連合艦隊東へ
連合艦隊東へ
昭和16年1月、体調不良により辞任した米内首相に代わり、第2次近衛内閣が発足する。
中国大陸をめぐって日米関係が悪化していく中、近衛内閣はフランスを降し今やヨーロッパの覇者となったドイツとの関係を深めようとする。
さらにドイツに倣いソビエトとの間での中立条約締結を目指し、米英との対決路線をより一層進める。
軍部と政権内部ではドイツに対する不信感が根強く、近衛が結ぼうとしていた日独伊三国同盟は成立せず、防共協定の改定により三国の協力関係を深めるだけに終わる。
ソビエトとの中立条約は、交渉中にドイツ軍のソビエト侵攻が始まり立ち消えになった。
近衛首相は日米交渉によるアメリカとの対立解消に活路を求めたが、日本軍の仏印進駐を留めることができず、日米の対立は決定的なものとなった。
日本軍の仏印進駐が実施された結果、反発したアメリカやオランダからの石油輸入がストップする事態に近衛は政権を投げ出してしまう。
近衛に代わって、当時陸軍大臣の席にあった陸軍大将永田鉄山が総理大臣を拝命する。
永田は天皇の強い意向もあり日米交渉を続け対米融和を計るが、アメリカの日本に対する不信感は根強く交渉は難航した。
日本交渉団は中国占領地からの段階的撤退や防共協定からの脱退などの譲歩案を出すがアメリカの姿勢は変わらず、11月26日アメリカ政府は日本交渉団に対し日本軍の中国、全仏印からの全面撤兵、満州国否認などを要求した「ハル・ノート」を手交する。
日本は12月1日の御前会議で対米、英、オランダ開戦を決定し、日米交渉は決裂した。
昭和16年12月前後、世界大戦は独伊を中心とした枢軸軍優勢で動いていた。
イギリス海軍は独伊海空軍を相手に各地で出血を強いられた。
ドイツ海軍の戦艦ビスマルクは空母機動部隊の援護の下大西洋に出撃し英巡洋戦艦フッドを単艦撃沈、さらに英新型戦艦プリンスオブウェールズを空母グラーフ・ツェッペリンと共同で撃沈している。
イタリア海軍はマタパン岬沖海戦において重巡3隻を失ったが、英戦艦ウォースパイトを日本海軍から供与を受けた酸素魚雷による雷撃で撃沈する戦果を挙げた。
マルタ島をめぐる戦いでもイギリスは多数の艦船や航空機を失っており、アフリカ戦線では独伊軍の優勢が続き、日英関係の悪化にもかかわらず戦力不足からアジア方面の軍事力は十分ではなかった。
アメリカはアジアでの軍事力の優勢を保つため、フィリピンに戦艦ペンシルバニアとアリゾナを常駐させるとともに、ハワイ諸島オアフ島パール・ハーバーに太平洋艦隊の主力艦を配備した。
東部戦線では既にドイツ軍がモスクワ市街に手をかけようとしており、モスクワ前面のロシア軍防衛線で独ソ両軍が激戦を繰り広げていた。
ポーランド領の大半を占領していたドイツ軍は、ソビエト侵攻から2か月足らずでウクライナ地方を占領、8月中にはモスクワ攻略戦を開始している。
ソビエト軍は極東方面での日本との軍事対立のため、モスクワ防衛に十分な戦力を手当てできない状況が続いていた。
日本時間昭和16年12月8日、現地時間7日午前6時、ハワイ諸島オアフ島北方三七〇キロを第一航空艦隊第一機動部隊の艨艟が進撃していた。
途中で分離した駆逐艦2隻と油槽船4隻を除く、航空母艦9隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦24隻、油槽船4隻の大艦隊は、アメリカ太平洋艦隊主力が停泊する要衝真珠湾軍港に向け渾身の一撃を解き放とうとしていた。




