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烈海の艨艟  作者: 鳴木疎水
覇者の曙光
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新型巡洋艦2

新型巡洋艦2


 昭和4年9月第二艦隊第二水雷戦隊が太平洋四国近海で襲撃訓練後の帰投中に、訓練中に波浪により破損していた加古搭載の偵察機の燃料タンクから漏出した回収漏れの揮発油が、乗員の休憩中の喫煙で引火し偵察機に延焼するという艦上火災が発生した。

 この事故は室戸沖事件と呼ばれ、事件以降の日本海軍艦政に多大な影響を与えたものとして海軍史にその名を残すことになる

 この火災により加古は発射管内の魚雷が誘爆、機関室が損傷浸水する等の大事故に至る。

 一時は火災の延焼と浸水の増大の為艦の放棄も検討されたが、艦の動力が保たれていたことと乗員の適切な応急対策があってかろうじて喪失を免れた。

 加古が喪失を免れた最大の要因として、日本海軍の艦艇として初めて加古に採用された缶室機関室のシフト配置によって艦の動力の喪失が免れたことがあげられる。

 また乗員による応急措置についても検証され、艦艇の損傷修理のための応急員の増員および応急対策についての教本の見直しが行われた。


 この事故により安全性の面から艦艇に航空機を搭載することへの認識が改められ、その危険性が注目されることになる。

 航空兵装についてはその価値を大いに認めながらも、被弾時の燃料火災等のマイナス面(特に夜戦時の火災発生によって被弾が集中し指揮機能を喪失する可能性が問題とされた)が重視され、戦艦や巡洋艦への航空機搭載に対し疑問符がつけられることになる。

 また深刻な被害をもたらした艦内火災への対策として、消火用機器の増強に加え火災の延焼を誘発した塗料の引火性の改善が図られることになった。

 そのほか電路を伝わって火災が艦内各所に広がった現象についても問題視され検討の対象となった。

 魚雷の誘爆に対しては、用兵の側で大きな論争が起こることになる。

 つまるところ敵砲火が集中する水雷戦隊旗艦に、生残性を低くする可能性のある魚雷を積む必要があるか否かという問題である。

 そもそも艦隊指揮能力を維持するため旗艦となる巡洋艦の抗甚性を高める方向性で進んでいる中で、誘爆の危険性のある魚雷搭載はその目的に反しているのではないかという、加古が計画された当初からあった意見がこの事故を機に主流となっていった。


 昭和4年の室戸沖での事件後、加古は佐世保海軍工廠において事故による損傷の修理を行う予定だったが、加古の損傷状況が以降の建艦計画にも影響するような重大な要素を含んでいた為、艦政本部から徹底的な原因追及と損傷に対する検証が指示されることになった。

 加古を工廠の乾ドックに鎮座させたまま、ほぼ3ヶ月にわたって調査が続けられ、その後もドックから艤装岸壁に移動させる為の工事が行われただけで本格的な修理はその後一年以上も行われなかった。

 加古が改装も含めた修理に取り掛かったのは昭和6年4月に入ってからである。


 ほぼ1年半に亘った調査と検証、そしてその影響から起こった建艦方針の大幅な変更の結果により、加古はその艦容を大きく変えることになる。

 加古の大改装による変更点を列記すると、先ず雷装・航空兵装の全廃、主砲の60口径15,5センチ砲への換装と砲塔配置の艦前方部分への集中、高角砲の40口径12,7センチ砲への変更などが上げられる。

 防御装甲に対しては再度見直しが図られ、艦橋、主砲塔など主要部に再び対12センチ砲弾防御が施された。

 そのほか、機関・缶室部の防御力の強化や防水隔壁の見直し、艦内の不燃化とそれに伴う不燃系の塗料の開発、電線被覆の不燃化、被害極限のための応急運用教育の改革など、ハード面ソフト面で各種の施策が実施された。

 またもともとトップヘビー気味だったことに加えて主砲塔や艦橋その他の防御強化の為重量が増加したため、その対策として浮力増加の目的で舷側にバルジを増設、更に主砲配置の変更に伴い艦の重心が前方に移動した為、その対策として艦首部を前方に10メートル延伸させた。

 艦首部の改造の際に実験的に水中抵抗減少に効果があるバルバスバウを採用するとともに、従来のスプーンバウをクリッパー型艦首に変更した。

 動力関係にはほとんど変更は加えられておらず、排水量が1,700トン余り増加したことで速力は32ノットに低下した。

 大改装後の加古の主な要目を挙げると、基準排水量9,500トン・水線長185メートル・最大幅16.1メートル・機関出力85,000馬力・15.5センチ連装砲塔3基6門・12.7センチ連装高角砲4基8門で高角砲は艦橋後方の両舷にそれぞれ連装1基後部艦橋後方に連装2基を背負い式に配置、前述したように雷装・航空兵装(航空偵察や着弾観測等の航空任務は、専用の小型偵察空母を多数建造することで、全て航空母艦運用にする方針が採用された)がない代わりに指揮通信機能を強化しており、武装は砲撃戦用に特化している。

 総じてこの時期の艦艇としては、排水量のわりに対空攻撃力が強力といえるだろう。

 加古の修理改装が完了したのは昭和8年の6月で、その後半年あまりを訓練と運用実験に費やし、昭和9年2月連合艦隊に配属され二水戦の旗艦となった。

 その後最上型軽巡洋艦の数がそろうと全力発揮でも30ノット強という速度の遅さがネックとなり、旧式艦艇を中心に編成される第二線部隊の戦隊旗艦として運用されることになる。


 室戸沖事件後海軍の建艦方針は大きく変貌する。その最大の変化は水雷戦隊旗艦への魚雷装備の廃止だった。

 従来の水雷戦々術に於いて麾下の駆逐艦と共に実施していた戦隊旗艦による雷撃が否定され、水雷戦隊旗艦は水雷戦の指揮と指揮下の駆逐艦の雷撃を砲撃によって援護し敵直衛艦艇の排除に専念できるよう、誘爆によって指揮能力を喪失させる恐れのある水雷兵装を全面的に廃止することになった。

 水雷戦隊旗艦の雷装廃止は、主砲に匹敵する主兵装として大量の魚雷搭載を進めてきた一等巡洋艦の建艦方針にも大きな影響を与えることになる。

 加古搭載機の炎上に起因する艦上火災の発生は、当時進んでいた偵察能力の向上のための航空機の艦載化の流れに掣肘をかけた。

 第一に問題視されたのは機体火災による延焼被害だった。

 それ以外にも僅か二~三機の航空機を搭載するために艦艇の限られたスペースを使い、更に直接の戦闘力にならない多数の要員を乗艦させることの合理性に疑問符がつけられた。

 戦艦や巡洋艦に偵察機を積まなくても、航空機運用を専門とする空母や水上機母艦、あるいは飛行艇や陸上機でもその任務を代替できるのではないか。

 日本海軍は小型空母の大量配備による航空機の空母集中運用を、その答えとして見出すことになる。


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