ロンドン軍縮会議2
ロンドン軍縮会議2
ロンドン軍縮条約が発効した影響で大型艦の建造が減少したことを機会に、従来なおざりにされてきた補助艦艇の充実が図られることになる。
その中には先に述べた空母転用予定艦なども含まれるが、その多くは八八艦隊計画や条約型巡洋艦の建造ラッシュによる予算的制約から建造を見送られてきた給油艦等の各種特務艦や掃海艇、敷設艇や、第一次大戦でのドイツ海軍の通商破壊戦により顕在化した潜水艦の脅威に対処する各種の護衛艦艇だった。
そのうち要求される排水量や性能にそれほど差の無い敷設艇や掃海艇などについては、船体や機関部を同一規格のものにすることで調達費用の削減や量産性整備性等の向上などが図られることになる。
上記の目的を達成するために計画されたのが、太平洋戦争中の日本海軍の船団護衛戦力の中核を占めることになる海防艦の原型となった800トン級の船体である。この船体は全長78メートル最大幅8.8メートル、ディーゼル機関を積み出力4,500馬力で最大速力20ノット、航続距離16ノットで14,400キロの航続力をもち、兵装はそれぞれの艦種に合わせて艤装できるよう考慮された船体設計となっている。
この船体を使用して建造された艦艇は、掃海艇、敷設艇、そして船団護衛用に計画された新艦種の海防艦などである。これらの艦艇は艦種によって違いはあるが主兵装に12センチ高角砲を2〜3門を搭載し、その他の対空対潜兵装についても従来の同種の艦艇に較べて充実したものとなっている。
ロンドン条約が締結された結果駆逐艦の排水量が制限されてしまったことを受け、条約の枠外で排水量以外は無条件に設計でき且つ無制限に建造できる600トン以下の艦艇が注目されることになる。
軍令部から艦政本部に対して出された性能要求である速力30ノット、14ノットにて航続距離5,500キロ、12,7センチ砲3門、53センチ魚雷発射管4門という要求値は排水量に対してあまりにも過大であり、艦政本部からは艦の重心上昇による復元力の低下を避ける為に要求値を下げるよう軍令部に対して変更が求められた。
将来の対米戦を見据えて水雷戦戦力の向上を図る軍令部にとって個艦性能の低下は認めがたいところであり、要求性能値を巡って一時期軍令部と艦政本部は激しく対立することになる。
対立を解消すべく艦政本部から新たな提案がなされたのは昭和6年5月になってからである。
「将来的に(具体的には戦争の可能性が避けられなくなった時点もしくは戦争時)艦を延長することによって要求された性能を満たす」という提案で、それまでは低速弱武装で運用するとなっていた。
改造前の要目は基準排水量600トン全長68メートル最大幅8.8メートル、機関出力11,000馬力で最大速度26.5ノット、航続距離は14ノットで5,500キロ、兵装として12センチ平射砲2門13ミリ連装機銃2基53センチ3連装魚雷発射管1基とされていた。
拠点防御や大陸沿岸部で使うには十分ではあるが、本来の目的である艦隊決戦における水雷戦力の補完という意味ではもちろん性能不足なものだった。
これを改造後には基準排水量980トン、全長95メートル最大幅9メートル、機関出力22,000馬力最大速力33ノット航続距離16ノットで12,000キロ、12センチ単装高角砲3基3門13ミリ連装機銃4基と53センチ3連装魚雷発射管2基6門と小型駆逐艦相当の戦力を持つ艦とする計画が提案された。
この計画の根底となる部分に巡洋艦加古の長期に亘る試行錯誤のうえに確立されたシフト式の缶室・機関配置がある。
即ちそれは(缶室+機関)+(缶室+機関)という機関配置を水雷艇に導入し、改造前の600トン艦の時点では1組の(缶室+機関)を積み、改造後はあらかじめ船殻の中に組み込まれたもう1組の(缶室+機関)を用意し、水雷艇を機関部の手前で切断してそこに差し込むことで全長を延長し機関出力の増大とともに各種兵器の搭載スペースを作ろうという構想だった。
計画を実現する為のハードルのひとつに、従来の建造工程では造船所によって同型の艦といえども工程が違っていたり部品が同一のものでなかったりすることがあった。
従来のままでは新たな機関部を差し込む工事が非常に困難になり、新造艦艇を作るのと大して手間が替わらないものになってしまうことが予想された。
その対策としてどの造船所でも同じ工程での建造ができることを目指し、平易な作業手順書の作成と活用、技術交流による各造船所間の建造技術の平準化、および同じ精度の部品をどの造船所においても無理なく使用できることを目的とした部品の規格化が進められた。
さらに改造工事に際して電気溶接を多用するため、軍民でその技術力を向上させることが進められた。
この水雷艇増設計画から副次的に発生したものにブロック建造法式の確立がある。後日装備の機関部分はそれ自体を独立したひとつの区画として造り、それを他の区画に溶接によって組み付ける構造になっている。
それを通常の艦艇の建造にも応用し船体をいくつかの区画に分けそれぞれを同時平行して組み立てていき、最終的にそれぞれの区画を溶接接合してひとつの船にする建造方式が考案され、新たな艦船の建造手法として取り入れられることになる。
600トン級水雷艇は千鳥型水雷艇として12隻が建造されたが、結局のところ当初計画されていた武装と機関の増強は条約の失効および戦術面での変化を受けて実現されること無く終ってしまう。
昭和12年に起こった第二次上海事変で千鳥型水雷艇は次級の鴻型とともに実戦に投入され、低喫水と使い勝手の良い兵装により大陸沿岸部から長江下流へとその性能を活かし存分に活躍している。
千鳥型と鴻型を合わせて鴻型20隻が建造された600t級の水雷艇は、沿岸作戦や根拠地防衛といった局面での使い勝手の良さから用兵側の評価も高かったが、遠距離航海においての航続距離の短さや居住性の低さに加えて、速力が低く攻撃力が小さいことからで有力な敵艦艇との戦闘には不向きであるとの声が上がっていた。
その声に応えて昭和14年に始まった④計画において、小型駆逐艦的性格で汎用性の高い熊鷹型水雷艇が建造された。
16隻が建造された熊鷹型は千鳥型の初期計画での最終仕様をもとに再設計され、基準排水量1050トン、全長98メートル最大幅9.5メートル、機関出力22,000馬力最大速力33ノット航続距離16ノットで12,000キロ、12センチ単装高角砲3基3門35ミリ連装機銃4基と53センチ3連装魚雷発射管2基6門と小型駆逐艦相当の戦闘力を持ち、船団護衛から対潜掃討作戦、さらには前線の輸送護衛任務での対艦対空戦闘にも投入される汎用性の高さを持っていた。