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烈海の艨艟  作者: 鳴木疎水
星墜の凱歌
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番外編 大正7年夏の総力戦

 大正6年2月、カーキ色の軍服に身を包んだ東洋人の兵たちがフランスマルセイユ港に降り立った。

 欧州での戦いに参戦するために日本から海路はるばる運ばれてきた、日本陸軍欧州派遣軍の先遣部隊である第六師団歩兵第十三連隊の兵たちである。

 彼らは後続の部隊を待つ間訓練を重ねつつ、欧州の地で言葉の壁を乗り越え欧州大戦の情報収集に努めた。

 日露戦役に従軍した士官や下士官たちは、欧州の戦野で続いている激戦が自らが経験したものと大きく様相を違えていることを学び震撼する。

 桁違いの数の大砲や機関銃から放たれる鉄量、幾重にも張り巡らされた強固な塹壕線、航空機、タンクなど新時代の兵器、そして一会戦で日露戦争全期間の損害をはるかに上回る程の兵力の大消耗、その渦中にわずか10万にも満たない貧弱な装備の軍隊が放り込まれていったい何を為せるのか、目端が利く一部の士官たちは今自分たちがいるのは地獄への入り口であることを理解していた。

 膨大な量の弾雨が降り注ぐ戦場において今や必須となった鉄兜さえ未だ日本陸軍では制式採用されてはおらず、かろうじて先遣隊の半数ほどが日本で試験的に製造されたものと英国から購入したものを装備できていたに過ぎなかった。

 航空機やタンクといった新兵器は言うに及ばず大砲や機関銃といった近代戦に必須の兵器でさえも、欧州派遣部隊に優先的に配備されてはいたものの弾薬定数も含め質量ともに英仏に較べ大幅に足りていなかった。


 近代戦の何たるかを学ばず過剰な精神主義に毒されていた欧州派遣軍の将官の多くは、戦場で指揮を取る将校たちに広がっている危機感を取るに足らぬものと軽視した。

 大正6年6月、第六師団と第八師団は英連邦軍とともにベルギー方面での作戦に投入される。

 同年7月から11月にかけて起こったパッシェンデールの戦いと翌年の独軍大攻勢において、欧州派遣軍は後発で送られてきた第二師団と第五師団も含めこの期間に死傷者行方不明者合わせて4万名を超える大損害を出す。

 緒戦において大兵力をすり潰したにもかかわらず殆んど戦果は上がらなかったことに冷静さを欠いた派遣軍司令部は、負けが込んだ博徒の如く暴走し手持ちの兵力を次々と激戦の中に送り出しさらに出血を増やしていった。

 欧州派遣軍総司令官は派遣軍参謀たちに内心思うところはあったものの作戦指導を一任していたが、大正7年に入って内地から送り出された増援の十一・十二両師団までも使い潰されるのを見過ごすわけにもいかず、派遣軍参謀長を含む参謀たちを更迭するとともに各師団で無謀な作戦を傘下部隊に命じる高級将校たちを指揮系統から外す大鉈を振るい、自らも大損害の責を取りその職を辞した。

 新生の派遣軍司令部が消耗した4個師団の再編を待って再び戦場に部隊を送りだしたのは、ドイツ軍の春季反攻作戦が第二次マルヌ会戦によってとん挫した7月に入ってのことだった。

 

 終わりを見せようとしない欧州大戦から手を引けない日本は、大正6年末に4個師団の増派を決定するとともに現状21個師団の編制となっている陸軍戦力の増強を図る。

 陸軍省は内地にあった10個師団を基幹に新たに10個師団の創設を決定し、予備役、後備役、補充役を召集した。

 この10個師団の増強に際して多種の問題が生じ、陸軍はその解決のため大いに頭を悩ますことになる。

 日清日露の戦役に勝利し世界の強国の一角を占めると自負する日本ではあったが、その実態はなんともお寒いことに応召兵の訓練さえままならぬ有様となっていた。

 まずは兵の軍装が全く足りてない、兵舎が足りない、糧食を用意できない、訓練用の小銃は保管されていた前装銃を引っ張り出してさえ定数を賄えない。

 いろいろ無理を重ねて何とか訓練ができる状況にまで持って行けたものの致命的だったのは兵器の不足で、兵器工場に対し増産を命じてはいたがその効果は乏しく短期間での問題解消は望むべくもなかった。

 陸軍はこの問題の解決にあたり、巨大工業国である米国の兵器企業に対し陸軍の制式兵器の設計図面を渡しその生産を発注するという奇策を取った。

 欧州に新規派遣される部隊の装備する兵器を内地での新兵訓練用に残置し、欧州の地で米国から発送されてきた兵器を受け取り装備するという策に対する各所からの反発は大きかったが、陸軍省兵器局は背に腹は代えられぬとばかりこれを押し通すことになる。

 ドイツで革命が起こりドイツ皇帝が退位し11月11日に休戦協定が結ばれ第一次世界大戦が終結したことで、欧州派遣軍への師団増派はもちろん10個師団の増設も取りやめとなったが、米国兵器企業との間の契約は無効とならず大量に発注された小銃や大砲の生産は続行され、その結果日本陸軍は米国産の日本陸軍制式兵器を多数装備することになった。

 米国に発注し生産された三八式小銃など各種制式兵器は工作精度が高く、日本製のものと較べ故障も少なく性能も相対的に高いと評価された。

 この事実は陸軍兵器局にに大きな衝撃を持って受け止められ、第一次世界大戦後の兵器生産体制は米国式の量産方式を参考に大きく見直されることになった。


 陸軍は大正4 年以降陸軍省内に設置した臨時軍事調査委員会等の活動を通じて、第一次世界大戦に関する軍の編成・制度、外交、戦略・戦術、兵器・器材等に亘る総合的な情報の収集態勢をとった。

 その中でも戦略戦術や兵器などと共に特に注力されたのは、戦争遂行のため国力を総動員する戦時下においての生産体制構築のための産業政策だった。

 国産の兵器の生産が追い付かず米国に自国の正式兵器の生産を依頼するという異常事態が実際に起こったことで、戦時下における兵器量産体制の構築のための産業政策は喫緊の課題とされ、戦時下における生産体制の在り方は陸軍だけでなく政府全体でこの問題を共有する必要に迫られていた。

 

 第一次世界大戦での陸軍の大損害となし崩しの総力戦体制への移行によって壮丁の大量動員が進められた大正七年、日本の労働人口は農業従事者を中心に大きく不足することになる。

 日本政府はその不足を補うため、日本の植民地となって20年余りが過ぎ日本語教育が普及している台湾の現地人を労働移民として日本本土に積極的に受け入れる政策を取った。

 大量の植民地労働者を急激に受け入れたことで相互に軋轢が発生し問題化することも多々あったものの、この政策により大戦後の動員解除により労働需給が落ち着くまでの間の生産力の維持に成果があったことが戦後の政府による検証で明らかになっている。

 大戦後も台湾からの労働力の移入は続くとともに朝鮮半島からの労働移民も増加し、不況期に外地人失業者による治安問題の発生なども起こったものの、その労働力は戦間期の日本の経済発展の一翼を担う貢献を果たしている。

 またこの労働移民たちが故郷に稼いだ賃金の多くを還流したことで、台湾朝鮮現地の資本が充実し同地の経済発展が進むという相乗効果もあった。

 日本政府もこの流れを後押ししたことにより戦間期に台湾と朝鮮半島での工業の発展が進み、従来から発達していた軽工業だけでなく造船業や機械組み立て業なども現地経済に組み込まれることになる。


 日本政府は第二次世界大戦における日本の国家総動員体制の構築において、第一次世界大戦の経験を活かし朝鮮台湾の国民をより積極的に日本本土の産業に活用する政策を取った。

 また台湾や朝鮮半島で戦間期に成長した企業による船舶や各種機械の生産も、第二次世界大戦総力戦下での日本の工業生産の一翼を担う役割を果たしている。

 政府はこの労働移民政策の推進の外、朝鮮半島と台湾において徴兵こそ行わなかったものの志願兵を募集しており、合わせて40万人を越える両地の国民が陸海軍兵士となり北米やアジアに派兵され日本の戦争遂行の一助となっている。

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