日ソ開戦
the last straw
満ソ国境ノモンハンで起こった戦闘は、ポーランド侵攻を控えたソ連の譲歩により日本軍優勢のまま停戦となった。
その後も極東方面での日ソ間の軍事的緊張は継続していたが、昭和15年末の近衛政権発足後から日独の関係深化を望む政権の意向で、独ソ不可侵条約の後を追うように日ソ中立条約の成立が急がれた。
この動きは独ソ戦の勃発と近衛内閣の退陣、対ソ強硬派の陸軍大将永田鉄山が政柄を握ったことにより立ち消えとなり、極東での日ソ関係は対立的なものへと戻っていく。
独ソ戦がドイツ優位で進むなか、陸軍は満州への兵力増派を行いソ連軍極東戦力の欧州方面へ移動に制約をかけようとした。
関東軍冬季特殊演習と呼ばれる昭和16年10月から11月にかけて満ソ国境近くで行われた大演習も、ソ連軍を牽制し独軍のソ連侵攻を間接的に支援する行動の一環だった。
ソ連軍は独軍のモスクワ攻略を、厳寒期の早い訪れと独軍の補給停滞によりかろうじて防ぐことができたが、兵力の不足から退却する独軍への追撃は不徹底なものとなった。
昭和16年12月の日米開戦によって引き起こされたパナマ運河の破壊と日本軍のインド洋侵攻により、北極海以外の連合国援ソ支援物資の輸送ルートを塞がれたことで、翌年に入ってからのソ連軍の反抗は精彩を欠き、各所で独軍の反撃を受け大きな成果を出すことは無かった。
ドイツ軍の夏季攻勢は、ソ連の輸送網の結節点であるスターリングラードと、カフカスの資源地帯の攻略を主目標として始まった。
兵力、兵器、補給物資のいずれもが不足するソ連軍は、各戦線で枢軸軍に押し込まれていく。
スターリングラードは枢軸軍の包囲下に弾薬食糧が枯渇、絶対死守を叫ぶ守備隊司令部は兵の反乱により打ち倒され、10月に枢軸軍包囲下の30万のソ連軍スターリングラード防衛軍は降伏した。
カフカス方面での独軍は交通の難所カフカス山脈を扼するソ連軍に手を焼くが、トルコ参戦により黒海からグルジアに侵攻した独伊軍がソ連軍の後背地を襲いこれを退却させた。
中東から攻め上がってきた独伊軍と合流し石油都市バクーを占領した枢軸軍は、4月に入り南部方面枢軸軍の総力をもってモスクワ後背へ向けて進撃を開始する。
同時に北方からはレニングラードを陥落させた北方軍集団とフィンランド軍が、モスクワに向けて南下を始める。
ソビエト政権首脳はウラル山脈に近い軍事都市モロトフに首都機能を移転する。
ソ連情報部は日本の諜報員からの報告により、日本軍を主力とした枢軸軍がアイルランド攻略を計画し、そのため満州方面の大兵力を欧州に移動させるという情報を掴む。
満州方面の現地諜報員からも、実際に関東軍が極秘裏に移動を開始しているとの情報があがっていた。
情報部からの報告により、ソ連軍はモスクワ防衛のため極東方面兵力の移動を決定した。
モスクワ周辺は要塞化され、極東方面を含めたソ連全土からかき集めた兵力を集中、スターリンは首都モスクワを枢軸軍との決戦の地とした。
昭和18年5月12日、日本政府はソビエト政府に対し宣戦布告、120万の兵力を展開して極東ロシア、沿海州、サハリンへの地上侵攻を開始した。
大本営情報課は、内偵によりソ連協力者とされている新聞記者や政党関係者に、アイルランド攻略の欺瞞情報を工作員を通じて渡していた。
その情報がソ連諜報員のもとに確実に届いたことを確認したのち、満州の関東軍は部隊移動の欺瞞行動をとる。
それにより、実際には関東軍に向けて日本本土からソ連侵攻のため多数の部隊が移動していたが、事情を知らない外部から見ると大部隊が満州から転出しているように見せかけていた。
精鋭部隊のほとんどをモスクワ防衛に引き抜かれた極東ソ連軍は、日本軍の侵攻に対し緒戦では激しく抵抗したものの、航空戦力が壊滅しウラジオストックが海軍陸戦隊による奇襲上陸により占領されると、全域で潮が引くように退却を始めた。
ソ連軍は追撃する日本軍に捕捉されるとほとんど抵抗することも無く次々と降伏し、作戦開始からわずかの間に沿海州から極東ロシアは日本軍の占領下に入った。
日本の対ソ参戦は、相次ぐ敗北に打ちのめされているソ連軍にとって最後の藁となった。
モロトフ市で起こった赤軍のクーデターにより、スターリンをはじめとしたソビエト共産党幹部のほとんどが死亡、ソ連軍を主体に成立したソ連の新政権は枢軸国との講和に動き始めた。




