辺獄の羽根編 最終話
著者:ハトリユツキ 様
企画・原案:mirai(mirama)
——その日、夢をみた。
薄暗い闇の中。脚元には無数の人間。呻き声が重なり、ウイリアムの耳元に響き続ける。細い骨ばった腕が彼の脚にしがみつく。身動きが取れない。ぐにゃりと視界が歪む。
「私は何もできないんだ……」
ふと顔を上げると、蝶が飛んでいた。
真紅に染まった血の色。鮮やかな羽根。蝶は静かに羽根を動かしながら、ウイリアムを誘う。
蝶の誘いに導かれるままに、なんとか一歩踏み出す。
気がつけば、彼は家の前にいた。
柔らかな陽のあたる自宅のドアを開けると、すぐそばに置かれているベッドにメアリが座っていた。
点滴の管を腕に固定され、顔色はあまりよくはないが、彼女はそっと微笑んで、ウイリアムの方に両手を伸ばした。
「メアリ……! ダメじゃないか、寝ていないと」
痩せた脹脛と上腕。今にもベッドから落ちそうな彼女の身体にウイリアムは慌てて近づいていく。そして、ぎゅっと彼女の両の腕に抱き締められた。こんなにも細いのに、メアリが自分を抱き締める力は想像していたよりもずっと強かった。
「ウイリアム、愛してるわ」
「私も愛してるよ、メアリ、とても」
これが夢だということはとっくに理解している。
彼女と一緒に居られるのならば、もうこのまま夢の中でずっと二人で。
「——ウイリアム」
抱きしめていた手を彼女がほどき、ウイリアムはメアリの顔をまじまじと見つめた。
笑うと頰にできる柔らかな笑窪。目尻の小さな皺。青い瞳はサファイアのように淡く光る。彼女がおかしそうに笑った。「ひどい顔ね、あなた。私よりもずっと病人みたいよ」
「君が私を置いていったからだよ」
「あら、私の愛する大先生がそんなことで心が折れちゃうなんて……」
「当たり前だろう、私は君に……何もしてあげられなかった。何一つ……君に与えることは……」
静かに項垂れたウイリアムの顔をそっとメアリが両手で包み込む。
「——何をいっているの?」
「え?」
「私はあなたにずっとたくさんのものを与えられていたのよ、ウイリアム。妻としても、患者としても、抱えきれないくらいの大切な宝物を。あなたが私と長い時間向き合ってくれていたこと、嬉しかった。本当よ。たとえ、私の魂が見えなくなってしまったとしても、私はあなたのそばにいるわ。ずっとよ」
「メアリ……」
ウイリアムはメアリを抱きしめようとしたけれど、その手をそっとメアリが弱々しく押し返す。
「ダメよ、ウイリアム。あなたは生きるの。まだ終わらない。あなたにはその運命が、宿命がある。あなたはその手でまだ救うべき人がいる」
視界の端に蝶が飛んだ。
メアリがその蝶を愛しげに見つめる。視界がゆっくりと歪む。身体が浮上していく感覚。身体に力が入らない。夢が覚めようとしているのだと彼は悟った。ウイリアムは必死に手を伸ばし、メアリの手を握った。ひんやりと冷たくて、それでいてあたたかい手のひら。
「——またいつか、ウイリアム。愛してるわ」
ウイリアムは彼女に何かを言おうとして、それは言葉にならないまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
——気がつけば、朝だった。
遠くで鳥の鳴く声。太陽の光が柔らかく窓から差し込む。テーブルの上には空の酒の瓶。転がっているワイングラス。ウイリアムは気怠さを払うように、カーテンをめいいっぱいに開き、窓を開けた。あたたかな風が頬を撫でる。まるで、彼女の手のひらに包まれているような、そんな。
「また、いつか。君のもとに行くよ。だから、見ていてくれ、不甲斐ない私を」
彼は、クローゼットの隅でハンガーにかかっていた白衣を取り出す。埃を払うと、その白に袖を通した。そして、同じく埃をかぶった医療辞書を取り出すと、戸締りをして、家を飛び出す。きっともう、しばらくはここに帰っては来ないだろうから。
「いってきます、メアリ」
返事の代わりに小さく鳥の鳴き声が響いた。視界の端で蝶が飛んだ。




