若鷲の揺籃
日本海軍の航空部隊では、航空母艦搭乗員へ技量優秀者を優先的に配属する。
相互に移動する艦隊の間の何の目印もない広大な洋上を航法だけを頼りに飛行して敵艦隊に辿りつき、敵機の迎撃を突破し、対空砲火の嵐の中にその身を投じ、高速で回避を続ける敵艦に爆弾や魚雷を叩きつけるのが母艦搭乗員だ。
母艦搭乗員に求められるのは、高度な技能を身に付けて強固な意志と強靭な身体能力を持たなければ到底果たせない困難な任務を遂行する能力である。
故に最も優秀な搭乗員が母艦航空隊に優先して配属されるのは、当然であり必然となっている。
そして母艦航空隊はその求められている困難な任務故に損耗率が高く、作戦ごとに多くの死傷者が発生しその補充のために多くの搭乗員を新たに必要としていた。
昭和16年12月8日の対英米宣戦布告以降、日本海軍空母機動部隊は数多くの作戦に参加し多大な戦果を挙げたが、その代償として大量の戦死行方不明者と戦傷者が発生していた。
しかし海軍空母機動部隊は、作戦毎に常に完全充足した航空戦力を用意して戦い続けることを可能としていた。
その原動力となったのは、昭和13年より陸海軍が協力して開始された航空兵大量養成の抜本的な制度改革だった。
海軍と陸軍は将来的に軍用航空機の軍事的価値の重要性が大きく高まっていくことを予測し、航空兵の養成を進めていた。
陸軍少年飛行兵や海軍の飛行予科練習生といった若年からの航空兵早期教育制度が整備されていたが、送り出される航空兵の数は限られていた。
養成生徒数を増員する努力は続けられていたが、急速に規模が拡大する航空部隊の実情に追い付いてはいなかった。
昭和10年を過ぎた頃には、航空母艦の増勢を急ぐ海軍と、仮想敵国であるソ連の急速な軍備拡大に直面していた陸軍、そのいずれもが航空兵の急拡大を喫緊の課題としていた。
従来の軍の航空兵養成機関では、規模的にも育成能力的にも限界があるため、効率的に飛行士や整備員を大量に且つ迅速に養成する機関が求められていた。
昭和12年大本営(大本営令により第2次上海事変中に常設機関として設置された)が直轄する陸海軍協議機関である陸海軍統合軍需諮問会議が発足する。
陸海軍間の軍事資源の配分や装備の共同開発など、軍需面で陸軍と海軍の間で発生する種々の問題の協調的解決を目的として設置された統合軍需諮問会議の最初の課題として、航空兵の大量養成実現の問題解決が挙げられることになった。
昭和10年より始まっていた陸海装備の共有化標準化により、既にこの時点で航空関係に於いても呼称の統一や規格の共通化に手が付けられていた。
そこから更に一歩進んで、航空兵養成の過程の一部を陸海で共有し統一した教育課程によって実施、将来的には航空兵生徒選抜時点から陸海の専属教育への分岐に至るまでの課程を、陸海航空部隊の枠組みから離れた形で実施することを目標とした。
昭和13年4月からスタートした陸海共通課程である帝国航空学校では16歳~20歳未満、旧制中学4年1学期終了の志願者を募集し普通学、体育、軍事学等の基礎教育を1年半受講した後、陸海軍に分かれそれぞれの飛行教育校で飛行戦技教育を1年半~2年に亘って受ける制度となっていた。
同時期に整備兵や航空管制要員の養成のための教育機関として航空技術学校を開設、募集年齢は14歳~16歳で高等小学校終了の学歴で応募できた。
航空技術学校においても操縦員へ進む経路が用意されており、3年間の基礎教育後成績優秀者は選抜試験により陸海軍の飛行教育学校への入校が可能だった。
航空技術学校で基礎教育課程を修了した生徒は、適性に応じ陸海それぞれの整備科、管制科、通信科に分かれて2年間の専門教育を受けた後各地の航空部隊に配属される。
この二つの教育機関が設立されたことにより、従来あった海軍飛行予科練習生や陸軍少年飛行兵は飛行実技過程を残し廃止された。
学校生徒の募集は従来通り前期後期に分かれての志願制で、発足当初の募集定員は航空学校が1期1,000名、航空技術学校が1,800名となっていた。
昭和14年に入り第二次世界大戦が勃発したことにより翌昭和15年の募集定員は大幅に増員され、航空学校3,000名、技術学校4,500名となり、その後も年々増加の一途を辿ることになる。
尚、生徒の陸海軍への配分は入校時には行われず、半期ごとに基礎教育課程を終えた時点で陸海の要求員数を調整して割り振られた。
この新制度によって養成された搭乗員・空中勤務者(この呼称は陸海が譲らず共通とはならなかった)は昭和16年以降続々と実戦配備され、対英米戦での大きな力となっていった。
海軍は第一航空艦隊の編制にあたり、航空戦力の迅速な集中投入を容易にすることを目的として、所謂空地分離制度を採用し航空戦力と基地・母艦を切り離して運用することになった。
空母航空艦隊で運用される飛行部隊は機動部隊単位で航空群として扱われ、各航空群は即応部隊(母艦配備)、待機部隊、錬成部隊に別れ、即応部隊が消耗すると待機部隊と交替、即応部隊は錬成部隊から消耗分を補充し再編して新たに待機部隊とされた。
この制度により消耗した母艦航空隊は速やかに戦力を取り戻し、短い待期期間で新たな作戦の発動を可能としていた。
しかし昭和18年に第一航空艦隊が大西洋に進出した際、その待機部隊は日本本土から動かすことができず、艦隊が日本へ帰還するまでフロリダ半島空襲に至る一連の作戦で生じた搭乗員と機材の消耗の回復はできなかった。
このため戦力が低下した一航艦の大西洋での作戦期間は短期的なものとなり、英米間の交通破壊や連合軍解体への打撃は徹底を欠いたものとなり、同年に行われた枢軸同盟による英本土上陸作戦での苦戦に繋がっている。
米西海岸上陸作戦の際には、輸送空母に一航艦機動部隊の待機部隊の一部を戦力補充のため載せて長期間の作戦行動に対応したが、その結果本土に残った待機部隊の員数が減少し、母艦航空戦力の大西洋への再進出のスケジュールに遅れが出ることになった。




