ロンドン軍縮会議1
ロンドン軍縮会議1
ロンドン軍縮条約で主力艦以外の艦艇にも規制が及び対英米戦力で大きく遅れを取ることになった影響から、海軍は戦力の劣勢を挽回すべく条約の枠外にある艦艇での戦力増強を意図して各種艦艇について検討を行った。
その結果、将来的な空母化を前提として排水量10,000トン以下速力20ノット以下の特務艦枠での水上機母艦・潜水母艦・高速給油艦の建造を始めとして条約枠内での多種多様な戦闘艦艇が建造されることになった。
10,000トン級の特務艦は将来の空母化の際その工事が煩雑になることを避ける為、最上型軽巡と同様に汎用性を持たせた基本設計を元にそれぞれの用途に合わせた艤装を施すよう計画され、水上機母艦3隻と潜水母艦1隻高速給油艦2隻の合計6隻が建造されることになる。
これらの艦の船型は、ロンドン条約締結後建造された2隻の空母の内の一隻である飛隼の設計を流用し改設計された。
飛隼は龍驤に続いて建造された小型空母で、基準排水量10,500トン全長198メートル最大幅18.9メートル速力30.5ノット航続距離16ノットで13,600キロ、格納庫は2段で搭載機は常用33機補用9機(分解格納)の42機、対空兵装は12.7センチ連装高角砲2基4門と25ミリ連装機銃を10基装備する。
最上型と同様兵装・防御を増強できるよう設計されおり、条約明け後高角砲を連装2基4門が搭載された他機関砲や射撃式装置等も追加装備された。
各艦の改造後の要目はこれに準ずるものになる予定だったが初期建造の5隻は計画の数値で納まったものの、遅れて建造された1隻とその後当初から空母として追加された1隻は装備の変更や性能向上のため新たに設計がなされ若干大型化している。
初期型5隻のうち最初に起工されたのは潜水母艦大鯨である。
①計画の追加で昭和8年に横須賀海軍工廠で着工された大鯨は基準排水量10,000t水線長211.12m水線幅18.07mで当初は艦本式11号10型ディーゼルエンジン4基2軸14,000馬力を搭載し最大速度20.0ノット航続距離18ノット18,000キロの航行性能を予定されていた。
しかし艦政本部においてこの新開発の大型ディーゼル機関について技術的な熟成が充分でなく信頼性に欠けるとの声が多く上がり、時期尚早として採用を見送ることになった。
ディーゼル機関に代わって搭載された艦本式主缶2基とタービン2基により出力18,000馬力最大速力は20ノットとなった。
大鯨の船体工事には電気溶接が多用されたが、溶接技術が未熟で不具合がいくつも発生しており、建造中に起こった第4艦隊事件により船体強度の見直しが行われた際に溶接工程の大幅な変更に至った。
工程の見直しと船体強度確保のための大規模な補修工事の結果、大鯨は当初予定していたものより大幅に排水量が増加することになった。
昭和15年に入り大鯨は、当初の計画通り航空母艦に改造される。
主缶2基を増設するとともに全通式の飛行甲板と2段式の格納庫を設置し、小型空母飛隼に準ずる軽空母として蒼隼と命名され昭和16年10月に就役した。
大鯨に続き②計画で水上機母艦として昭和9年に呉工廠と横須賀工廠で千歳と千代田が建造された。
この両艦は水上偵察機24機を搭載、ロンドン条約の規定により射出機は搭載されていない。機関部は大鯨に準ずるものとなっており、速力や航続距離等も大鯨と変わらない。
水上偵察機は上甲板と艦内の格納庫にそれぞれ12機収容された。千歳型の搭載機格納部は当時海軍でも使用されていた陸軍開発の上陸用舟艇である大発動艇の運用も考慮された設計となっており、その際にはリフトで大発を上甲板に揚げデリックを用いて海上に泛水するようになっていた。
千歳型には水上機母艦としての機能以外に、当時開発が進んでいた特殊潜航艇甲標的の母艦とする案や給油艦としての機能を持たせる構想があったが、将来的に航空母艦への改造が確定していたこともあってそれらが採用されることは無かった。
水上機母艦としての両艦はそれぞれ昭和10年に進水したが、同年に起こった第4艦隊事件により工事が中断し、その対策を経て完成就役したのは昭和12年に入ってからのことだった。
就役して間もない同年9月に勃発した第2次上海事変を戦った両艦は、昭和14年に起こった第三次上海事変における居留民の上海脱出作戦での活躍後航空母艦への改造工事に入った。
昭和15年に千歳が、翌16年初めに千代田がそれぞれ空母化改造工事を終え、速力30ノット搭載機常用33機補用6機の有力な小型空母として海軍空母機動部隊の一翼を担うことになる。
前期型5隻の空母改造予定艦の最終グループとなった高速給油艦高崎と剣崎は②計画により昭和10年に呉工廠と横須賀工廠でそれぞれ起工された。
その後まもなく発生した第4艦隊事件により両艦は進水後工事が中断され、1年以上に亘って放置状態が続いた。
両艦の建造の再開は昭和12年に入ってからとされたため、当初の予定されていた高速給油艦としての建造は取りやめとなり、全通式の飛行甲板を持つ航空母艦兼給油艦として再設計され昭和13年と14年にそれぞれ完成就役した。
この両艦が航空母艦でありながら給油機能を持つことになったのは、その当時構想されていた超重雷邀撃戦術に基づいて整備される水雷強襲艦戦隊の航空偵察の役割を持たせつつ、戦隊を長駆戦闘海域に急行させるための随伴給油艦として運用するためだった。
中期型の水上機母艦として完成するはずだった1隻は、条約明け後すぐに空母に艦種を変更して建造され昭和14年に完成就役している。
昭和12年に神戸川崎造船所で起工された瑞穂は基準排水量12,500トン全長205メートル最大幅19.4メートル速力29.5ノット航続距離16ノットで14,200キロ、搭載機数常用36機補用6機計42機、対空兵装は改装後の飛隼に準ずる。
後期型として当初から空母として③計画により建造が予定されていた日進は、基準排水量13,500トン搭載機数常用補用計48機と更に大型化が進んだ設計だった。
昭和14年、第二次世界大戦の勃発による国際情勢の急変により、海軍艦政は艦艇建造計画の大幅な見直しを図る。
第三次上海事件における上海航空戦によって、空母航空隊の優越性を認識した海軍は、航空母艦の大増勢に踏み切る。
安価に建造できる空母の大量建造によって、対米海上航空戦力優位を実現する方針が定まったことにより、日進はそのプロトタイプとなるべく当初の設計を大幅に変更されることになる。
これらの空母改造予定艦と共に当初飛隼の同型艦1隻が計画されていたが取りやめとなり、同時期に計画されていたそれ以降の大型空母の基礎となる近代的な設計の日本海軍初の正規戦闘空母蒼龍の姉妹艦として飛龍が追加建造された。
この艦は起工自体が条約明けになることから、蒼龍から大幅に変更された設計となり排水量も増加している。
尚この時期空母改造予定艦が多数計画されたのは、室戸沖事件の影響を受けて戦艦や巡洋艦から航空兵装を降ろし空母搭載機に偵察哨戒弾着観測等の任務も持たせる構想が具現化しており多数の空母が必要となるとされていた為である。