辺獄の羽根編 第三話
著者:ハトリユツキ 様
企画・原案:mirai(mirama)
ネズミの鳴く声が聞こえる。
ウイリアムは、ワイン瓶の山から身体を起こすとぼんやりと宙を見ていた。
先ほどまで見ていたはずの夢は思い出そうとしてもだんだんと輪郭が失われ、記憶が曖昧になる。けれど、一つだけはっきりとまぶたに焼き付いている景色があった。
一頭の蝶が闇を舞う姿。真紅に染まった血の色。
あの瞬間、自分は間違いなくあの蝶に見惚れていた。美しいと思ってしまった。名前も知らぬ、一頭の蝶に。
「……あの蝶の名前はなんというのだろう?」
ふとそんな思考がよぎり、本棚のすみに埃を被って置かれている昆虫図鑑を手にとった。目次で蝶のページを見つけると、ぱらぱらとめくってみる。白黒の図鑑ではあるが、あの蝶の姿は色が奪われていたとしても、はっきりと見つけられる気がした。が、どのページにもそんな蝶はのっていなかった。
「何をしているんだ、私は」
ぼそりと独り言をこぼすと、本棚に図鑑をしまう。
窓を見れば、外は夕陽が沈もうとしていた。ぐうと腹の音が鳴る。そういえば、朝から食事をまともにとっていなかった。腹にあるのはワインの赤だけだ。
「買い物にでも出かけるか」
ワインも残りはわずかだったし、しばらくろくな食事をとっていなかったことに気付いたウイリアムはふらふらとした足取りで家を出た。
外は薄く消えかけたオレンジ色の夕陽が家と家の間からさしていた。久しぶりの外光をウイリアムは眩しそうに目を細める。
彼が最初に寄ったのは、家から数分ほどの距離にある本屋だった。
寂れた小さな本屋であったが、開くのもはばかられるような難しい本が並んでいる。
「やあ、ウイリアム。久しぶりだね」
ひょこっと顔を出したのは、ハリスだった。
「やあ、元気か少年。ずいぶんと身長が伸びたような気がするが」
「ふふ、ウイリアムが家に引き篭もっているうちにね」
ハリスが笑いながら肩をすくめる。本屋の店番をよくしているからだろうか、ハリスはまだ少年であるけれどとても博学で大人びた性格をしていた。周囲は彼のことを生意気などといったけれど、ウイリアムはそんなハリスを気に入って、この本屋によく訪れていた。
「ハリス、蝶について知りたいんだ」
「蝶?」
「真紅の蝶だ、とても美しいんだ」
「——真紅の蝶? 聞いたことはないね」
ハリスは頭を掻きながら、興味深げにウイリアムの持っていたものよりもずっと分厚く文字の小さな植物図鑑を取り出した。だが、どのページにもあの美しい蝶の名前はのっていないのだった。