最上型巡洋艦
最上型巡洋艦
昭和5年ロンドン海軍軍縮条約により1万トン以下の航空母艦及び巡洋艦その他補助艦艇についてもその保有に制限がかけられるようになった。
ロンドン条約締結の一年前になるが、5,500t級軽巡に先駆けて建造された天竜型軽巡の艦型が小さく水雷戦隊指揮に際して能力不足であること、同様の理由で将来的に改装強化の余地がないことから巡洋艦籍を外され武装を大幅に撤去し更に缶室の数を減じて輸送特務艦に変更されていた。
さらに同じ軽巡洋艦の夕張についてもその実験艦的要素から第一線艦艇としては使い勝手が悪かった為、昭和5年に友好国であるタイ国海軍に新造から7年余りで異例の売却がなされていた。
ロンドン軍縮条約により日本海軍の重巡は建造枠が一杯になり新規の建造ができなくなっていたが、そんな事情もあって軽巡については若干の余裕があり、また旧式艦の除籍に伴う新たな建造枠も発生しており、その結果として6隻の大型軽巡洋艦の建造が決定される。日本海軍の条約型軽巡洋艦、最上型及び利根型である。
条約による建造枠がらみで一隻あたりの計画排水量が8,500トンを上限とすることになったこれらの艦の設計に際しては、室戸沖事件の教訓による改良点が全面的に取り入れられることになる。
この8,500トン級巡洋艦の性格であるが、当初ロンドン条約による重巡洋艦の劣勢を補うべく10,000トン級重巡に準ずる武装を8,500トンの枠内に詰め込む考えで構想されていた。
しかし従来水雷戦隊旗艦として考えられていた5,500t級軽巡が砲火力の小ささと被害抗堪性の低さからその任に適わないと判断された為、それを代替する戦隊指揮艦としての性能が新型軽巡に要求されることになった。
また軍縮条約明けの艦艇整備計画への考慮もあってその設計には量産性と艦型の汎用性が求められたことから、条約明け後に最上型の基本設計を元にした各種の派生艦が誕生することになる。
突撃巡洋艦とは最上型巡洋艦が公開されたときに、その艦型により受ける印象から自然と国民に広まった呼称である。
3連装の60口径15,5センチ砲塔3基を階段状に艦前半部に集中配置した特異な艦型は、海軍関係者のみならず一般国民にもその戦術思想をはっきりと理解させるものだった。
多数の駆逐艦を後方に従え、前部に集中搭載した主砲群と強靭な防御力を持って敵艦隊に切り込んでいく、ユトランド沖海戦の戦訓に基いて構想された新世代の水雷戦隊指揮艦として必要とされる全てを具現化した艦容は、まさに突撃巡洋艦としか言い表せないものであった。
最上型の特徴としてはその特異な砲配置のほか、最高速38ノット、14ノットで13,000キロを超える航続距離という高機動性、主砲塔前面及び弾薬庫には対20センチ砲弾防御、砲塔側面及び主要部には対15センチ砲弾防御を施した防御性能、加古に続いて採用されたシフト式の機関配置、高雄型の巨大になりすぎた艦橋から一転してコンパクトに設計された艦橋などがあげられる。
最上型の対空兵装は89式40口径12,7センチ高角砲を片舷連装3基、両舷で合わせて6基12門、さらに96式25ミリ連装機銃を8基16挺装備し中型空母並みの火力を誇った。
艦前半部に主砲塔を集中した最上型軽巡洋艦は、空いたスペースとなった艦後半部を艦載艇の搭載区画に充当していた。固有の艦載艇である内火艇やカッター、物資輸送にも兼用できる小発を搭載するほかに、大型の運荷艇を4隻搭載運用する能力が与えられた。
搭載艇の一部はデリックを使用して泛水収容したが、大型運荷艇を含むそのほとんどは海面近くまでスロープになった艦尾に敷設された2組の軌条を使って発進する機構になっていた。
大型運荷艇は満載自重65トン、貨物積載能力は約40トンで速力12ノット、艇首は左右に開く扉で、スライドする歩板を持ち完全武装の兵員250名もしくは95式中戦車2両の揚陸が可能だった。大型運荷艇の代わりに特型運荷船(陸軍が開発した大発)6〜8隻を搭載することもできた。
実現には至らなかったが、最上型完成当時開発中であった特殊潜航艇甲標的を6隻搭載することも考慮されていた。
艦政本部は最上型の大きな舟艇搭載能力に着目し局地防衛用の小型潜水艦の開発に着手する。
邀撃任務専任の基準排水量280トン水中速力18ノット水上速力5ノット、53センチ魚雷発射管2門魚雷4本を持つ波11型潜水艦がそれである。
この小型潜水艦は回航用の小型ディーゼルエンジンこそ持つものの、基本的に艦内の大部分を占める大量の蓄電池からの電力でモーターを回す水中からの襲撃に特化した潜水艦であり、交戦海域への展開は当初最上型巡洋艦による輸送が考えられていた。
その後ドック型の専用輸送艦が就役した為、実際に最上型による輸送が行われることは無かった。
最上型に続いて建造された利根型の2隻は、運荷艇に加えて連絡移動輸送等への使用のため最大4機の98式哨戒飛行艇(98式双艇)の搭載運用を可能とする改良が施された。
④計画で建造された準同型の阿賀野型では対空兵装の増備に伴い運荷艇運用機能は廃止され発進用の軌条は設置されていない。
最上型に施された重防御は雷装・航空兵装を廃止し主砲を9門に抑えても、やはり8,500トン排水量の枠内に抑えるには無理があった。
計画当初から条約明け後の改装を視野に入れ一部装甲や兵装等を後日装備することで計画の枠内での完成を目指してはいたが、結局完成時の排水量は9500トンが予想され、さらに第4艦隊事件が起こったことにより艦体強度の見直し等が図られた結果、竣工時の最終的な基準排水量は11,000トン近いものになった。
その後、条約明け後の装備の追加等の改装の為排水量が12,000トンを超えた結果最高速力は35ノットまで低下したが、実用上の問題なく太平洋戦争ではその防御力、機動力に加えて強力な対空兵装をもって戦場を縦横に活躍することになる。