隼鷹と雲龍
隼鷹と雲龍
ドイツによるポーランド侵攻によって始まった欧州の戦乱は、英仏の対独宣戦布告、ソビエトのポーランド・フィンランド侵攻と急激にその規模を拡大していた。
日本政府は昭和15年に予定されていた東京オリンピックの開催を断念し、その翌年の東京万国博覧会も開催を返上した。
万博は大きく規模を縮小して、日本と日本の海外領土、友邦であるタイ国と満州国、加えて日中紛争で日本が占領していた中国の地方政府が参加する形での東亜博覧会としての開催となった。
第2次世界大戦開戦当時、三菱長崎造船所では北米航路に就航する客船のフラッグシップとすべく海軍の助成を受けて豪華客船橿原丸が建造中で、神戸川崎造船所でも同型の姉妹船の出雲丸が建造準備に入っていた。
海軍は欧州での戦乱の勃発と中国満州国問題による日米関係の悪化から旅客需要が望めなくなるとして、同年9月末に入り両船の建造継続を断念した。
橿原丸は海軍による空母転用計画に基づき航空母艦として建造を続行することになる一方、出雲丸はこの時点ではまだ起工されていなかったため、急遽正規空母に計画を改めての建造が決まり、④計画艦の改飛龍型中型空母の同型艦として同年12月に起工されることになった。
橿原丸が客船として完成した場合の要目は総トン数27,700t載貨重量10,415t全長220メートル、幅26.7メートル主機関タービン機関 2基2軸56,250馬力で速力25.5ノットだった。
建造開始から半年ほどで客船としての建造は中断し、改めて空母として建造するための再設計が行われる。
橿原丸は建造が始まってから6か月足らずで改造が決まったため、工事の進捗度合いは小さく大幅な改良が可能として、海軍は空母化にあたって機関や主缶の変更を含んだ設計の変更に2か月余りをかけている。
その間工事はほとんど停止しており、空母としての建造が再開されたのは川崎で出雲丸に代わって中型空母が起工された時期とほぼ変わらなかった。
橿原丸の空母化にあたっては、本来客船として建造されたときにはそれほど重視されていなかった水密区画が当初設計より細分化された他、防御力についても中型空母飛龍に準ずるものとなっている。
航空機運用についても飛龍型に準じた設計で、2段格納庫に戦闘機18機艦攻18機、艦爆18機と艦偵3機、予備機各種10機を搭載できた。
機関と主缶を艦本式に改めた結果機関出力は104,000馬力で最大速度28.5ノットを発揮、航続距離は18ノットで18,000キロとなった。
この艦の外観を特徴づけるものとして煙突と一体化して右舷に独立した大型艦橋がある。
これは④計画で建造する大鳳型空母で採用した煙突一体型の艦橋を先行して取り入れたもので、排煙による気流の乱れが航空機運用の障害とならないよう船体外側に向かって傾斜した煙突になっている。
昭和16年12月、橿原丸を改造した航空母艦は完成し隼鷹と命名される。
神戸川崎造船所で出雲丸に代わって起工された改飛龍型空母は、元来の設計から変更して艦橋の位置を左舷中央から右舷前部に移動したほか、対空兵装他各種搭載機器を一部新型に改めている。
基本的な性能は重油タンクの拡大で航続距離が増加した以外は元設計の飛龍とほぼ変わっていない。
昭和14年12月に起工され16年1月に進水、翌17年3月に完成し雲龍と命名された同艦は2か月後の5月に艦隊に編入されている。
隼鷹と雲龍という有力艦の早期の戦力化は、世界規模に戦雲が拡がろうとする中で日本海軍の戦略に大きな影響を与え、洋上航空戦力を対米戦での主柱とする動きは加速されていく。
海軍は昭和14年から④計画をスタートさせており、③計画に続いて48,000t級高速戦艦2隻、18,000t級大型巡洋艦2隻、改最上型巡洋艦6隻と最上型を拡大した防空巡洋艦2隻、練習巡洋艦2隻、大鳳型大型装甲空母2隻、改飛龍型空母1隻等の建造が予定されていた。
空母や戦艦といった主力艦の多くは工事期間が長く、④計画で建造される艦の戦力化はその多くが昭和18年以降とされていた。
世界情勢の急激な変化に伴い、海軍は従来の戦力整備計画を前倒しで進め、航空戦力の増勢に拍車をかけた。
空母への改造が予定されていた千歳型と大鯨はいずれも予定を早めて、昭和16年の後半までにそれぞれ航空母艦へと改造されている。
巡洋戦艦改造の大型空母赤城と天城の装甲空母化の日程も繰り上げられ、両艦ともに昭和15年末までに改装工事に着手した。
昭和16年に入ると対米開戦に備えたマル急計画が組まれ、航空母艦の増勢が図られるとともに量産型駆逐艦や護衛艦艇、輸送艦艇や給油艦等大量の艦艇の建造が進められていく。




