機動輸送艦
機動輸送艦
昭和4年、天龍型軽巡2隻は完成から10年余りながら既に第一線で使用するには能力不足且つ艦型狭小のため改装等による能力向上も望めないとされ、海軍艦政本部は翌年のロンドン軍縮会議を睨んで両艦を巡洋艦籍から外し陸戦隊の緊急展開用の兵員輸送艦として改造することを決定した。
改造点として先ず第一に主砲2門を残しそれ以外の兵装をほとんど撤去し、代りに大型上陸用舟艇(全長18メートル最大速力12ノット満載排水量32トン、積載量最大16トンもしくは兵員120名)を艦後部に2隻搭載し艦尾のスロープから発進させる能力を付加した。
艦内には陸兵用の居住区を設置し、内南洋やアジア全域への兵員輸送を可能とするため主缶の一部を撤去し燃料漕を増設した。缶撤去により最大速力が19.5ノットに低下した代償として、航続距離が増大し14ノットで13,000キロの航海が可能となった。
主砲は艦橋前後に14センチ単装砲をそれぞれ1基計2門、そのほか13ミリ連装機銃2基爆雷30個を搭載、水中聴音機も装備して輸送任務の他対潜水艦任務や輸送護衛任務への転用も考慮されていた。
天龍・龍田は巡洋艦籍を離れた後も艦名は従来のままで運用されている。
当初は輸送特務艦とされていた2隻がはじめて実戦に投入されたのは第一次上海事変における陸戦隊の緊急増派作戦だった。
両艦は便宜上呼称を機動輸送特務戦隊として編成され、事変勃発寸前に300名の兵員と重火器及び補給物資を佐世保から上海に急送した。
輸送艦としての初陣ともいえる上海事変において、天龍型は輸送作戦においては期待通りの実績を残した。
しかし戦闘の激化により陸戦隊の依頼で沿岸部での戦闘の支援作戦を行った際、種々の問題が生じ充分な支援戦闘を実施することが出来ずいくつかの課題を改善項目として抱えることになる。
特に問題視されたこととして、地上部隊との連携において双方の通信設備等の不備から円滑な連絡が取れず作戦の遂行に支障をきたしたことが上げられる。
陸戦隊からの支援砲撃の依頼は戦隊司令部に届くまでに幾つもの部署を経由することになり、迅速な火力支援実施の大きな障害となった。
また砲撃の際の弾着観測についても同様の理由から艦からの目視でしか確認できず、友軍への誤爆になりかけたことも何例か数えられている。
水上機母艦能登呂の所属機を使っての観測も途中実施されたが、こちらも通信環境の不備から充分に機能したとはいえなかった。
当時天龍と龍田の主砲弾は対艦用の榴弾しか準備されておらず、敵地上戦力に対して有効な打撃を与えていないことが事変後の調査により明らかになった。
上海事変の拡大に伴い陸戦隊は大きく戦力を増強、膠着する戦局の打開を企図し天龍・龍田の搭載上陸用舟艇による敵陣後方への舟艇機動作戦を実施した。
中国軍の意表をついたこの作戦は戦術的奇襲となり、作戦方面における中国軍の潰走に繋がった。
その一方で内火艇を改造した上陸用舟艇は、重火器の揚陸や重武装の兵員の急速上陸においての能力不足を用兵者から指摘される。
上海事変は拡大する満州事変を覆い隠す為の策謀として一部日本軍関係者により引き起こされたものとされている。
上海は各国の治外法権区域である租界が市街の大きな部分を占めるため、日本軍にとってそこを戦場とすることは戦力や戦術面において大きな制約があった。逆に中国にとって上海の特異性は、日本を政治的軍事的に打ち破る大きな可能性を秘めていた。
上海事変に一貫してかかわった海軍陸戦隊及びその母体である日本海軍は、これに対して大きな危機意識を持つことになる。それは陸戦隊戦力の拡大へとつながり、戦術面や運用面さらに装備する兵器に於いても検討が進められていく。即応戦力の拡大と緊急展開力の強化が海軍と海軍陸戦隊に求められていた。
同様の問題意識が陸軍にもあり、そこから陸海軍に生まれた変革が第二次上海事変において確かな成果を見せていく。