鉄血の轍2
鉄血の轍2
第一次世界大戦の陸の戦いを象徴するものとして、戦車の登場や毒ガス戦、航空機の戦争利用などがあげられるが、最も特徴的なものと言えば長大な塹壕線とそれによって固定化された前線だろう。
幾重にも連なる強固な塹壕線をいかにして突破するか、一会戦で何十万発が消費される砲戦も毒ガスも戦車も、その全てが張り巡らされた塹壕によって半ば要塞化された敵陣を破壊し突破するための手段に過ぎない。
日本軍はこの大戦より前、満州の地でロシア軍相手に数多の兵士の血で贖った貴重な戦訓があったにもかかわらず、日露戦役後には指揮官兵員の敢闘精神を重要視した非常に精神主義的な戦術が重んじられるようになっていく。
精神主義で敵塹壕線を突破することなど不可能なことは、連合国軍と同盟国軍が欧州の大地を血で染めた数々の戦いですでに明らかになっていた。
そこに学ぶことを怠った派遣軍首脳陣は、要塞化された敵陣地への軍兵の無謀な突撃を繰り返した。
その結果が士官の大損耗であり、ヨーロッパの土となった数多の英霊たちだった。
日露戦争の戦訓から学ばず精神主義に傾倒した陸軍幹部達は、また海軍の下風に立つことを良しとせず、海軍の失敗を奇禍として海軍に優越すべく欧州に派遣軍を送り出した者達でもあった。
科学やデータを軽視し人命を疎かにして、精神的優位性という根拠なきものを過信した者たちは戦後その多くが地位権力を失い、主導的立場にあった将官は陸軍を追われてゆく。
浸透戦術とは機動戦である。
敵陣のストロングポイントを避け守りの弱いところに砲火力を集中し、小隊中隊レベルで前線を突破し敵陣の連携を断ち後方を遮断しそれぞれを孤立させ無力化する。
そのために必要なのは小隊分隊レベルでの火力と機動力の強化であり、敵陣に空いた穴を拡げるための迅速な戦力投入であり、敵後方からの増援を阻止するための砲火力と後方偵察であり、そこに導くための偵察力、指揮官の判断力と通信連絡手段である。
旧弊な軍幹部が一掃されたことにより、新世代の陸軍のあるべき形を具現化する動きが欧州戦役の経験者を中心として始まる。
もちろん戦車や航空機の戦力化も進められたが、第一に重要視されたのは部隊の機動力だった。
世界大戦が起こったことによって、急速に兵や武器補給物資輸送の自動車化が各国で進んだ。
しかし遅れてきた工業国である日本では国産の自動車などほぼ皆無であり、高価な工業製品である自動車を大量に輸入し装備するには予算も限られている。
もちろん将来的に国産貨物自動車によって兵員移動の自動車化を進める計画は進められているが、今現在すぐに取り掛かれることとして、兵を鍛えその脚力による機動戦を実現することを目指した。
当然それだけではなく兵の装備を軽量化するために、装備や弾薬、糧食を運ぶ馬匹や自動車を部隊に随行させる等の方策も実施する。
昭和6年に起こった満州事変では、兵站部門の自動車化の進展により、部隊の急速な展開への補給部隊の追随による戦果の拡大を顕著に見ることができた。
その一方昭和7年の上海事変における日中両軍の戦闘から、部隊運用での様々な問題が提起された。
この当時の小隊編制は2 ~ 4 個の小銃分隊と 2 個の軽機関銃分隊から編成されていたが、分隊数が多く指揮運用で困難を生じていた。
そのほか臨時に配分された擲弾筒による火力支援が有効だったことや、小銃分隊と軽機関銃分隊の連携が悪く火力の集中が不十分だったことなども戦訓としてあがっている。
これらの戦訓から、歩兵小隊は軽機関銃を持った3個分隊と火力支援のため、携帯迫撃砲を4筒持つ擲弾筒分隊 1 個の4個分隊で編制されることになった。
さらに歩兵中隊では、4個小隊に加え中隊付き小迫撃砲小隊を加え中隊火力の増大を計った。
小中隊レベルでの通信連絡手段については当面伝令兵を用いるしかなかったが、将来的には無線通信を使用した指揮連絡を目標として技術開発を進めていく。
大正9年から始まった陸軍の戦車開発は、八九式戦車の登場により一応の結果を出した。
しかし最大速度が25キロと低速で、主砲の57ミリ戦車砲も威力半径の不足が指摘され、機動力火力を重視する用兵側からの不満の声により、制式化から3年後の昭和7年より新たな次期中戦車の開発が始まった。
昭和10年に開発が終わり正式化された九五式中戦車は、総重量13.5t、水冷6気筒直列ガソリンエンジン150馬力を搭載し最大速度40キロ、主砲は18.4口径の70ミリ砲を搭載し同軸上と車体前面に6.5ミリ車載軽機関銃を搭載した。
昭和12年に九五式中戦車用の空冷ディーゼル発動機の量産化が始まり、ガソリンエンジン搭載型を甲型としディーゼル発動機を搭載した車両には九五式中戦車乙型の名称がつけられた。
同年には95式軽戦車も正式化される。同戦車は重量8.5トンで最大速度は40キロ、対陣地用の57ミリ戦車砲を積む歩兵直協用と長砲身37ミリ戦車砲搭載の偵察用の2種が生産された。
昭和10年前後には国産自動貨物車両の量産体制も整い、歩兵師団の本格的な自動車化が始まっていく。




