落日の帝国
二度あることはサードインパクト
昭和18年6月の赤軍クーデターによりソビエトに成立した軍事政権は、直ちに軍事行動を中止し枢軸国との間での停戦交渉に入った。
モスクワを半包囲していた枢軸軍だったが、モスクワを中心に環状に幾重にも構築されたソ連軍の防衛線に手を焼いており、攻略戦の長期化は必至の状況になっていた。
英米との戦いが控えている枢軸国は、ソ連の新政権との間に休戦条約を締結しモスクワ包囲陣を解き兵力を後方に引き下げる。
日本軍もサハリンと満ソ国境地帯や沿海州を除くソ連領から撤兵し、ソ連新政権と枢軸国は講和条約の交渉に入った。
枢軸国にとってソ連との講和交渉は喫緊のものではなかった。
停戦条約が発効した時点で、それ以降の交渉は些事と言ってもよかった。
英米からの支援が途切れ欧州側の領土を大幅に削られ国力が減衰したソ連は、もはや枢軸側にとっての脅威とはならなかった。
英米との、いや既に英国は枢軸海軍による海上封鎖により連邦諸国との連絡線を絶たれ死に体となりつつあった。
豊かな資源と他国を圧倒する強大な工業力を誇る国土を太平洋と大西洋によって守られた超大国アメリカ合衆国、この国を屈服させ有利な条件で戦争を終結することこそが日独伊枢軸3か国にとっての大命題となっていた。
枢軸3か国は、アジアからヨーロッパ、アフリカと世界各地に拡がっていた戦線の整理に入った。
日本軍は海空戦力を消耗したうえ海上交易路をなかば封鎖され脅威度が大幅に減じたオーストラリアに対峙していたソロモンニューギニア方面の陸上戦力を縮小した。
東南アジア方面でも即応部隊をフィリピンとビルマに置き、他の地域は治安部隊のみを残して戦力を引きあげる。
インド方面では、補給を断たれ海空戦力を消耗した英印軍の守るインド大陸への侵攻は行われず、セイロン島に戦力を残しインド国民軍による武力闘争を支援するだけにとどまった。
インド洋から紅海に続く一帯では海上交通の確保に必要な戦力が配置されたほかは、補給を断たれスーダンやエチオピアに押し込められた連合軍へ対応する部隊を駐留させただけだった。
ジブラルタル海峡を枢軸側が占領し根拠地化したことにより、連合軍のアフリカ西岸からケープタウンを経由しインド洋へと向かう航路も事実上遮断されたも同然となったため、マダガスカルに配備されていた海空戦力の多くもその役目を終えて引きあげられている。
ソ連領内に侵攻していた枢軸軍は休戦以降、休戦ラインでソ連軍と対峙する部隊と占領地の治安維持部隊を除く大半の部隊を本国に戻し再編成に入った。
北アフリカや中東においても同様に治安部隊を残してほとんどの戦力が引きあげられていく。
英仏海峡を挟んで続いた連合軍と枢軸軍の航空戦は、東部戦線から移動してきた航空部隊が加わったことにより一気に形勢が枢軸側に傾いた。
パナマ運河破壊で東西両岸の交易が停滞したことにより、米国の航空機生産は重爆撃機の生産数が損害による消耗に全く追い付いておらず、その他の機種についても十分な供給体制ができていなかった。
それに加えて大西洋では、枢軸海軍の交通破壊戦により多数の輸送船団が被害を受けており、英国の航空機生産も必要な物資の不足により大きく減少していた。
熾烈な英本土での航空戦により連合軍の航空部隊は補充を損耗が上回る状況が連日続き、枢軸側の優勢は揺るぎないものとなっていた。
日本軍を主力とした枢軸軍によるアイルランド攻略の欺瞞情報は、当然ソ連だけではなく英米にも伝わっていた。
英米は現地民による抵抗運動が続くアイルランドへ大兵力を増派し、枢軸側の上陸作戦に備えていた。
昭和18年8月8日、オアフ島北西1,200キロを哨戒飛行中のB-24は航空母艦から飛来したと思われる戦闘機と交戦、接敵の通信を送った後消息を絶った。
続いてハワイ西方ミッドウェイ島付近で哨戒中の米潜水艦から、東方に進路を取る大規模な輸送船団を発見の報告が太平洋艦隊司令部に上がった。
翌朝、オアフ島では開戦以来3度目になる日本海軍航空部隊の攻撃が始まった。




