パナマエフェクト
パナマエフェクト
1920年に本格稼働を始めたパナマ運河は、アメリカ東海岸の工業製品を西海岸の大消費地に送り、カリフォルニアで産出する原油などの資源を東海岸に送るための交通路として建設された。
西海岸の工業の多くは、南米大陸回りの航路の三分の一の距離で東西両岸を結ぶパナマ運河に依存して発展してきた。
パナマ運河が日本軍の攻撃で破壊され通行不能になったことで、アメリカ両岸間の交易は3倍の船舶と乗員と燃料が必要となった。
実際にはイギリス向け航路に多数の船舶が必要であった上、南米周りで航海できる商船も限られているため、それまでの両岸間の交易量の維持は当面叶うことはなかった。
東西間の物流の減少を鉄道や貨物自動車による輸送でカバーすることは、鉄道輸送は船舶輸送の十分の一以下の効率で、車両輸送はそれをさらに下回ってしまうため到底能わなかった。
パナマ運河破壊による物資の不足から、西海岸の工業生産は大きな痛手を蒙ることになる。
アメリカ政府は運河の早期の復旧を計るとともに、貨物船の増産、東西間鉄道輸送の増強、西海岸と繋がる道路網の整備拡張を急いだ。
その結果、第二次世界大戦参戦による総力戦体制移行に必要な物的人的リソースのうちの多くをパナマ運河対策に割くことになり、それは連合国による欧州反攻スケジュールの遅れに直結していた。
ハワイの太平洋艦隊が無力化されたため、日本軍によるアメリカ西海岸攻撃や米本土上陸の恐れが現実味を帯びてきたことも、アメリカ政府と軍にとっては大きな問題だった。
アメリカ西海岸では日本軍のハワイ・パナマ攻撃の結果、西海岸への日本軍上陸に対する恐怖から多くの都市住民が恐慌状態に陥り、海岸沿いの都市から大量の住民が逃げ出したり、暴徒による略奪が発生するといった騒動が起こっていた。
欧州反攻のために用いられるべき兵力の多くを西海岸防衛に振り向けなければ、アメリカ国民のアメリカ政府や軍に対する支持が失われる恐れがあった。
大量の爆撃機が欧州に向けられず、いつ来るやも知れない日本艦隊の捜索と攻撃のため西海岸各所の飛行場に張り付けられ、多くの戦闘機部隊も西海岸防衛に回された。
日本軍によるパナマ運河への再攻撃の可能性も高く、パナマへも陸海空の守備兵力を増強せざる得なかった。
開戦直後から日本海軍は、東太平洋で積極的な潜水艦による交通破壊戦を始めていた。
単独で航海する貨物船が狙われ、次々と沈められていく。
日本海軍はこの方面に2隻の新鋭潜水母艦と20隻を超える潜水艦を投入し、長期にわたる交通破壊戦の体制を構築していた。
アメリカ海軍は東太平洋アメリカ沿岸での船舶被害を放置することはできないため、日本艦隊警戒のための航空部隊とは別に南北アメリカ西海岸各所に対潜哨戒基地を建設し、多数の航空機、艦艇の配備を行わざる得なかった。
また米海軍は独航船による貨物輸送では潜水艦による被害を防げないとして、太平洋へ向かう輸送船に護送船団方式を導入した。
その結果西海岸への船舶輸送効率が低下するとともに、大量の船舶が一度に入港するため港湾での荷卸しの遅滞を招くことになった。
日本軍の二つの奇襲攻撃により、連合軍はアジア太平洋での日本軍の侵攻に対し打つ手がなく、東南アジア植民地の殆んどを失ってしまう。
一方大西洋では、ドイツ海軍による交通破壊戦による被害が留まるところを知らなかった。
また地中海・北アフリカにおいても、枢軸軍の攻勢に対し連合軍は劣勢を覆せないでいた。
この当時大本営直轄の戦略研究機関となっていた総力戦研究会は、様々な要素を検討したうえでアメリカの総力戦体制が完成し連合軍による本格的な反抗が始まるのは昭和19年4月以降になると判断していた。
その上で、国力で連合国に対し圧倒的に不利な枢軸国が今次大戦に勝利するためには、早期にインド洋、地中海、大西洋の支配権を握りイギリスを戦争から脱落させ、北米大陸の東西両岸からの攻撃でアメリカを屈服させ講和に導く戦略が最も可能性があると報告されていた。
インド洋に向け第2段階作戦が動き始めたのは、蘭印攻略が終わった昭和17年2月半ばだった。




