私がいなくても、どうかお幸せに
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「ハァッ、ハァ……ッ」
「いたぞ! あそこに悪魔がいる」
ああもう私は駄目だ。追い詰められてしまった。もう逃げ場はこの神殿のどこにもない。
貴女は聖女様だからと、小さな村の教会にいた頃に私の世話を焼いてくれた年嵩のシスターが仕立ててくれた天使の羽を織り込んだような真っ白なドレスは、引きずりながら走ったせいか薄汚れている。
ごめんなさい、と心で祈る。
「俺たちを謀りやがって!」
違う、違う。私は確かに悪魔だけど、真実貴方たちに尽くしてきた。
役に立ちたいだけだった。悪魔の中では下の下の存在の自分でも、人間の世界でなら役に立てると思った。
だから、私が唯一使える『時戻し』の魔法を『治癒』の魔法と偽って、碌に治療も受けられない村で聖女となった。赤子の熱を下げて、山から落ちた青年の足を元に戻して。皆に「ありがとう!」と言ってもらって。
本当にその毎日が、弱い悪魔だからと虐げられていた私にとっては大切なモノだった。それ以上を望むことはなかった。
だけどある日戦争が起こった。
そしてどこからか私が聖女だという噂を聞きつけた国王によって戦場へと無理矢理連れて行かされた。悪魔の私は人間よりも体力も気力もあるけど、それでもとても辛いものだった。
私は治癒をし続ける。腕が無くなった者がいれば時を戻し生やして、矢で射られた者がいれば怪我を負う前に戻し息を吹きかえさせた。時たまどこにいるかも分からない、そもそも悪魔など嫌っているであろう神に祈り続けながら、ずっと無我夢中で頑張り続けてきた。
落ちこぼれで魔力が少ない私には救える人も多くなくて「どうしてあいつを助けてやらなかったんだ!」と怒鳴られ息ができなくなるくらい泣いてしまうこともあったけど、それ以上に「ありがとう」とお礼を言ってくれる人がいたから私は頑張れた。
そして、二年の月日が経ち私たちの国は勝利したらしい。私は戦争を勝利に導いた聖女として王城の中に建てられた神殿で暮らすように言われた。力を持つ私を、国に縛り付けたかったのだろう。
本当は村に戻りたかったけど当然それは許されなくて、私はあの村で着ていた服と村の人たちがくれた食べ物だけを持って神殿にやって来た。
神殿での毎日は穏やかだった。指を切ったと小ちゃな傷で騒ぐご令嬢は来ても、足の骨を折り脂汗を滲ませながら運ばれてくるような人はいなかったから。……ああ、あの村の人たちは聖女である私がいた村だからとちゃんと褒賞を貰えているだろうか? 風邪を引いただけで死ぬような目に遭っていないで欲しい。
「聖女様、物思いに耽っているようですがなにか悩みごとでも?」
「……いいえ、なにも。心配をかけすみませんルスラーン様」
女神像に祈りを捧げる私の傍に侍っているのは、銀髪の騎士様。私の婚約者である第二王子のルスラーン様だ。
本当は王太子の婚約者にされそうだったが、王太子には既に婚約者がいると聞いて必死の思いで辞退し彼になったのだ。
ルスラーン様の問いかけに僅かに首を振って言葉を返すと、ルスラーン様は「それなら良かったです」と笑った。
心臓がトクンと脈打つ音が脳に響く。私は首をかしげた。最近こんなことが増えた気がする。彼に触れられる度、優しくされる度に、心臓の音が一際強くなるのだ。
私を見つめる金色の――いつかの村の人が分けてくれた蜂蜜のような瞳を見つめ返す。
私は力を使いすぎた。いくら最下の存在といえどまだ二百年程は生きられたであろう私の命も、戦争を終えた今は百年程しか残されていない。丁度、人間の寿命と同じ。
それなら。ルスラーン様たちと生きても良いのだろうか? 今の私を、悪魔だと思う人間はいない。悪魔は元来他者に興味がない人たちだから、私を悪魔だと知る人物がやって来ることもない。
ルスラーン様と沢山生きて、そして同じように死ぬ。なぜだか心がポカポカした。
「ねえ、ルスラーン様」
「なんでしょう、聖女様」
彼の骨張った手を、そっと握る。
「私とずっと一緒にいてくださいますか?」
「当たり前です。貴女は私の婚約者であり、ただ一人の愛おしい人です」
じんわり涙が滲んだ。
ありがとう、を繰り返す。嘘をついてごめんなさい、を繰り返す。
私は確かに悪魔だけど、幸せになっても良いのかな? と自問自答をする。答えはでない。
ずっとこうしていたい、とわがままを一つだけ零した。
――本当に、それだけだった。
悪魔として振る舞うつもりは、考えたこともなかった。
薄暗い神殿の中、矢で射られた肩を上下させ呼吸を落ち着かせながら、私は壁にもたれかかる。
人の気配がする。私を嫌悪し憎む人たちの声がする。
ルスラーン様はいない。彼が国王に呼ばれている間に、私は討伐されようとしているのだから。
涙がホロホロと落ちて白いドレスを斑な灰色に染めた。
◇◇◇
とある日、神殿に公爵家の夫婦が訪れた。子を身ごもっている奥さんの体調が悪いらしい。子になにかあってはいけないからと、私の下に来た。
普通に医者にかかれば良いものを、と息をつきながら私はいつものように時戻しの魔法を使う。
そして、加減を間違えた。私は誤って、時を戻し過ぎてしまった。
気がついた時、彼女の腹は平坦になっていた。
「え? なんで、私のお腹……。赤ちゃん、赤ちゃんは⁉」
「聖女様! 一体これはどういうことだ!」
「あ、あ……!」
汗をダラダラとかく。頭が真っ白になった。
そしてその日に、私は魔力封じの鎖で神殿に繋がれた。本気を出せば外すことも出来たが、私は外したいと思わなかった。
「聖女様、いえエカチェリーナ。貴女は一体、なんの魔法を使うのですか?」
そんな私の監視役として手を挙げたのはルスラーン様。毎日欠かさずやって来ては、こうして口をつぐみなにも話さない私に声をかけ続ける。
あの夫婦のように、私を罵ってくれた方が楽なのに。彼は私に対する親切な態度を崩さない。今はその態度がなによりも痛かった。
そして、私が囚われてから一カ月後。とある少女が本物の聖女として見つけられたらしい。貧しい村で、ずっと村人たちの治療をし続けていた所で発見されたそうだ。
……一体、私と彼女のなにが違うというのだろう。聖女が見つかったとルスラーン様に聞かされた時、私の口から乾いた笑いが漏れた。
それから直ぐ、聖女様が私の正体を見破る為やって来た。
「……っ、この方は聖女でも、ましてや人間でもありません! この禍々しいオーラ、悪魔です!」
真の聖女様が私が囚われている神殿に訪れそう声高に叫んだ。
そしてその宣言から三日後。私は殺されることとなった。
最初はその運命を、罰を受け入れようとした。だけど他の悪魔に鞭打ちにされたり火傷を負わせられたことを思いだし、矢で肩を射られたのを契機に私は鎖を引きちぎり駆け出した。
だが、逃げ場はない。でもがむしゃらに走り続ける。聖女が使える治癒の魔法――聖の魔法以外に、私を殺すことは出来ない。だからどれだけ矢で射られようと剣で足を貫かれようと松明を投げつけられ頬を焦がされても全然平気。
ただ、怖くて恐ろしいだけ。
私は壁にもたれかかりながら、浅く息をする。結局逃げ切ることは出来なかった。こうして、真の聖女様と、騎士たちに追い詰められてしまった。
「では、私が彼女を今葬ります」
「お待ち下さい、聖女様。まずは俺たちが悪魔を弱体化させます。まだどんな力を残しているか分かりませんから」
そんな会話のあと、一人の騎士が私に剣を構えた。私が腕を治した騎士だった。
ボロボロと涙が溢れた。苦しさで息が詰まりそうになる。
私は結局、彼らにとって悪魔でしかなかった。その事実が胸を焼いて、私を燃やす。
うなだれるように、私はゆっくり目を閉じた。もう誰にも失望したくなかった。
剣が振るわれる音がする。
風を切る音が聞こえた。……だけど、私を襲う痛みはない。少しの浮遊感に驚きながら目を開ければ、彼の横顔があった。いつも優しい笑みを私に向けてくれる彼は、今は私を横抱きにしながら怖い顔をしている。
「――なぜ、なぜだ……! なぜお前らはエカチェリーナに剣を向けている!」
ルスラーン様の言葉に鼻白ませた彼らは次々に言葉の刃を彼と私に向けた。
「その女は悪魔なんだぞ!」
「俺たちは騙されていたんだ!」
「この国を乗っ取る為に、聖女の名を騙っていたんだ。その女を殺さなければならない。早くどけルスラーン!」
唇を噛み締めた。
ごめんなさい。ただ役に立ちたいだけだったんです。それなのに、戦争で救えない人がいた、あの夫婦の大切な赤子を消してしまった。
こんな私なんて、いなければ良かった。
涙はしとどに私の頬を濡らす。
苦しい。
結局私の行動は、なんの意味も――
「お前らっ、彼女の助けを借りておいてよくも……!
イゴール、どうしてお前の腕はあるんだ! 彼女が汗を滴らせながら治療してくれたからだ!
フィリップ、お前が愛する家族の下に帰れたのは誰のおかげだ? そうだ彼女だ! そうでなければお前は戦場で死んでいた!
他にも、数え切れない者がエカチェリーナに助けられたのだろう⁉ その事実は変わらないはずだっ。それなのになぜそんなにも彼女を恨むことが出来るんだ!」
鼻がジンと痛んだ。ぶわりと熱いものが込み上げる。
「彼女が成してくれたものに目を向けず、悪魔だからと掌を返し追い詰めるお前らの方が、よっぽど俺にとっては悪魔に見える……っ」
「ルスラーン様……」
「だ、だがその女は赤子を消したのだぞ⁉」
焦ったように言い返す騎士に、ルスラーン様は冷たい視線を向ける。
「そもそも、なぜ彼女があんな一晩寝れば治るようなモノを治療しなければならなかったのだ? 他の奴らもそうだ。エカチェリーナに些細なことで頼り、彼女が失敗すれば全ての責を彼女に押し付ける。なんて醜いんだ。
……エカチェリーナはその日、火傷を負った令嬢が『跡を残さず治療しろ』と言ったせいで眠れていなかった。だから断ろうとしていたのに、無理をさせたのはあの公爵家の夫婦だ」
皆が声を飲む音がした。その中には私もいる。
彼の想いがあまりにも優しくてあったかくて、嬉しさでどうにかなってしまいそうだった。
痛みを訴え続けていた胸が、今は痛くない。むしろ温かいモノで満たされている。
私はルスラーン様を愛しているのだと、今ようやく分かった。
「ルスラーン様、私っ」
「綺麗事なんてどうでも良いんだよ!」
私の呼びかけに応じようと、ルスラーン様が彼らから視線を逸らした。
そしてその一瞬で、彼は騎士に腹を貫かれた。
私を落とさないように抱きしめながら崩れ落ちる彼。目の前が真っ暗になる。
「あ、ああ……! 目を覚ましてくださいルスラーン様!」
私、貴方に伝えねばならないことがあるのに。
「エカチェ、リーナ……。貴方に、伝えなければならない、ことが」
「伝えたいこと?」
血が垂れる口を、彼は小さく動かした。
「ありがとう」
……それは、皆を助ける度に、皆がくれた素敵な言葉。他の悪魔たちには、ついぞ貰うことは無かった言葉。
「私の一番好きな言葉を、ありがとうルスラーン様。私も貴方に、いいえ貴方たちに沢山の感謝を……っ」
ありがとう、素性も分からぬ私にパンをくれて。
ありがとう、名もなかった私に『エカチェリーナ』という名前をくれて。
ありがとう、服を作ってくれて。
ありがとう、戦場で食べ物を分けてくれて。
ありがとう、私を守ってくれて。
ありがとう、優しい眼差しを向けてくれて。
ありがとう、笑顔を見せてくれて。
ありがとう、『ありがとう』と言ってくれて。
「数え切れないくらいのありがとうを、貴方たちに」
聖女様は顔を青くさせ狼狽え、騎士たちも剣を手から落とし震えている。ルスラーン様だけが、私を真っ直ぐ見つめてくれた。
……うん、私はやりきらなくちゃ。そう思って私は言葉を紡ぎ始めた。
私の力は確かに時戻しだが、その本質は『やり直し』に近い。過去に戻り、原因となるモノを取り除く。それによって傷が無くなったりするのだ。
つまり、過去から私を消すことも出来る。私がいたから、こんな事態になってしまった。だから私は、消えなければならない。
でもそれだとあの戦争できっと多くの人が亡くなってしまう。そんなのは許されない。
だから、真の聖女様がもっと早く見つかったことにするのだ。そうすれば、最初から私がいなくても、きっと世界は上手く回る。
こんな大規模な魔法を行使したら私は消えてしまうかもしれないけど、それでも構わない。
愛するルスラーン様が救えるなら。騎士たちが私を傷つけてしまったという罪悪感をなかったことに出来るなら。あの夫婦の赤子が産声を上げられるなら。
「さようなら、ルスラーン様。愛してます」
◇◇◇
パチリと目を覚ました。森の中で私は体を起こす。
どうやら無事、私がいないという前提で世界は進んだらしい。その証拠に私の魔力は少ししか残っていない。ほんの少しの切り傷を治療しただけでも、私は消えてしまうだろう。
起き上がった私は、今自分がどこにいるのかも分からないけどある場所を目指すことにした。
最初に私が人間を治療してたあの村で、死にたかった。
それから夜が来てまた朝が来て。ひたすらに歩き続けた。そして繰り返しの果てに懐かしい光景に辿り着いた。
――情報を収集しながら、私は旅をしてきた。その中で、もう戦争は終結したと聞いた。聖女様がとある村から見つけだされ、その聖女様の尽力により死傷者は少なく勝利することが出来たらしい。
今は神殿で暮らしているだとか。近々王太子と結婚するらしい。元々の婚約者様は……と考えてしまったが、もう私にはどうすることも出来ないと頭を振って誤魔化した。
そして、私がいなくても回る世界に哀しい程に安心して、私は村の近くにある森で暮らすことにした。
ボロボロの家が森の中にポツンとあった。それは私が、この村で聖女をしていた頃治療を行ってきた教会だった。そうそう、私が暮らすようになったから村の人たちが工事をしてくれたんだっけ。そうやってクスクス笑いながら私はその家を借りることにした。
どうせ、あと二年程でどう足掻いても私は消えるのだから、それまでどうか許してほしいと願いながら。
日々の生活は穏やかだった。川で水を汲み、魔力が全ての悪魔に食事はいらないから時たま果物を摘み、生活の大半を寝て過ごす。
そんな生活にも、僅かな変化があった。たまにふと窓に目を向けると、誰かが覗いている時があるのだ。それは子供の時もあるし、大人の時もある。そして決まって数個のパンと果物を扉の前に置いていく。
お腹は空かないけど、あの日と同じ味のパンがどうにも心に染みて、扉の前の地面に木の棒で『ありがとう』と書くのが日課になっていた。
ある日のことだった。いつもと違い外が騒がしくて私は外に目を向けると、懐かしい人を見つけた。
「ルスラーン様……?」
窓から外を見れば剣を構えた彼が、部下らしき人を連れこの家に向かってきている。そんなルスラーン様たちを止めるように村の人たちが追い縋っていた。
「逃げて!」と声が聞こえる。
ああ、遂に私が悪魔だということが、ここにいるということがバレてしまったのか。
私は村の人たちに悪いと思いながらも、外に出た。
「はじめまして、私の名はエカチェリーナです」
「名などどうでもいい。悪魔はここで討伐する」
剣を構えるルスラーン様から私を庇うように村人が立ち塞がった。
私も、そしてルスラーン様も目を見開いた。
「お願いです。どうか見逃してください。彼女はこの村に来てから一年、ただの一度も私たちを襲ったことはありません」
「それがどうしたと言うのだ。これから先、襲わないという保証はない」
「それでもです……! お願いです、儂らはこの子を殺してはならない気がするのです。この子に何度も、助けられたような気がするのです」
押し問答を繰り返す。埒があかないからか、ルスラーン様の周りにいる騎士が苛立たしそうに剣を構えた。
いけない、私を庇って皆が痛い思いをするのは絶対に駄目だ。
私は、目の前で私を庇うように両手を広げる女性の足に縋り付いている男の子の前に跪いた。
その足に手をかざしてから、思い出したように顔を上げる。
「――皆さん、私に食べ物をくれてありがとうございました。……それ以外にも、沢山のことをありがとう」
そして、男の子の膝に出来た擦り傷に魔法をかけた。
傷がみるみる綺麗になる。
それと同時に、私の体から黒い煙が上がり始めた。
「さようなら」
あの頃の私にパンをくれたパン屋さんの夫婦。お世話をしてくれたシスターのお婆さん。一緒に遊んだ子供たち。皆、涙を流す理由に見当がつかないと言いたげに泣いている。
それがとっても嬉しかった。誰かに涙を流してもらえるのは、とてもとても嬉しいものだった。嬉しすぎて申し訳ないと思ってしまう程に。
私の体はゆっくり解けて消えていく。もう少ししか私の体は形を保っていない。
だから、最後まで残っている目でルスラーン様を見た。愛おしい人を、まぶたに焼き付けたかった。
そして、私は目を見開いた。
――彼は、泣いていた。大切な人を悼むような、温かい雨のような涙を流していた。
それがどうにも嬉しくて、いけないと思いつつも私の口元はゆるゆる緩む。
『ごめんなさい。……でも、こんなにも好きだから、どうか許してくださいね。私の為に泣いてくれて、ありがとう』
その涙を流し終えたら、私のことなんてどうか忘れてください。理不尽に涙が出てくる理由なんて、一生気づかないでください。
そして私が今幸福なように、どうぞ貴方も幸福になってください。それが私の願いだから。
体がふんわりふわふわ空に上がっていく。
私はサァと、風に吹かれ消えた。
◇◇◇
悪魔は黒い霧のようなモノになり消えた。それは喜ばしいことだ。だって、悪魔とはこの世に害を成す悪しき存在なのだから。
それなのに、自分の瞳からは止め処なく涙が零れ落ちる。胸の痛みに呼応するように顎から滴り落ちる涙は、彼女の霧と同じように風に流れていった。
「どうして、涙が止まらないんだ」
なぜか、彼女が最後少年の足を治した時、自分はほんの一瞬も驚かなかった。彼女がそんな行動を取ることに一切躊躇いがないのを、誰よりも知っている気がした。
きっと彼は、なにかを忘れたということを忘れることはないだろう。
そんな矛盾した感覚を特に強く抱くのは、食事をする時だったり寝る前だったり様々だろうけど、胸に走る痛みはきっと同じ。
痛いくらい愛おしい人を、その人と共に生きた日々を彼は時折思い出す。もうその輪郭すら思い出せないけど、その痛みが走る度に大切な記憶を自分は失くしたのだとふとした拍子に考える。
その度彼がポロポロ涙を流すものだから、きっと彼女は今も彼の元にいるに違いない。
自分のことなんて忘れてしまえ、ときっと念じているのだろう。
でもやっぱりちょっとは覚えていてほしい、と彼の頭にそっとキスを落とすのだろう。
幸福になってくださいね、と彼と同じように涙を流すのだろう。
それはとっても愛おしいね。痛いくらい哀しいね。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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