくちくとウイリアムの皮膚を刺した。頭の中では、メアリの顔と助けた男の顔が浮かぶ。自分をすがったその手が、その眼差しが。
「……ふふ」
思わず、笑いがこみ上げる。可笑しいことなど何もない。ただ、こんな状態になってもまだ自分が医者として誰かを助けようとしたことが自分でも意外だった。
プライドも、医者としての技術も、観察眼も、すべてがすべて灰となったこんな自分に対しても、誰かが手を伸ばすのか。そして、自分もまた、彼らを助けようと思うのか。
「ふふふ」
肺から湧き上がるような笑い。久しぶりに笑ったせいか横隔膜が痛い。臓器が引っ張られるような感覚。
——その時だった。ふと、視線を窓に向けたその瞬間。蝶がとんだ。真紅の蝶。
ウイリアムが驚いて立ち上がり、もう一度目を凝らしてそちらを睨みつけたが、そこにはもう何もない。あるのは、日が暮れて、太陽が消えていく闇だけ。
夢の中で見た蝶。あの蝶。
ウイリアムは、しばらく呆然と窓の方を眺めていたが、ぐうと腹の虫が鳴く音に気付く。身体が求めている。栄養を欲している。こんな身体になっても、まだ。
「……何か食事をとらなけば」
ぼそりと独り言を漏らしながら、買ってきたばかりのパンとまだ残っていたチーズを削ぎ、大きなオレンジをナイフで切る。ぽたり——オレンジの雫が手首を伝う。
つやつやと明るく光るそのオレンジが今のウイリアムにはひどくまぶしく感じられた。




