決戦空母
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決戦空母
昭和6年に勃発した満州事変と翌年の満州国建国により、日本と米国の国際政治における関係性は悪化していく。
中国市場への経済進出を進め門戸開放の掛け声のもと満州市場への参入を求める米国にとって、満州を軍事的政治的に支配し市場の独占を計る日本の存在は許しがたいものだった。
終わりの見えない日本と中国の対立の陰に米国の援助と使嗾が明確に存在していることで、国力の隔絶から米国との対立を忌避していた日本政府にも、近い将来での日米の軍事対決を視野に入れた国家運営を司る機運が高まっていく。
昭和14年に起こった日中の軍事衝突での空母航空隊の活躍により、日本海軍の戦術戦略は転換期を迎えた。
航空主兵を根幹とした新たな構想により、海軍の建艦、用兵思想は大きく変革されていった。
同年9月の世界大戦勃発により米国の外交は、ドイツと親密な関係にあった日本を枢軸国の一員として敵視する政策を剥き出しにする。
日本政府は間近に迫る日米軍事対決を前に、国家の骨格を総力戦に向けた体勢へと移行を計る。
その一環として海軍は航空主兵による日米対決に向け建艦計画を大きく書き換え、更に各種艦艇を大量に追加建造することを決定した。
海軍は米国との開戦が昭和17年中盤になることを前提として艦隊の拡張を計画していた。
海軍は日米の戦いが立案された戦争計画通り順調に進んだ場合でも、戦争は短期間では終わらず最速でも終結まで2年以上かかるとの予測を立てていた。
従来の海軍の建艦計画では、戦闘の主力となることを期待されている航空母艦の保有数は開戦を予定している昭和17年中盤に米軍の保有数の3倍、搭載機数でもほぼ2倍となり圧倒的な優位を確保するとされていた。
だが昭和18年中盤から19年に入ると米国の強大な工業力がその力を発揮し、19年中盤には空母の保有数で拮抗し搭載機数では逆転され日本は戦闘での優位性を失うと予測された。
日本が米国に勝利するためには、昭和19年に入っても空母航空戦力の優位を絶対に維持する必要があった。
海軍艦政本部が出した答えは、工程数を削減し短期間で完成する簡易型空母の大量建造だった。
この計画が成立した前提として、空母用カタパルト開発の成功があった。
元来海軍は空母用カタパルトの開発に積極的ではなかった。
他方陸軍では上陸用舟艇母艦である特殊船に航空機を搭載する計画が進んでいたが、航空機の大型化に伴い低速の特殊船では新型の機体の発艦は難しく、問題解決のためにカタパルトの使用が必要との結論に達していた。
もちろん陸軍にはカタパルトの運用経験も開発技術も全く実績がないことから、水上機用カタパルトを運用している海軍に対して開発依頼が出されることになる。
海軍では空母用のカタパルト開発もそれなりに行われていたため、陸軍からの予算がついたことにより開発が進捗し、昭和14年中には技術的な問題を解決し試作型の作動テストに成功していた。
陸軍用に開発していた圧搾空気を利用したカタパルトを簡易型空母に採用することで、低速で飛行甲板の短い空母でも大重量の新型艦載機の運用に目途がついたことから、海軍は大量建造された簡易型空母で編制した機動部隊を大型戦闘空母を主力に編成された高速機動部隊の後方に置き、双方の艦載機の総力をもって米軍の機動部隊に対する数的優位を保つ戦略を採用する。
海軍が建造した量産型空母は姫路型空母と呼ばれる。
量産空母の原型とすべく全面的に設計を改めた日進型空母をベースに、その工数を大幅に減らした回天型空母2隻が建造される。
その回天型空母の工程を更に簡易化し、電気溶接を多用するブロック建造方式を採り入れて工期を短縮した安土型空母は、ほとんどの艦の工期が10か月前後となり最短8ヶ月で完成した艦もあった。
機関は駆逐艦用のものを転用し、基準排水量14,800t、機関出力52,000馬力で最大速力25ノット、航続距離は16ノットで17,500キロとなっている。
一層式の格納庫はほぼ艦の全長一杯を使い搭載機は常用36機補用6機、カタパルトは2基搭載した。
武装は98式40口径7.5センチ連装高角6基12門と35ミリと25ミリの対空機関銃多数を装備した。
昭和17年中に姫路・仙台・松本・松江・金沢・福岡の6隻が完成、翌18年の8月までに江戸・大坂・名古屋・安土・熊本・川越が戦力化され、この全艦が8月に開始された西海岸上陸作戦に参加している。




